第18話
第18話 黒熱魔核片
獣が動かなくなっても、坑の中の空気は、すぐには軽くならなかった。
誰もが、その場に座り込むか、壁にもたれるかして、ただ、荒い息を整えていた。勝った、という実感より先に、終わったのか、という疑いのほうが、強かったのだと思う。あれだけのものを、火を一度も使わずに、止めたのだ。
崩れた火喰い蜥蜴の、割れた殻の奥で。
あの黒っぽい熱だけが、まだ、ゆっくりと、脈を打っていた。死んだ獣の芯で、何かが、まだ終わっていない。俺は、その魔核から、目を離せずにいた。
止めたのに、消えていない。倒したはずの相手の中で、まだ何かが、息をしているような、薄気味の悪さがあった。
「ボルク、腕を見せて。動かさないで」
真っ先に動いたのは、ニアだった。
ボルクの両腕は、灼けた殻を受け止め続けたせいで、肘から先が、赤く焼け爛れていた。本人は「平気だ」と言ったが、ニアは聞かなかった。荷から布と薬を手早く取り出して広げ、火傷の手当てを始めていく。
「平気じゃない。これ、あとで水ぶくれになる。……痛い?」
「……少しな」
「少しじゃないでしょ。我慢、しないで」
叱るように言いながら、ニアの手つきは、ひどく丁寧だった。誰かが倒したあと、その誰かが負った傷を、黙って継いでいく。派手な力じゃない。だが、この子がいなければ、ボルクは、最後まで角度を固定しきれなかった。
他の上位生の軽い火傷や打ち身にも、ニアは順に、手を回していた。さっきまで外棟を侮っていた連中が、今は、その外棟の少女に、素直に腕を預けている。
「ありがとな、ニア」ボルクが、ぼそりと言った。「お前がいなけりゃ、途中で腕が、言うこと聞かなくなってた」
「当たり前でしょ。それが、わたしの仕事なんだから」
ニアは、そっけなく答えたが、手当てを続けるその横顔は、少しだけ、誇らしそうだった。
カイラが、俺とリシアのところへ来た。
「二人とも、よくやった」
短く、しかし、はっきりと、そう言った。
「最初に、これは低層に出るものじゃないと見抜いて、退けと言ったのは、お前だ、レン。火が効かないと分かったあとの読みも、攻め方も、お前のものだった。リシア、お前の薄膜がなければ、その読みは、絵に描いた餅で終わってた」
腰の帳面を、軽く、叩く。
「全部、記録した。撤退の判断、異常の察知、攻略の組み立て。——鑑定式の紙には、決して出てこない種類の力だ。わたしは、現場で、それを見た」
鑑定式の紙には、出てこない。
その言葉が、妙に、長く、残った。
少し離れたところで、グレンが、こちらを見ていた。カイラの言葉を、聞いていたのだろう。何か言いたげに口を動かして、結局、ふい、と顔を背けた。だが、その目に、もう、最初の頃の侮りは、なかった。火力こそが格だと信じていた男の物差しが、今日、確かに、一本、折れていた。
カイラが、他の生徒のほうへ離れたあと。
リシアは、しばらく、自分の手のひらを、見つめていた。さっき、何十という境目を、張り続けた手だ。
「……役に、立ったんですね」
ぽつりと、そう言った。誰に言うともなく。
「わたしの薄膜が。出来損ないだと、ずっと言われてきた、これが。今日、人を守って、化け物を止める、その一部に、なった」
声が、少し、揺れていた。
「家にいた頃は、結界を張るたびに、また壊れた、また失敗した、と言われました。鑑定式でも、同じでした。わたしは、自分の力を、好きになったことが、一度もなかった。……でも」
リシアは、顔を上げて、俺を見た。薄い青紫の瞳が、さっきまでとは、違う色をしていた。
「今日、初めて。この力で、よかったと、思えました」
言ってから、リシアは、少し照れたように、目を伏せた。それから、もう一度、自分の手を、開いて、閉じた。さっきまで、出来損ないの証だと思っていた手を、確かめるように。
何か気の利いたことを、返すべきだったのかもしれない。だが、俺は、ただ、
「ああ」
とだけ、言った。それで、十分な気がした。出来損ないと判じられた力が、初めて、自分のものになる瞬間を、俺も、ついさっき、知ったばかりだった。
坑を出て、入口の広間まで戻ったとき、待っている人影が、あった。
白を基調にした、研究者風の外套。腰に、いくつもの計器と、封のついた小箱を下げている。歳は、三十そこそこか。冷たいというより、感情の温度を表に出さないタイプの顔だった。
「王都魔核研究院の、ノア・エルヴァルトと申します」
彼女は、実習隊の責任者だと名乗ったカイラに、軽く頭を下げた。「灰雨鉱窟で、記録にない個体の討伐があったと、連絡を受けました。残された魔核を、回収させていただきます」
連絡が、早すぎる。誰も、まだ、正式な報告は上げていないはずだ。だが、ノアは、それには触れなかった。
彼女は、崩れた獣のところまで進み、割れた殻の奥の、あの脈打つ魔核を、覗き込んだ。表情は、変わらない。だが、ほんの一瞬、その目の奥が、動いた気がした。
慣れた手つきで、魔核を、封のついた小箱へ収める。脈打つ黒っぽい熱が、箱の中へ消えても、ノアの顔は、やはり、変わらなかった。
手際が、良すぎた。記録にない個体だと言いながら、まるで、こういう魔核を前にも回収したことがあるかのように、迷いがない。味方なのか、そうでないのか、どちらとも、読めなかった。
「あの」リシアが、訊いた。「その魔核は……普通じゃ、ないですよね。火を、いくら浴びても効かなくて、熱を、溜め込んで」
「そうですね。少々、変わった熱の持ち方を、しています」
ノアは、淡々と答えた。「ですが——異常と断定するには、材料が足りません」
「材料、ですか」
「一個体の、一例だけです。たまたま、そういう個体だった、という可能性を、排除できない。研究院は、推測では、ものを言いません。持ち帰って、調べます。それだけです」
正しい言い分だった。隙のない、研究者の言葉だ。
だが、その「材料が足りない」という言い方が、俺には、どこか、聞き覚えのある響きに聞こえた。正しいことを言っているのに、いちばん見なければいけないものを、見ないことにする。そういう、響きだった。
封をした小箱を手に、ノアが、ふと、こちらを見た。
「ひとつ、伺っても。この個体を止めたのは、火属性の方だと聞きました。火を使わずに、熱を操って、外殻を内側から割った、と。……どなたの、判断でしたか」
「俺です」
ノアの視線が、初めて、はっきりと、俺に留まった。値踏みするような、しかし、どこか興味の混じった目だった。
「火属性で、熱を、抜く。継ぎ目に、温度の差を作る。——独学ですか。それとも、誰かに」
「母に、習いました。魔核の、扱い方を」俺は、答えた。「昔、王都で、魔核を扱う仕事をしてた人です。今は、辺境にいます。ミラ・ハルヴェル、っていう」
ノアの手が、止まった。
ほんの、一瞬。封をした小箱を持つ指が、わずかに、こわばる。表情は、変えなかった。だが、その名前を聞いた瞬間、この、感情の温度を表に出さない研究者の中で、何かが、確かに、動いた。
「……そうですか」
それだけ言って、ノアは、踵を返した。何を知っているのか、何ひとつ、説明しないまま。
呼び止めようとして、やめた。訊いても、この人は、答えない。それは、さっきの「材料が足りません」と、同じ顔だった。
母の名前が、なぜ、王都の研究院の人間を、あんなふうに立ち止まらせたのか。
そのときの俺には、まだ、分からなかった。




