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第17話

第17話 火種の逆転


髪一本ぶんの罅を、俺は、見ていなかった。

見るまでもない。手のひらの先で、熱が、教えてくれる。合わせ目の鱗一枚が、灼けて、膨らもうとしている。その隣の、冷えた鱗は、動かない。膨らむものと、動かないものの境目に、無理がかかる。罅は、そこから入った。

あとは、この一点に、熱を、注ぎ続けるだけだ。

「効いてます」ユノが、声を張った。「さっきの罅、少しずつ、伸びてます。……あと、芯の熱が、暴れはじめてます。逃げ場が、ない、みたいに」

逃げ場がない。リシアが、塞いだからだ。

獣が、唸った。低い、不快そうな唸りだ。体に溜め込んだ熱が、外へ抜けられず、内側で膨れあがっていく。それを、どうにかしようとして——獣は、また、いつもの手を使った。

口を開け、まわりの熱を、吸おうとする。

無駄だ。

吸う先の熱は、もう、ない。リシアの境目が、外の熱との行き来を、断っている。獣に残されているのは、自分が溜め込んだ熱だけ。その熱は、俺が一点へ集めて、殻の継ぎ目を、内側から灼いている。

獣は、自分の体温で、自分の殻を、割られかけているのだ。

皮肉な話だった。こいつは、火を食らい、熱を溜め込むことで、無敵になった。誰の炎も通さない硬い殻を、その熱で、手に入れた。その同じ熱が、今、出口を失って、その同じ殻を、内側から押し開けようとしている。

強さの理由が、そのまま、弱さの場所になる。あいつのいちばん得意なことが、あいつを、追い詰めている。

獣も、それを本能で察したのだろう。さっきまでの悠然とした動きが、消えていた。溜まりすぎた熱を吐き出そうと、何度も口を開け、そのたびに、吸う先のない空気を、無駄に噛んだ。焦りが、巨体の動きに、にじみ出ている。


「ボルク、まだ持つか」

「……問題、ない」

腕の皮が焼けて、声が掠れていた。問題は、大ありだろう。だが、ボルクの足は、一寸も退いていない。獣の頭は、俺が狙う角度のまま、固定されている。

「ニア」

「やってます。ボルクの腕、もう限界が近い。……でも、あと少しなら、保たせます」

「リシア」

「保ちます」短く、しかし迷いなく、リシアは言った。額に汗を浮かべ、何十という境目を、同時に張り続けている。一枚も、緩めない。「あなたが、終わらせて。逃げ道は、わたしが、ぜんぶ塞いでおきます」

グレンは、囮の位置で、歯を食いしばって立っていた。獣の執着を、その身に引きつけたまま、動かずに。

見回す余裕なんて、なかった。だが、分かった。

ボルクは、焼ける腕で、動かさないための力を握り続けている。ニアは、そのボルクが倒れないように、息と血の流れを繋ぎ止めている。リシアは、目に見えない熱の道を、何十も同時に塞いで、一枚も破らせない。ユノは、誰にも見えない中の変化を、ひとつ残らず、言葉にして渡してくる。グレンでさえ、逃げ出さずに、獣を引きつけ続けている。

鑑定で振り分けられたときは、ばらばらの、半端な力だった。補助枠。出来損ない。一人では何もできないと言われた、寄せ集めだ。

その半端が、今、一つずつ、欠けてはならない歯車になっていた。

全員が、それぞれの一点を、持ちこたえていた。

あとは、俺だ。


熱を、絞る。

坑をまるごと温められるほどの量を、たった一枚の鱗の、内側へ。逃がさず、散らさず、ただ一点へ。

頭の芯が、軋むようだった。これだけの熱を、これだけ細く、長く保ち続けるのは、初めてだ。手のひらが、自分の動かしている熱に、灼かれそうになる。それでも、緩めれば、熱はまわりへ逃げ、差は消え、罅は止まる。緩められない。

鱗が、灼ける。赤を通り越して、白く。隣の冷えた鱗との差が、どんどん、開いていく。

熱いものは、膨らむ。冷たいものは、膨らまない。

その差が、鱗と鱗を、引き裂きにかかる。

罅が、伸びた。髪一本が、一筋の線になり、線が、枝分かれする。獣が、悲鳴のような音を上げて、暴れた。ボルクが、踏ん張る。リシアの境目が、軋む。それでも、誰も、離さない。

「もう少し、です!」ユノが叫ぶ。「継ぎ目、もう、限界——」

最後に、ひと押し。

俺は、その一点へ、ありったけの熱を、叩き込んだ。


——ばき、と。


殻が、割れた。

赤黒く膨らんだ外殻の、右前脚のつけ根。鱗と鱗の合わせ目が、内側からの熱に耐えきれず、大きく、裂けた。割れ目から、溜め込まれていた熱が、白い湯気のように、噴き出す。

どれだけ火を浴びても、傷ひとつつかなかった殻が。

あいつ自身が溜め込んだ熱で、割れた。

火では、無理だった。三つ星の《爆炎》を二発浴びても、罅ひとつ入らなかった。外から叩きつける熱は、ぜんぶ、こいつの餌になった。

だが、内側で行き場を失った熱は、餌じゃない。出口を求めて暴れる、ただの圧力だ。それを、いちばん脆い一点へ集めてやれば——どんなに硬い殻でも、自分の内側から、裂ける。

焼くな。閉じ込めろ。

さっき自分で口にしたことの意味が、今、目の前で、形になっていた。


割れた、その先。

殻の下に、熱を溜め込んでいた、分厚い組織が、覗いていた。脈打つ芯——魔核を、何重にも包み込んだ、蓄熱の層だ。火を食らい、熱を溜め、硬くなるための、心臓のような仕組み。

魔核そのものには、手を出さない。出しても、たぶん、俺の力は、届かない。

だが、その周りの、熱を溜める組織なら——届く。

俺は、割れ目から覗くその層へ、最後の熱を、通した。今度は、灼くんじゃない。溜め込まれた熱を、一気に、めちゃくちゃな方向へ、走らせる。整っていた蓄熱の仕組みが、内側から、焼き崩れていく。

獣の、巨体が、震えた。

吸うことも、溜めることもできなくなった体が、急速に、力を失っていく。さっきまで暴れていた四肢が、ゆっくりと、崩れ落ちた。坑を満たしていた、あの重い熱が、行き場をなくして、ただの、ぬるい空気に、戻っていく。

火喰い蜥蜴は、動かなくなった。

完全に息絶えたわけじゃない。芯は、まだある。だが、熱を吸う仕組みも、溜める仕組みも、焼き崩れた。もう、火を食らうことも、殻を硬くすることも、できない。立ち上がる力も、残っていない。

殺さずに、止めた。

魔核を直に砕けば、もっと早く、確実だったかもしれない。だが、俺の力は、そこまでは届かない。届く範囲で、いちばん効くところを崩した。それで、足りた。


坑の中が、静かになった。

誰も、すぐには、声を出せなかった。三つ星の炎を、二発も飲み込んだ獣を。火では、傷ひとつつかなかった獣を。外棟の——補助枠の、出来損ないと笑われた連中が、火を一度も使わずに、止めたのだ。

俺は、まだ熱の余韻が残る手のひらを、見た。

鑑定式で、最弱と判じられた力だ。《火種》。火を点けるしか能のない、戦闘適性なしの、F等級。屈辱と一緒に、貼りつけられた札だった。

その力が、今日、初めて、意味を持った。

火を点ける力としてじゃない。熱を動かす力として。誰かを焼くためじゃなく、誰かを、守るために。

三ヶ月前、鑑定式の水晶の前で、係の大人は、俺の名の横に、短く書いた。戦闘適性——なし。それだけだった。火花ひとつ熾せる、ただの種火。冒険者には向かない。そういう意味の、札だった。

あのとき俺は、何も言い返せなかった。水晶は、嘘をつかない。俺の《火種》は、確かに、火を点けるくらいしか、できない。

だが、誰も、見ていなかったんだ。

火を点けるその力が、裏を返せば、熱そのものを動かす力だということを。火を熾せるなら、熱を、抜くこともできる。集めることも、偏らせることも、どこに、どれだけ、と決めることも、できる。鑑定の物差しは、火の大きさしか測らなかった。その下にあるものを、誰も、見ようとしなかった。

俺は、ずっと、それを、見てほしかった。

今日、ようやく、力のほうが、証明した。言葉でも、等級でもなく、結果で。

俺一人の力じゃない。リシアの境目がなければ、熱は逃げていた。ボルクがいなければ、狙う場所が定まらなかった。出来損ないと笑われた力が、束になって、初めて、一頭の化け物を、止めたんだ。

鑑定が最弱と判じた、俺の《火種》は——その日、たしかに、意味を持った。


「……嘘、だろ」

上位生の一人が、呟いた。あれだけ火喰いを侮っていた連中が、今は、誰も、外棟を笑わなかった。

グレンが、囮の位置から、ゆっくりと力を抜いた。何か言いかけて、結局、何も言わず、崩れた獣と、俺とを、見比べている。火力こそが格だと信じてきた男には、今日見たものを、どこへ収めればいいのか、まだ、分からないのだろう。

リシアが、張り続けていた境目を、そっと解いた。指先が、細かく震えている。自分の薄膜が、たった今、何をしたのか——その手応えを確かめるように、彼女は、自分の手を、見つめていた。

カイラが、腰の帳面を開いて、何かを書きつけていた。さっきまでとは、ペンの走り方が、違って見えた。

記録は、残る。前にそう思ったときは、残るだけだ、誰の判断も動かさない、と続いた。だが、今日の記録は、少し、違う気がした。

グレンが、ようやく口を開いた。

「……お前」

言いかけて、また、黙る。礼を言うべきなのか、悔しがるべきなのか、自分でも決めかねている顔だった。結局、出てきたのは、短い、ぶっきらぼうな一言だった。

「……囮の役は、二度と御免だ」

それだけ言って、目を逸らした。礼の代わりなのだと、分かった。


だが、その静けさの中で。

俺の手のひらが、まだ、何かを拾っていた。

崩れ落ちた獣の、割れた殻の奥。蓄熱の組織を焼き崩した、その中心に、無傷の魔核が、残っている。

その魔核が——脈打っていた。

赤でも、白でもない。あの、内側から戻ってくる、黒っぽい熱。村に持ち込まれた冷めない魔核と、封鎖の奥で聞いた呼吸と、同じ色の熱が、死んだはずの獣の芯で、ゆっくりと、脈を打っている。

とくん、とくん、と。まるで、獣が死んでもなお、その芯だけが、別の何かのために、生き続けているように。

獣は、止めた。

だが、この熱だけは——まだ、終わっていなかった。

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