表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
16/27

第15話

第15話 薄膜の使い道


巨体が、矢のように来た。

グレンは、動けなかった。足場をまるごと外された者の、抜けた顔のまま、迫る赤黒い塊を、ただ見ている。間に合わない。誰の目にも、それは明らかだった。逃げろ、と誰かが叫んだ声は、もう、何の役にも立たない。

巨体が迫る、その最後のひと息のあいだ、グレンの目には、赤黒い殻の表面の凹凸までが、やけにくっきりと映っていたはずだ。死ぬ、と知った人間の、間延びした時間だ。前のほうにいたボルクが、地を蹴って間に合わせようとした。だが、ボルクの腕より、獣のほうが、ずっと速かった。

そのとき、グレンの斜め前に、薄い光の膜が、滑り込んだ。

リシアだった。退避の列を外れ、片手を突き出して、淡く光る一枚を、獣とグレンのあいだへ、差し入れている。

膜は、止めなかった。

止められるはずもなかった。あれだけの質量と速さを、薄い一枚で正面から受け止めれば、膜ごと、張った本人ごと、弾け飛ぶ。事実、膜は、突進の頭が触れた瞬間、甲高い音を立てて、砕け散った。

だが——砕ける、その一瞬の前に。

膜は、まっすぐ垂直には、張られていなかった。ほんの少しだけ、斜めに傾けて、置かれていた。突っ込んできた頭は、その斜面を、滑った。横へ、軌道が、逸れる。数度。ほんの、数度だ。

だが、その数度で、足りた。

まっすぐグレンを潰すはずだった巨体が、その肩先を、かすめて通り過ぎていく。グレンの体は、すれ違いざまの余波で横へ吹き飛ばされ、岩壁にぶつかって、転がった。したたかに打っただろう。だが、潰されては、いない。生きている。

獣は、勢いを殺しきれず、坑道の奥の壁へ頭から突っ込み、土煙を上げて、のろのろと向きを変えはじめた。仕切り直すまでに、わずかな間がある。

その、わずかな間が、すべてだった。獣が向きを変えきる前に、何かを掴まなければ、次はもう、誰かが、避けきれない。


リシアは、突き出した手を、まだ宙に残したまま、その場に膝をついていた。砕けた膜の名残が、指先で、淡い燐光になって、散っていく。肩で、息をしている。あの一枚に、持っているものを、全部、注いだのだろう。

「……だめ、でした」

声が、震えていた。いつもの、上品に刺すような響きは、どこにもない。

「結局、防げなかった。わたしの結界は……いつも、こうなんです。張っても、まともに受け止められず、すぐに砕ける。家の者が、ずっと言っていました。お前の結界は、結界の出来損ないだと。鑑定が出した評価も、その通りでした。……結界貴族の家に生まれて、まともな壁ひとつ、張れない。正統な結界術を継ぐはずだった娘が、鑑定で出したのは、すぐ破れる薄い膜。家の名にとって、わたしは、ただの傷でした。だから、外棟へ送られた。今のも、同じです。守ろうとして、守れなかった。それだけ」

うつむいた横顔を、俺は、よく知っていた。

自分の差し出したものが、また「正しくない」と判じられるのを、相手より先に、自分から認めてしまう顔。そうしておけば、傷が、少しだけ浅くて済むからだ。失敗作、という判子を、何度も、何度も押されてきた者の、諦め方だった。

その判子のことなら、俺は、誰より知っている。


「違う」

気づいたら、そう言っていた。

リシアが、顔を上げる。薄い青紫の瞳が、戸惑ったように、俺を映した。

「お前は、防げなかったんじゃない。逸らしたんだ」

「……逸らした?」

「見てた。お前の膜は、まっすぐ立ってなかっただろう。少しだけ、斜めに置いてた。だからあの頭は、膜を砕きながらも、その斜面を滑って、横へ逸れた。数度だ。その数度のおかげで、グレンは、直撃を免れた」

リシアは、自分の手のひらと、壁ぎわで呻いているグレンと、奥で向きを変える獣とを、順に見た。信じられない、という目ではなかった。そういう見方を、生まれてから一度も、したことがない——そういう、戸惑い方だった。

「もし、まっすぐ壁にして、正面から受け止めようとしてたら、膜は同じように砕けて、今度はお前ごと、潰されてた。壁で受けるってのは、力に力で、真っ向からぶつかることだ。お前の膜に、その強度はない。最初から、ない。だが、お前は、とっさに、ぶつけなかった。受け止める代わりに、滑らせた。力に逆らわず、向きだけ、変えた。お前がやったのは、受け止めることじゃない。受け流すことだ。正面で食い止めるんじゃなく、角度をずらして、力の向きを、変える」

言葉が、勝手に、形になっていく。さっき獣を見ながら掴みかけていたものが、リシアの膜を見て、はっきりした。

「お前の力は、壁を張る力じゃない。境目を、わずかにずらす力だ」

「……でも、それは。結界としては、なり損ないの——」

「結界として測るから、なり損ないになる」

俺は、奥の獣から目を離さないまま、続けた。

「火を点けるだけの力だと、みんなが思ってる俺の《火種》が、本当は、火じゃなく熱を動かす力だったのと、同じだ。お前の《薄膜》も、壁を作る力ですらない。物と物の境目に干渉して、力を逸らす力だ。鑑定の物差しが、ただ、測る場所を間違えてる。それだけだ。間違った物差しで測られ続ければ、誰だって、自分を出来損ないだと思い込む。だが、お前の体は、さっき、迷わず正しいほうを選んだ。お前の力が何なのか、お前自身より、お前の手のほうが、ずっとよく知ってたんだ」

リシアは、何も言わなかった。

ただ、こちらを見たまま、目の縁が、ほんの少しだけ、揺れた。

ずっと出来損ないと言われてきたものの中身を、生まれて初めて、正しい名前で呼ばれた——そういう、揺れ方だった。守られる側に置かれ続けてきた人間が、自分の手が、たった今、人ひとりを守ったのだと、知らされた顔でもあった。

その手を、彼女は、信じられないものでも見るように、見つめていた。さっきまで、出来損ないの証だと思っていた手だ。その同じ手が、たった今、誰かの命を、横へ押しのけた。

「今のは、失敗じゃない」

俺は、もう一度、言った。

「お前にしか、できなかったことだ」

リシアは、まだ、何も言えずにいた。だが、うつむいていた顔は、もう、うつむいていなかった。

「……あなたは」

やっと、声が出た。「どうして、そんなふうに、見えるんですか。誰も、わたしのこれを、そんなふうには、見てくれなかったのに」

「同じだからだ」

俺は、短く言った。それ以上は、言わなかった。言わなくても、こいつには、たぶん、伝わる。

リシアは、しばらく、俺を見ていた。何かを確かめるように。それから、小さく息を吐いて、立ち上がった。膝の埃を払うその仕草に、さっきまでの諦めは、もう、なかった。

壁ぎわのグレンが、何か言おうとして、結局、何も言えずにいるのが、視界の端に見えた。自分が見下してきた外棟の一つ星に、自分の炎が及ばなかった獣の前で、命を拾われた。その事実を、どこへ収めればいいのか、分からない顔だった。

火力こそが格だと信じ、外棟を見下してきた男の足元は、これで、二度、抜けたことになる。一度は、炎を食った獣に。もう一度は、たった今、出来損ないと侮っていた、あの薄い膜に。


言いながら、頭の奥で、何かが噛み合っていた。

逸らす。境目を、作る。力の通る道を、制限する。

——熱の、通り道も。

さっきは、手立てが見えなかった。熱を奪うか、逃がすか。だが、逆だったのかもしれない。逃がすんじゃない。塞ぐんだ。

あの獣は、食った熱を、殻の下に溜め込んでいる。その逃げ道を、リシアの境目で、ぜんぶ塞いでしまえたら——熱は、行き場をなくして、殻の内側に、たまり続ける。膨らみ続ける。そして、熱で膨らんだものは、いつか、それを容れている殻を、内側から割る。

火は、要らない。あいつが溜め込んだ熱を、あいつ自身の殻に、向ければいい。俺は、熱を足さない。ただ、その熱を、殻のいちばん脆いところへ、偏らせてやればいい。

リシアの境目が、要る。俺の、熱の読みが、要る。一人では、どちらも、ただの出来損ないのままだ。

出来損ない同士の、二つの力が、噛み合えば——鑑定が見落としてきたものが、初めて、形になるかもしれない。

できるかもしれない。少なくとも——何ひとつできなかった、さっきまでとは、違う。


土煙の向こうで、獣が、こちらへ向き直った。赤黒い殻が、坑の暗がりの底で、鈍く光っている。溜め込んだ熱を、まだ、その身に抱えたまま。

俺は、立ち上がりかけたグレンと、膝をついたままのリシアと、立ちすくんだまま見ている後ろの皆へ、振り返った。カイラが、こちらを見ている。腰の帳面に手をかけたまま、続けろ、という目をしていた。さっきの逸らしも、今の読みも、この大人は、ちゃんと見ていた。鑑定が測れなかったものを、測れる目で。

「外殻を、割る」

全員の視線が、俺に集まる。

「燃やすんじゃない。逆だ」

獣の、赤黒い殻を、まっすぐ見据える。

「——熱を、閉じ込める」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ