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第140話 名前が、揃う

「並べてみてもいいですか。全部」


 リオネルが、宿の机に帳面を広げて言った。


 本拠から手紙を届けに来た若いのは、朝いちばんに、返事の紙を懐に入れて、馬で本拠へ戻っていった。俺は母さんの握り飯をもう一つ持たせようとして、断られた。


 それから二日、荷馬車は雪の街道をひたすら東へ進み、夜は宿に入った。この宿の二階の、いちばん奥の部屋だった。ランプが一つ、机の端に置いてある。壁の向こうでは、グレンが、鼻に何か詰まったような音で、さっきからずっといびきをかいていた。


 本拠まで、あと二日。夕飯のあと、リオネルに「少しだけ」と呼ばれて、俺とリシアとエレノアが、この部屋に集まった。


 エレノアは、借りたままの袖の長い服で、椅子のはしにきちんと座っていた。グレンのいびきは、二日前よりひどくなっている気がする。


 俺は、机のすみで、母さんの握り飯を一つ、刃の先に刺していた。刃の先に熱を入れて、表面だけ炙る。米の焦げる、いいにおいがした。


「それ、いま要りますか。大事な話のあいだに」


「要らない。ただ、なんとなく手が動く」


「そうですか」


 リオネルはそれ以上は言わず、帳面の頁を、順番に、四枚ならべた。紙が机に当たる音が、一枚ごとに小さく鳴った。


 一枚目は、丸の中に閉じた目の印だった。垂れたまつげの線が、丸の外まで伸びている。


 俺も、見たことがある。六年前、評定の部屋の紙の束の下から、はみ出していた線だ。あのときは、線だけだった。持ち主の顔は、見えない。見えないまま、六年たった。


「神殿から出る紙には、みんなこの印が押してあります。あの依頼書の右下の印も、同じです」


 二枚目は、北の関で握りつぶされた、セイルの報告の控えだった。三回出して、三回とも、受け取りの札だけが返ってきている。リシアが、その頁をしばらく見ていた。セイルがこれを見たら何と言うか、考えているらしい。指先が、頁の端を一度だけ撫でた。


 三枚目は、地下の鉄の扉の札と、エレノアが神殿から持ってきた紙の字を、並べて写したものだ。同じ人の字だった。


 四枚目は、顔のない像の頁だった。『顔、なし』が、六回、縦に並んでいる。


「一つずつ見ると、別々のことです。でも、並べると、全部、神殿の上のほうに繋がっています」


「神殿のしわざ、でいいんじゃないのか。神殿が全部やってるんだろ」


 俺が言うと、リオネルは首を横にふった。


「神殿、で終わらせると、誰がやったのかが消えます。紙には、必ず書いた人がいます。印を押す人も、報告を握りつぶす人も、依頼書を出す人も。その人たちに、命令した人がいるはずです」


「……いちばん上、ですか」


 リシアが言った。机の端の湯のみを、両手で包んでいる。茶は、もう冷めているらしい。口をつけていなかった。


 そのとき、戸が勢いよく開いた。グレンだった。寝ぐせの頭で、片目しか開いていない。


「腹減った。誰か、パン持ってねえか」


「ありません」と、リオネルが言った。


「握り飯なら、あるぞ」と、俺は言った。


「炙ったやつはいらねえ」


 グレンは、それ以上なにも訊かずに、戸を閉めて出ていった。廊下で、誰かの足を踏んだらしい音がした。


 リオネルは、咳払いをして、エレノアのほうを向いた。


「エレノアさん。神殿の、いちばん上は、どなたですか」


 エレノアは、少し黙っていた。


「大鑑定官さま、です」


 はっきりした声だった。ただ、言ったあとで、膝の上の手を、一度ぎゅっと握った。


「鑑定盤の儀を、すべて預かっていらっしゃる方です。神殿の上層の方々も、その方のお許しがなければ、動けないと教わりました」


「会ったことは」


「ありません。お姿を見たことも、ありません。祈りの間のいちばん奥に、お住まいだと」


 エレノアは、ほんの少しだけ、笑うように口を動かした。


「六年、毎朝、像の前で祈りました。でも、大鑑定官さまのことを、誰かが話しているのを、聞いた覚えがありません。お名前も」


「名前も、ですか」


「はい。役職で呼ぶだけです。お名前を口にした方を、私は、見たことがありません。ただ一つ、祈りの間の奥の扉だけは、いつも閉まっていました。掃除の人も、入りませんでした」


「ハーグが手紙に書いた、後ろ盾というのも、その大鑑定官のことか」


「分かりません」と、リオネルは言った。「ただ、同じほうを指しているように見えます。名前が分かれば、確かめられます」


 部屋が、しんとした。壁の向こうのいびきが、ちょうど途切れた。途切れたと思ったら、少ししてまた始まった。


 リオネルは、五枚目の頁を開いて、いちばん上に『上』と一字だけ書いた。その横に、名前を書く欄を、一行ぶん空けた。まだ誰も、そこに入れる字を持っていない。


 十五の春、俺は村で、鑑定盤に手を置いた。その右の手のひらを、一度だけ開いて、閉じた。


 ……顔のない像。名前を呼ばれない、いちばん上の人。


「エレノアさんが持ち出した紙、もう一度、出しますね」


 リオネルは、帳面にはさんでいた一枚を、机に広げた。『神意の乱れによるもの。聖女候補の祈りにより、鎮まった』。祈る前から答えが書いてあった、あの紙だ。


「この余白、見てください」


 紙の下のほうの余白に、字ではない何かが、うっすら走っていた。細い線の、へこみだ。俺がランプを机すれすれまで下げてみると、線の溝に、細い影が落ちた。


「これ、上に重ねた紙に、強く書いた跡です。下にあった、この紙に、筆圧だけがうつっています」


「上にあった紙は」


「ありません。この一枚だけです。捨てたのでしょう」


 誰かが、どこかで、一度、書いて、捨てたのだ。その捨て方が、ずさんだった。


「炙れば、出るんじゃないのか」


 俺は、握り飯をおろして、刃を紙に近づけた。リオネルが、手の甲でそっと、刃を押し返した。


「熱でいたむと、へこみごと分からなくなります」


「……そうか」


 また、外した。握り飯を一口かじって、黙った。握り飯の表面は、まだ少し熱かった。


 リオネルは、暖炉からもらってきた小さな炭のかけらを、ランプのそばで、乳鉢の代わりに皿の底ですりつぶした。細かい粉になるまで、何度も、ゆっくり。


「ランプを、もう少し寄せてください」


 言われたとおりに、俺はランプを近づけた。紙の上に影ができないように、手の向きを変える。


 リオネルは、粉を指先につけて、紙の余白の上で、そっとすべらせていく。「ランプは、そのまま持っていてください。動かさないで」と、リオネルが小声で言った。俺は腕を固めたまま、息だけをゆっくり吐いた。


 握り飯の熱は、いつのまにか冷めていた。


 黒い粉が、紙の上にうすく広がった。


 へこみの中には、粉が入らない。入らなかったところが、白く、細く、残っていく。


 ランプの灯りが、一度、揺れた。


「……読めます」


 エレノアが言った。


「この字は、細くて、右に傾いています。祈りの間を受け持つ方に、この紙を渡した人の字です。その人が、上に重ねた紙に、何かを書き留めたときの……」


 黒い粉の中に、白く抜けた字が、並んでいた。


 エレノアは、その字を、唇だけで二度なぞった。


「……知りません。聞いたことが、ありません」


 聞いたことのない音を、確かめる顔だった。


 リシアが、そっと、湯のみを机に置いた。置く手が、いつもより少しゆっくりだった。冷めた茶は、少しもこぼれなかった。


 紙の余白に残っていたのは、名前が一つだけ。肩書きも、日付も、ない。


 ヴィスラエル。

ここまで読んでくださって、ありがとうございます。

第2部は、この話でひと区切りです。ここまでの紙と印が、ひとつの名前に集まりました。

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