第139話 行くかどうか
返事の紙を、俺は夜のうちに三回書いて、三回丸めた。
一枚目には「行く」と書いた。二枚目には「行かない」と書いた。三枚目は、名前だけ書いて、そこから先が出てこない。
宿の部屋の窓の外が、白くなりかけている。丸めた紙は、机の上に三つ転がっている。ひとつが、ころころ動いて、床に落ちた。拾わなかった。
行く、と書くたびに、フィンの右腕が頭に浮かんだ。十日ほど前、俺が一人で先走った夜のことだ。代わりに、あいつが腕をやられた。布はまだ外れないが、あいつは今でも、重い物を持つとき、うっかり右手を出しかけて、左手に替える。
食堂へ下りると、先客がいた。
リオネルが、暖炉の前の長椅子に座って、帳面を膝にのせていた。寝ていないらしい。目の下が、青い。
「写していたのか」
「はい。手紙を、ぜんぶ」
帳面の頁には、昨日の六行が、あの角ばった字のまま写してあった。止まって、インクがたまる点まで、ひとつずつ描いてある。
「折り目が二重だったのは、迷ったからじゃないか。書いて、畳んで、やっぱりやめようとして、また開いた」
俺が言うと、リオネルは少し考えた。
「そうかもしれません。ただ、あの人は、紙の束をそろえ直すとき、いつも二回そろえていました。手紙の折り方にも、同じ癖が出ただけかもしれません」
「……どっちとも決められないのか」
「はい。決められません」
それ以上は、俺も言い返せなかった。迷いだと読んだのは、俺がそう読みたかったからだ。
そのうちに、ほかの連中も下りてきた。
最初に来たのは、グレンだ。席に着くなり、パンを三つ取った。
「で、行くんだろ。罠だったら、殴ればいい」
ちょうどそのとき、外で荷馬車の車輪が、きい、と鳴った。グレンは、黙ってパンをかじった。
「殴れる相手なら、な」
「殴れねえ罠があんのかよ」
「ある。知らない場所に呼ばれて、中に入ってから戸を閉められたら、殴れない」
グレンは、口にパンを入れたまま黙った。三つめのパンは、手に持ったまま止まっている。
ボルクは、グレンの次に来た。座る前に、窓のほうを見ている。庭の隅に、昨日の若いのが乗ってきた馬が、つながれたままだ。
「あいつ、まだ寝てるのか」
「起こすか」
「いや。……ただ、あいつがここまで来るのを、誰かが見てたら、どうなる。手紙を持ってきた男が、あとをつけられてたら」
手紙の中身より先に、そっちが気になるらしい。
「つけられていない」
声は、戸口のほうからした。ガレスだった。いつもの盾を背負っている。夜明け前から外にいたのか、肩に霜がついていた。
「街道を、昨日の夕方から、ずっと見ていた。あの若いのの前にも、うしろにも、馬も人もいなかった」
ガレスは、それだけ言うと、テーブルの端に座った。パンには手をつけない。ボルクが「ありがとな」と言ったが、ガレスは返事をしなかった。耳の先だけが、少し赤い。
そこへ、昨日の若いのが、寝ぐせのついた頭で下りてきた。両手に、布の包みを持っている。
「あの、これ。レンさんのお母さんからの、握り飯の残りです。四つ。あとは、馬のうえで落としたのと、俺が食べました」
「お前が持たされたんだろ。食え」
「いえ。『これは、ぜったいレンに渡せ』って言われました」
受け取ると、包みの中の握り飯は、冷えて固くなっていた。母さんの握り方だ。ひとつずつ、角度がちがう。あとで炙ろう、と思った。
リシアが下りてきたのは、そのあとだ。外套の前を留めながら、俺の顔を見て、それからインクで汚れた俺の指を見た。
「眠れませんでしたか」
「少しは寝た」
「少しは、ですね」
リシアは、パンを千切って、口に入れずに皿に置いた。
「私の考えを言ってもいいですか」
「聞く」
自分で言って、少し驚いた。リシアも、一拍だけ間を置いた。
「手紙は、後ろ盾の名、と書いています。私たちが、いちばん知りたいものです。それをこれだけ分かりやすく置かれたら、罠の匂いがします」
「だったら——」
「でも、罠だから行かない、とは言えません。罠でなかったときに、あの人が最後の機会を無くします。そして、私たちも」
リシアは、俺のほうを向いた。
「行くなら、向こうが決めた場所では会いません。場所は、こちらが決める。それを返事に書いたらどうですか」
「向こうが、のむか」
「のまなければ、そのときは罠だったと分かります」
「場所を決めるのは、向こうだろ。手紙にもそう書いてあった」
「書いてあったのは、場所を書く、までです。決める、とは書いてありません」
……筋は、通っている。通りすぎていて、少し腹が立った。昨日の夜、俺が三枚丸めても出なかった答えを、リシアは朝食の前に持ってきた。
「俺は、正直、会いたくねえ」
ボルクが、握り飯の包みを見たまま言った。
「六年前、あの人の判ひとつで、外棟が何度も危ない持ち場に回された。理屈は分かってる。ただ、会って、頭を下げられても、俺は何も返せねえ」
「会わないと決める理由にはなりません」と、リオネルが言った。
「分かってる。言っただけだ」
それで、ボルクは口を閉じた。誰も、続きを訊かない。
フィンが、あくびをしながら入ってきて、俺の隣に腰を下ろす。
「何の話?」
「ハーグの手紙の返事」
「ああ、あれか。で、どうやって出すの。あの手紙、取次所の札がなかったよ」
全員が、フィンを見た。
リオネルが、帳面を押さえて言った。
「封筒の角に、札を貼る紙の跡がありました。剥がしてあります」
リオネルは続けた。
「若いのが言っていました。本拠の店に手紙を置いていった郵便屋は、顔を覚えさせず、お金だけ先に払って帰ったそうです。札を外すのは、普通の取次所の人ではありません。同じ人が、返事を拾いに来るはずです。だから返事は、本拠の店に置きます」
「その返事を、誰が本拠まで持って帰る」
ボルクが言った。窓の外に、馬がつながれたままだ。
「あの若いのに持たせる。つけられていない、とガレスが言った。帰りも同じ道だ。俺たちより先に、親父の店に置いてくる」
ボルクは、それ以上は何も言わなかった。
それが、いちばん無難な手だった。二階で寝ている連中は、まだ起きてこない。起きたら、リオネルが同じ話をもう一度する、ということになった。フィンが「二回目は俺がやる」と言ったが、誰も取り合わなかった。
返事の中身も、これで決まりだ。話は聞く。ただし、いまは遠くの仕事があるので、本拠に戻って、全員の顔がそろってからにしてほしい。場所は、こちらから知らせる。
二階から、寝ぼけた誰かの声が、階段を転がるように降りてきた。「……あと五分」と聞こえた。誰に言っているのかは、分からない。夢の中の相手なのだろう、と決めておくことにした。
リオネルが、ペンを走らせて、その文をていねいに紙へ書きつけた。最後に、俺が自分の名前を書いた。止まる癖のない、まっすぐな字で。
「じゃあ、場所を知らせるとき、先に俺が——」
そこまで言って、俺は口を閉じた。
フィンが、スプーンを置いた。皿に当たって、小さく鳴った。
リシアは、何も言わない。ただ、じっとこっちを見ている。
「……いま、俺は、何を言いかけた」
「一人で、先に、でしょう」
リシアが言った。責める声ではなかった。
俺は、テーブルの上のパンを見た。誰かが半分に割って、そのまま置いたやつだ。
「一人で急いで、また失敗するところだった。……今度は、聞く」
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
今回は、返事を出すかどうかを、みんなで話す朝の食堂の回でした。
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