第138話 ハーグの手紙
グレンが油をさしたあと、荷馬車は、さす前よりうるさくなった。
「おかしいな」
グレンは車輪を回して、耳を近づけた。きい、と鳴る。もう一回まわす。きい。
「鳴ってるのは左だ。お前がさしてたの、右だぞ」
俺が言うと、グレンは油の壺と右の車輪を見くらべて、何も言わずに左へ回った。壺の油は、もう半分しか残っていない。
「右がさしすぎで、すべって、あとで外れたりしねえか」
「知らん。車輪は、うちの親父の売り物だ。訊くなら親父にしろ」
「訊きに戻れってのか。五日だぞ」
グレンは舌打ちして、今度は左の車輪に、慎重すぎるくらいゆっくり油をたらした。
宿場町の、宿の裏庭だった。国境の町を出て二日目の夕方で、指がかじかむほど冷えて、雪もちらつきはじめていた。荷馬車は二台とも庭のすみに寄せてある。リシアたちは先に食堂へ入っていた。ボルクだけは宿の門のところで、街道のほうを見たまま動かない。
そこへ、馬の蹄の音が飛びこんできた。
門を抜けてきた馬は、腹まで泥だらけだった。乗っているのは、十七、八の若いのだ。本拠の広場で、ロイに木剣で背中を叩かれていた四人のうちの一人だと思う。名前は聞いたはずだが、思い出せない。
若いのは馬から降りるとき、膝が折れた。ボルクが片腕でつかまえて、立たせた。
「外塔の、レンさんですか」
「そうだ」
「親父さんからです。二日半、ほとんど寝てません。馬は、途中で二回替えました」
懐から出てきた封筒は、汗でふにゃふにゃになっていた。
「何かあったのか」
「分かりません。四日前の朝、郵便屋が店に置いていったそうです。お金は先に払ってあって、渡した人の顔は覚えてないって。親父さんが、これだけは先に渡せ、ほかの荷はあとでいい、と」
「母さんは」
「握り飯を、十二個持たされました。三つ、落としました」
そこまで言うと、若いのは座りこんだ。ボルクが「飯」と短く言って、宿の中へ引きずっていった。
封筒は、ありふれた薄茶色の紙だった。表に、一行だけ。
『外塔の者へ』
差出人の名は、どこにもなかった。封蝋も印も、押してはいない。字はどれも角ばっていて、定規を当てて引いたように見えた。
裏返すと、すみに、別の字で一行だけ書き足してあった。親父の字だ。
『気味が悪い。開ける前に、誰かに見せろ』
……家にいたころ、毎晩、店の売り上げの帳面で見ていた字だ。気づいたら、親指でその行をなぞっていた。二日半、寝ずに走ってきた若いのの顔が、頭に浮かんだ。
食堂の奥のテーブルで、リシアとリオネルが並んで食べていた。向かいではフィンが、スープの皿の横に、あの焼き物の人形を立てている。皿に当たって、倒れる。また立てる。
封筒をテーブルに置くと、リシアが先に表書きを見た。
「差出人がありませんね。神殿でしょうか。依頼書の紙とは、ちがいますけれど」
「俺もそれを考えた。字を変えて、よこしてきたのかと」
リシアは、それには答えなかった。リオネルが、スプーンを置いたからだ。
リオネルは封筒を手に取らず、顔を近づけて表書きを見ていた。
「少し、いいですか」
帳面を出して、頁をくる。止まった頁には、細かい字にまじって、小さな署名が写してあった。六年前、学院の評定の部屋で、書類の決裁欄が削られていた。削った跡の下に、もとの署名がうっすら残っていて、リオネルはそれを写したのだ。リオネルは字を写すとき、インクのにじみまで写す。
「『の』と『へ』の、最後を見てください」
リオネルの指が、表書きと帳面のあいだを行ったり来たりした。
「払うところで、一度止まっています。止めてから、抜いている。止まったところにインクがたまって、小さい点になります。ふつうは勢いのまま抜けるので、こうはなりません」
封筒の「の」の最後に、たしかに黒い点があった。帳面の署名の最後にも、同じ大きさの点が描いてある。
「角ばらせたら、字は別人みたいになるだろ」
「形は変わります。でも、ペンを動かす順番と、止まる場所は、体が覚えているので。僕が同じことをしても、きっと『リ』の最後で、いつもの癖が出ます」
「誰の字だ」
「ハーグ元評定長のです」
フィンが、人形を倒した。誰も拾わなかった。
「ただ、僕が比べたのは、名前の部分だけです。文章を一通まるごと見たことはありません。同じ人の字だと、僕は思います。それ以上は、言えません」
「そんな小さい点を、六年も覚えてたのか」
「覚えていたというより、写したときに引っかかったんです。止まるのが、おかしくて。そのあとも、ときどき開いて見ていました。理由は、自分でもよく分かりません」
リオネルは、帳面の署名の点を、ペンの尻でそっと押さえた。
リシアは、封筒を見たまま、スプーンを一度持ち上げて、また置いた。
「いまどこにいるのか、分かる人はいますか。あの方が」
「学院は、もう辞めてる。そのあとは、知らない」
「学院の記録にも、退任の日付しかありませんでした」と、リオネルが言った。「行き先の欄は、空でした」
「どっかで、草でも刈ってるんじゃない?」
フィンが言った。みんな、一瞬だけフィンを見て、何も言わずに視線を戻した。
あの人は、評定の部屋の扉の前で、一度だけ足を止めた。振り返らずに、深く頭を下げて出ていった。手紙を書く人だとは、思っていなかった。そもそも、あの人が何を考える人なのか、俺はほとんど知らない。
食堂の戸が開いて、冷たい風が入った。新しく外塔に加わった盾持ちのガレスが、戸口で肩の雪を払っている。遅れて、ようやく追いついたのだ。誰も声をかけなかったが、ボルクが、空いていた席の椅子を足で引いた。ガレスは黙ってそこに座り、出されたパンを半分に割った。テーブルの上の封筒を一度だけ見たが、何の手紙かは訊かなかった。
「で、開けるのか」
フィンが言った。人形は、また倒れている。
罠かもしれないし、罠じゃないのかもしれない。どちらにしても、読んでみるまでは分からないことだ。……読んでから考える、というのは、前にも一度、言った気がする。あのときは、あまりうまくいかなかった。
フィンが、人形を立て直しながら言った。
「このスープ、冷めてるよ」
「誰もスープの話はしてない」
グレンが、車輪の油でべとべとの手のまま、食堂に入ってきた。
封は、親指ではがした。中は便箋が一枚だけで、折り目が二重になっていた。一度折って、広げて、折り直してある。評定の部屋で、ハーグが紙の束をそろえ直していた手を思い出した。
「待ってください」
リシアが、開きかけた俺の手に、手を重ねた。
「紙に仕掛けがある手紙も、あります。あぶると字が出るとか、粉がついているとか」
「あぶるなら、俺の仕事だな」
便箋をそっと開き、字のほうを下にして、裏から熱を入れた。文面は、まだ見ない。パンの耳が温まるくらいの、いちばん弱い熱だ。それを紙の端から端へ、ゆっくり動かしていく。焦げるところまでは、いかせない。
紙の裏にも、何も浮かんでこない。指でこすっても、粉はつかなかった。
何も出なかったのに、かえって少し落ち着かなくなった。何かあるほうが、まだ分かりやすい。
「普通の手紙、ですね」
リオネルが言った。グレンが「燃やしたほうが早かったろ」と言ったが、リシアは聞いていなかった。
表に返すと、角ばった字が、六行並んでいた。俺は、声に出して読んだ。
『外塔の者へ。
差出人は書かない。書けば、読まれないと思うからだ。
お前たちが追っている紙の流れを、私は、途中まで見ていた。
途中から先は、見えなかった。見せてもらえなかったからだ。
来る気があるなら、返事は郵便屋に預けてくれ。次の便で、場所を書く。
後ろ盾の名を、知りたければ来い』
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
今回は、一通の手紙が届く回でした。字の癖だけで誰かが分かる、というのを書いてみたかったです。
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