第137話 鑑定神の像
第137話 鑑定神の像
「……なし。これも、なし」
荷馬車の荷台で、リオネルが帳面をめくりながら、同じことを小声でくり返していた。
国境の町を出て、二日目の昼だった。雪の残る街道を、荷馬車が二台、東へ進んでいる。本拠のある村までは、まだ五日かかる。
前の一台は、ボルクが手綱を持っている。ニアとノエルは、その荷台で毛布にくるまっていた。ボルクは、さっきから何度も、うしろの道を振り返っている。ガレスは、まだ追いついてこない。
うしろの一台に、俺とリシアとフィンとエレノア、それにリオネルが乗っていた。手綱を持つのはグレンだ。左の車輪が、回るたびにきいきい鳴る。次の町で油をさす、とグレンはけさから三回言った。
「リオネル。何が、なしなんだ」
俺が訊くと、リオネルは顔を上げた。ペンを耳にはさんでいる。
「顔です」
「顔?」
「聖教国で見たものを、まとめ直していました。人のことを書くときは、顔の特徴を一行入れることにしています。筆跡と顔を一緒に覚えておくと、あとで照らし合わせやすいので」
「俺の欄にもあるのか」
「あります」
リオネルは、頁を何枚か戻して、指で押さえた。『レン。顔、眠そう。機嫌の悪いときも、同じ顔』
……ほかに、書くことはなかったのか。
リシアが、横から帳面をのぞきこんだ。自分の欄を探しているらしい。リオネルは何も言わずに頁を先へめくって、帳面をこっちへ向け直した。
細かい字が、びっしり並んでいる。ところどころに、小さな絵もある。
「これが、都に入った日の、通りの壁画です」
覚えている。白い衣の背の高い人が、丸い盤を頭の上に掲げている絵だ。絵の下の壁に、鑑定神、と字が刻んであった。
リオネルの字で、こう書いてあった。
『盤の縁の模様、村の鑑定盤と同じ。指は五本、爪まで描いてある。衣のひだ、左に七本。顔、なし』
「次が、神殿の広間の、白い石の像。その次が、祈りの間の扉の浮き彫り。宿の台所の棚にあった、小さな木の像。山越えの峠にあった、祠の像。それから、都の人が首から下げていた札の、裏に刷ってあった小さな絵」
リオネルは、一つずつ指でたどった。どの項目も、最後の行が同じだった。
『顔、なし』
「一つずつ書いていたときは、気にしていませんでした。壁画は、そういう描き方なんだろうと思いました。石の像は、古いから。木の像は、彫った人が下手だったのかな、と」
「俺も、壁画は見た。あの絵だけのことだと思ってた」
言いながら、思い出した。あのとき、顔のところはただの白い丸で、それがこっちを向いていた。気味が悪いとは思った。それきり、考えなかった。
峠の祠の像も、覚えている。山を越える途中、道ばたの小さな屋根の下に立っていた。日を背にしていたから、のぞきこんでも顔は暗くて見えなかった。見えなかったんじゃなくて、なかったのかもしれない。
「……古いのは、削れたんじゃないのか。顔は出っぱってるから、先にすり減る」
俺が言うと、フィンが「あっ」と声を上げた。
布で首から吊った右腕はそのままで、左手だけで、足もとの袋をごそごそやっている。出てきたのは、手のひらにのるくらいの、焼き物の人形だった。
「これ。都の屋台で買ったやつ。サラにやろうと思って」
「サラは、そういうの喜ぶのか」
「知らない。でも、棚に置くとこはあるって言ってた」
フィンは、人形を荷台の板の上に立てようとした。荷台が揺れて、すぐ倒れた。三回立てて、三回倒れた。四回目で、あきらめて膝にのせた。
白い衣の人が、小さな盤を掲げている。焼いてから、まだそんなにたっていないのだろう。どこにも欠けがない。
顔のところは、つるりと丸いだけだった。
「新しいですね」
リオネルが言った。
「削れたんじゃなくて、最初からありません。この形の型で、たくさん作っているはずです」
「じゃあ、顔を作るのが難しいからか。小さいものほど、顔はつぶれる」
「それは、考えました」
リオネルは、フィンのほうを見た。
「フィンさん。金貨を、一枚いいですか」
「えっ、なんで」
「見るだけです」
フィンは、しぶしぶ腰の袋から金貨を一枚出した。聖教国でもらった報酬の残りだ。端に、小さな歯形がついている。
「それ、本物か確かめただけだからな。かじったら、リシアがすごい顔して——」
フィンの話は、誰も聞いていなかった。
リオネルは、金貨を裏返して、日にかざした。俺も、のぞきこんだ。
表には、字が並んでいる。裏には、あの人が彫ってあった。指の先くらいの大きさで、盤を掲げている。
盤の縁に、細かい模様が刻まれていた。指の腹でなぞると、十五の春に村で触った盤の縁と、同じでこぼこがあった。衣のひだも、数えられる。顔のところだけが、平らだった。
「これだけ細かく彫れる人が、顔だけ彫れなかったとは思えません」
リオネルは、金貨をフィンに返した。フィンは受け取って、歯形のついたほうを上にして、袋にしまった。「歯の跡、まだ残ってる」と、誰にともなく言った。
……全部、か。
荷台が揺れた。車輪が、また、きいと鳴った。
「エレノアさん」
リオネルが、ためらいがちに声をかけた。
「神殿にいたあいだ、鑑定神の顔について、何か教わりましたか。本に書いてあったとか、誰かが話していたとか」
エレノアは、少しのあいだ黙っていた。膝の上で、右手の親指が、左手の指の付け根を一つずつ押している。
「毎朝、広間の像の前で、祈っていました。六年」
「はい」
「お顔のことを、考えたことがありませんでした」
エレノアは、自分の指を見ていた。
「神さまは、盤を通して私たちを見てくださる。そう教わっています。……見てくださる側のお顔のことは」
そこで、言葉が止まった。親指が、薬指の付け根を押したまま動かなくなっていた。
リシアが、エレノアの横で、外套の前を合わせ直した。何も言わなかった。
俺は、自分の右の手のひらを見た。十五の春に、村で鑑定盤に置いた手だ。聖教国の門でも、置かされた。
俺は、その手を一度握って、開いた。
前の荷馬車から、ボルクの「おい、止まれ」という声がした。馬が、道ばたの枯れ草に首を突っこんでいる。グレンが、うしろの荷馬車も止めた。
「足が冷てえ。なあ、誰か替われよ」
グレンが振り向いて言ったが、誰も返事をしなかった。
ボルクは御者台から降りて、街道のうしろのほうをしばらく見ていた。白い道がゆるい坂になって、林の向こうへ消えている。誰も来ない。ボルクは馬の首をたたいて枯れ草から引きはがすと、何も言わずに御者台へ戻った。
リオネルは、帳面の新しい頁を開いた。揺れる荷台の上で膝を立てて帳面を押さえ、インク壺にペン先を一度つける。壺のふたは閉め忘れて、横からリシアに黙って閉められた。
いちばん上に、一行だけ書く。『顔を見た者』。
その下で、ペン先を紙の上に止めたまま、しばらく動かなかった。
「本で読んだ、でもいいんです。昔の絵、でも。どこかに一つでも、顔のある鑑定神があれば、それを書けばいい」
ペン先から、インクが一滴、紙に落ちた。
リオネルは、それを指でこすった。にじんで、頁の上のほうが、少し黒くなった。
「でも、この帳面にも、エレノアさんの六年にも、一つもないんです」
フィンが、人形を手のひらにのせたまま、じっと見ている。
リオネルが、顔を上げた。
「これ……最初から、誰も"神の顔"を知らないんじゃないでしょうか」
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