第136話 正しさは一人で背負うものではない
第136話 正しさは一人で背負うものではない
牙の欠けた雪牙は、一度だけ門にぶつかって、はじかれた。
ガレスの盾から広がる光の壁と、岩みたいに固まったボルクの体。二つが重なったところだけ、光が濃い。大きい雪牙は、そこに頭を打ちつけて、雪の上に尻もちをついた。
それから、左の前脚を引きずりながら、日の当たる雪の斜面を、一度も振り返らずに下りていった。
ガレスは追わなかった。光を消して、盾を下ろした。
右手には、軍からの通達の紙が、まだ握られたままだった。
『尾根の砦は、これを廃する。守りは、ふもとの関に寄せる』
紙を持ってきた荷運びのトマが、言いにくそうに口を開いた。トマだけは、ガレスを家の名で呼ぶ。
「ヴァルド。お前の名前のことも、関の書記に訊いた」
「言え」
「名簿の上じゃ、お前は二年前に、ほかの連中と一緒に関へ引きあげたことになってる。引きあげた先で、どこの隊にも入ってない」
「……続けろ」
「だから、今度の紙にも、お前の名前はない。十日のうちに関から人が来て、使えるものを運び出すそうだ。そのときにも、お前の名前は呼ばれない」
ガレスは、少しのあいだ黙っていた。
「そうか」
それだけだった。少しして、ガレスはトマに訊いた。
「麦の代金は、誰が払っていた」
「関の倉だ。帳面には、お前の名前じゃなくて『尾根、予備』って書いてあったらしい。誰も中身を確かめないから、二年そのまま通ってた」
「二年ぶん、麦をもらっていたわけだ」
ガレスは、それだけ言ってうなずいた。
俺は、怒るかと思っていた。二年、一人で門に立った。その二年は、軍の帳面のどこにも書かれていない。
ガレスは怒らなかった。通達の紙を四つにたたんで、角をそろえて、外套の内側にしまった。そのしまい方が、ていねいすぎた。
中庭の井戸のふちに、みんなが集まっていた。
ボルク、グレン、帳面係のリオネル。夜明け前に町の宿から上がってきた、リシアとエレノア。それに俺。外塔の十五人のうち、ここにいるのは六人だ。
「……ちょっと、いいか」
俺は、井戸のふちに座った五人を見回した。
「ガレスを誘いたい。外塔に入らないか、って」
外塔に誰かを入れるときは、全員で手を挙げて決める。本拠を出る前から、そう決めている。
「全員はいないけどな」
グレンが言った。
「だから、ここにいる六人の手は、いま挙げる。残りの九人の手は、本拠に帰ってからだ」
俺は言った。
リオネルが、帳面を開いた。
「入れていいと思う人は」
グレンが、両手を挙げた。
「片方は、宿で寝てるフィンのぶんだ。あいつ、絶対に挙げる」
「代わりは、だめです」
リオネルに言われて、グレンは片手を下ろした。
リシアは、グレンの手を見ないようにして挙げた。エレノアは少し遅れて、膝の上で一度手を開いてから。俺も挙げた。リオネルは、自分の手を挙げてから、帳面に印を五つつけた。
ボルクだけが、挙げていなかった。
「ボルク」
「……あいつの返事が先だ」
ボルクは、門のほうを見ていた。ガレスは門の柱の前に立って、何もない斜面を見ている。グレンのときも、セイルのときも、ボルクは真っ先に手を挙げていた。
俺が行った。
「ガレス。外塔に来ないか」
ガレスは、振り向かなかった。
「持ち場がなくなったから、来い、ということか」
「そうだ」
言ってから、ほかの言い方もあったなと思った。思っただけで、言い直さなかった。
「仕事なら、ある。北の関で冬に働いたし、聖教国の神殿にも行った。盾がいれば助かる場面は、いくらでも——」
「仕事の話は、していない」
ガレスが、やっとこっちを向いた。
「持ち場を取り上げられて、行き先がなくなった。そこへ、拾ってくれるという声がかかった。それに飛びつけば、私は拾われた側になる」
「拾うつもりはない」
「お前がどういうつもりかは、関係ない。私が、どうするかだ」
俺は、何も返せなかった。
エレノアが、井戸のふちから立ち上がった。
「私も、場所をなくしてから来ました」
ガレスは、エレノアを見た。
「神殿を出たのは、私です。でも、破門の紙を受け取ったのは、そのあとでした。自分で出たのか、追い出されたのか、いまでも、どちらとも言えません」
「……それで、どうした」
「鍋を洗いました」
ガレスの眉が、少しだけ動いた。
「宿の台所で、三日ほど。それから、外塔に入りました。素直に喜べたかというと、喜べていません。いまも」
エレノアは、それだけ言って、また井戸のふちに座った。
ガレスはしばらく何も言わずに立っていたが、やがて、井戸のところへ歩いてきた。内側のくぼみに手を入れて、椀を一つ取り出す。ゆうべ、麦と雪を入れて置いた椀だ。けさ井戸から吹き上げた熱い風のせいか、麦は朝を待たずにふやけきっていた。
ガレスは、その麦を、立ったまま食べた。木の匙で、一口ずつ、椀の底が見えるまで。井戸の口からは、もうぬるい空気しか上がってこなかった。
「……まずい」
「知ってる」
ボルクが言った。
トマが、残りの麦の袋を見て、一つかみ口に入れた。「生だとなおまずい」と言って、袋の残りをらばにやった。裏の坂の途中で動かなかったらばが、それだけは歩いてきて食べた。
ガレスは椀を空にすると、雪をひとつかみ入れてこすってから、井戸のふちに置いた。
「条件がある」
「言え」
「持ち場がほしい。私の受け持ちだと、はっきり決まった場所が」
俺は、ボルクを見た。外塔の盾役は、もうボルクがいる。前に立って受けるのは、昔からボルクの持ち場だ。
ボルクは、少し考えてから、言った。
「本拠にも、入り口は二つあるだろ。表の戸と、裏の荷車口だ」
「……どういう意味だ」
「片方は、俺がやる。もう片方を、お前がやれ」
ガレスはボルクを見ていた。それから、この砦の門と崩れ口を、一度ずつ見た。二年のあいだ、一人で行ったり来たりした十歩だ。
「……分かった」
ボルクが、そこでやっと手を挙げた。
「返事は、聞いた」
リオネルが、帳面にもう一つ印をつけた。六つ。そのあとで、名簿の写しを開いて、端に小さく「仮」と書いた。
名簿のいちばん下、エレノアの名前の次の行が空いている。
ガレスは、ペンを受け取って、そこに名前を書いた。太くて、角ばった字だった。家の名まで、きっちり書いた。
昼すぎに、下りることになった。
グレンは、腹が減ったと言いながら、真っ先に裏の坂でらばの尻を押している。リシアとエレノアは、そのあとに続いた。リオネルは、門のわきの壁のひっかき線を一本ずつ帳面に写した。何を数えた線なのか、誰にも訊かなかった。写し終えると、裏の道へ向かった。
俺も裏の道へ向かいかけると、リシアが坂の上で待っていた。
「説明は、下りながらうかがいます。半日で戻ると言って、ひと晩帰らなかったところからです」
「長いぞ」
「下りる道も、長いでしょう」
リシアは、俺が持っていた手袋のほうを見た。返せ、とは言わなかった。
門のほうを振り返ると、ガレスは、柱の前に立ったままだった。
「先に行ってくれ」
盾を、左腕に通し直している。
「最後に、見回ってから下りる。崩れ口の石も、少し積み直しておきたい。もう誰も守らないにしても、獣の通り道になるのは、まずい」
「一人でか」
「一人で足りる」
ガレスは、門のわきの壁のひっかき線を、一度だけ見た。
ボルクが、裏の道へ向かいかけた足を止めた。振り返って、ガレスの顔を見た。
「また一人でやろうとしてるだろ。顔でわかる」
ガレスは、盾の革帯を締める手を止めた。
門の外の斜面を、もう一度だけ見てから、言った。
「……奪われた場所の分まで、ここで返す」
お読みいただき、ありがとうございます。
次回、外塔は本拠へ戻ります。
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