第141話 西方へ
「壊れていませんでした」
ノアは、記録部屋の床に座りこんだまま、そう言った。
本拠に着いた日の夜のことだ。荷馬車を庭に入れて、親父の店で夕飯を食い、二階へ上がると、部屋のまんなかの床に、見覚えのある人が座っていた。細長い箱に入った計器を、膝の上に抱えている。王都の研究院で、俺の母さんの名を覚えていた人だ。三日前から、この部屋で待っていたらしい。手紙では信じてもらえないと思って、自分で来たのだそうだ。親父が、そのあいだ毎日、茶を出していたという。
「壊れていない、って」
「六年前の査問の日から、計器の針が動かなくなっていました。故障だと思っていました。でも、直そうとして分解して、気づいたんです」
ノアは箱のふたを開けた。中の針は、ほとんど動いていない。ただ、ほんの少し、同じ方向へ傾いたまま、止まっている。
「動かないのではなく、一方向を指したまま、離れないのです。ここで測っても、王都で測っても、北の村で測っても、同じ方角を」
ノアは、窓の外を指した。夜の空の、いちばん低いところだった。
「西です。ずっと西。砂漠の国のほうです」
「サハリムか」
「はい。古代の遺跡が、いくつも埋まっている土地です。針は、そのどこかを指しています」
リオネルが、床に広げた地図の西のはしに、ペンで丸をつけた。
行くのは、ノアを入れて十二人。残るのは五人で、誰が残るかは、リオネルの案をみんなで一回ずつ直して決めた。
ほかの連中は、庭で荷物をおろしている。階段の下から、ユノが、こっちを見上げていた。何も言わない。ラグは、その後ろで、あくびをしている。
メイが、俺とリシアとリオネルとノアの分のお茶を、四つ持って上がってきた。床にそっと置いて、そっと部屋を出た。置いたことに気づいたのは、ノアが湯のみを手に取ってからで、それまで誰も見ていなかった。ノアは、誰に向けてか分からないまま、小さく礼を言った。
「来てくれ、とは言いません」
ノアは、湯のみの湯気を見ながら言った。
「ただ、一人で行ける場所ではありません。それに、これを見てもらわなければ、私も、確かめようがありません」
俺は、リシアの顔を見た。リシアは、先に頷いた。
……ハーグに出した返事への、向こうの答えは、まだ来ていない。リオネルが、階下の親父に訊きに行って、戻ってきた。
「便は、来ていません。箱は空でした」
「じゃあ、先に西だな」
「戻ってきたら、こちらから呼びます。そう伝言を残しておきます」
リオネルは、地図の丸の横に、小さな字で書き足した。
支度に十日かかった。出発の朝、親父は荷馬車の車輪を右から左へ順に確かめて、黙って油をさし足した。母さんは、握り飯を三十個、布に包んで荷馬車に積んだ。「砂漠で腐るぞ」と親父が言ったが、母さんは「塩を多めにした」とだけ答えた。ロイは、庭の端で、若いのの背中を木剣で叩いていて、こっちを見もしなかった。ただ、荷馬車が動き出してから、一度だけ、木剣を持った手を上げた。
三十日近く進んで、俺たちは、砂の上にいた。
馬と荷馬車と、途中からは荷物の一部をラクダに移して、ずいぶん遠くまで来た。昼は、足の裏が焼けるほど暑い。夜は、水が凍るほど冷える。口の中の砂は、洗っても落ちなかった。
グレンは、砂漠に入って三日目に顔の皮をむいて、それ以来、ずっと布を頭から垂らしている。サラは、毎朝、ラクダの毛布から夜露を寄せ集めて、水筒の底をぬらしていた。たいした量ではないのに、一日中、機嫌がよかった。
フィンの右腕の布は、道の途中で、ようやく外れた。外した日、あいつは、鈍ったと言いながら、左右の指を何度も動かしていた。糸はまだ出していない。出せるのかどうかも、誰も訊かない。
その日の昼すぎから、砂の中に、石の柱の頭がぽつぽつと突き出している場所が続いた。人の背丈より少し高い。どれも、半分以上は砂に埋まっていて、表面には、削られた線がうっすら残っていた。
「古代の石です」と、ノアが言った。「ここから先は、ずっと、こういうものが続きます。掘るのは明日にしましょう。暗いと、見落とします」
リオネルが、柱の前にしゃがんで、帳面を膝に広げ、線を写そうとした。風が吹くたびに、砂が線を埋める。三回、描きかけて、三回とも、あきらめた。グレンが、柱を蹴って「ただの石だろ」と言い、ガレスに、黙って襟をつかまれた。
俺は、柱の横を通るとき、何となく手のひらを当てた。夕方で、日はとっくに傾いている。それなのに、石は、日なたの石よりも熱い。
昼の熱が残っているだけだ、と、自分に言い聞かせた。誰にも言わなかった。
野営の火のそばで、ノアは、膝の上の計器を、じっと見ていた。
針が、前より、強く傾いている。
「近いです」
「どのくらい」
「分かりません。ただ、北の村で拾った黒いかけらを近づけると、針は、いちばん強く傾きます。同じものが、この先にあるんです。それも、ずっと大きなものが」
ノアは、少し間を置いた。
「ここから先は、馬も荷馬車も、置いていくことになります」
ノアの横顔は、火の明かりのせいか、出発のころよりずっと痩せて見えた。
「無理は、していないか」
「しています」
ノアは、あっさり言った。
「ただ、六年、止まっていた針が、強く傾き出したんです。止まる理由が、ありません」
俺は、返す言葉を探した。見つからない。ノアも、返事を待ってはいなかった。
ノアはそれきり黙って、計器の箱を抱いたまま、火の向こうで、毛布にくるまった。
夜の見張りは、俺とリシアの番だ。
火から少し離れた砂の上に、並んで座った。月は出ていない。星だけが、おかしいほど多い。風が、砂を細く運んでいく音が、ずっと聞こえていた。
リシアは、砂をひとつまみ手のひらに取って、風に流した。細い線になって、すぐ見えなくなる。「砂には、境界を引けませんね」と、独り言のように言った。砂に引く気だったのか、とは訊かなかった。訊いたら、本当に試しそうだったからだ。
「ハーグの返事のことを、考えていますか」
リシアが、前を向いたまま言った。
「考えてる。置いてきた気がする」
「まだ、置いてきてはいません。こちらの返事は、出してあります。あとは向こうが読むだけです」
「……そうだな」
「戻ったら、全員でハーグのところへ行きます」
リシアは、それ以上は足さない。足さなくていい、という言い方だ。俺は、「分かった」と、小さく言った。
少しして、リシアが、自分の膝に外套をかけ直した。風が強くなっていた。
カイルが、遠くの毛布の中から、「靴の中が、全部砂だ。もう靴が砂だ」とぼやいたが、誰も返事をしなかった。
ラグが、ラクダの手綱を持ったまま、少し離れたところに立っていた。さっきから動かない。
「寝ないのか」
「寝る。……ただ、足の下が、やけに静かだ」
ラグは、そう言って、砂を見ていた。何かを見ているというより、聞いているように見えた。
「静か、って」
「こんな砂の上なのに、風の音が、地面から返ってこない」
ラグは、それだけ言って、毛布のほうへ戻っていった。ラクダが一頭、その背中を長いまつげの下からしばらく目で追って、それから興味をなくしたように首をおろした。
俺は、立ち上がった。尻についた砂を、手で払う。足の裏が、じわりと熱かった。
あしもとの砂の下に、うっすらと、黒い光が漏れていた。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
今回から、舞台が砂漠に移ります。新しい章のはじまりです。
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