第13話
第13話 火喰い蜥蜴
息の音が、近づいてきた。
封鎖札の向こうの黒い穴で、何か大きなものが身じろぎする気配があった。朽ちた札が、縄ごと内側から押しのけられ、乾いた音を立てて崩れ落ちる。残っていた縄が、ぷつりと切れた。
それは、穴から這い出てきた。
急ぐ様子は、なかった。長い胴をゆっくりと引きずり、太い四肢で岩を踏みしめ、こちらの人数を数えでもするように、低い頭を一度、左右へ振る。低く、長い、蜥蜴に似た獣だった。荷馬車ほどもある背を覆う殻は、冷めた炭のように黒い。割れた鉱石の、あの黒さと同じだった。ところどころに、深いひびが、地割れのように走っている。
近づくにつれ、坑道の空気が、変わった。
獣のまわりの空気が、陽炎のように揺れて見える。熱が、四方から、獣のほうへ吸い寄せられていく。じっとりとした坑の冷気が、こいつのいる一帯にだけ、届かない。手の中に残していた焦げた石が、また芯から熱を引かれて、ほんの少し冷えた。あの封鎖の奥で聞いた呼吸が、今、目の前で、胴を持ち、足を持っている。
大きさより先に、場所が、おかしいと思った。
これは、掘り尽くした低層の坑に出る獣じゃない。素材屋の店先で、前線帰りの冒険者たちが、酒を片手に交わす話の中に、こういう獣がいた。深い層、魔境に寄った層にだけ棲み、火を食らうと言われる類の変異種。本来なら、こんな浅い坑で出くわすものではない。
あるはずのないものが、いちばん危ない。前線で生き延びてきた者たちが、口を揃えて言っていたことだ。手強いかどうかより先に、そこにいる理由があるかを見ろ、と。
理由が、ない。ここにいる理由が、何もない。出てきていること自体が、間違っている。それだけで、引くには十分なはずだった。
「……それ、です」
ユノが、壁から手を離して、後ずさった。声が震えていた。「ずっと奥にいた、揺れてたやつ。出て、きちゃった」
誰も、すぐには動けなかった。封鎖の奥から聞こえていた呼吸が、現物になって、こちらを見ている。その一点に、足の裏が、岩へ貼りついたようになる。
獣の目が、こちらをなぞった。獲物を品定めするというより、温かいものの在処を確かめるような、鈍い視線だった。一団のいるあたりへ、ぬるい風がひとすじ流れていく。坑の冷気じゃない。俺たちの側から、獣のほうへ、熱が引かれているのだ。背中の汗が、急に冷たく感じた。
獣が、低く息を吐いた。あの、火を吸うような呼吸だ。吐いているのに、熱は外へ出ていかない。吐いた先の空気からも、また熱だけが、ゆっくりと内側へ戻っていく。
「退け」
俺は言った。考えるより先に、口が動いていた。
「これは、ここに出るものじゃない。正体が分からないうちは、引く。今すぐだ」
今度は、声を上げたのが、独りじゃなかった。
「全員、後退。荷も素材も、置いていきなさい」
カイラが、間を置かずに声を重ねた。実習担当の、紙より現場を信じる大人の声だった。俺の読みを、ひとつも疑わなかった。「記録にない個体よ。手柄なんていらない。深追いはしない、下がって」
誰かが正しいと言ってくれて、その正しさが、間を置かずに次の指示へ変わっていく。一年前には、なかったことだ。あのとき俺の声は、宙に浮いたまま、誰の足も動かさなかった。今は、違う。
外棟の足が、後ろへ動きはじめた。鉄殻兎を止め、泥鎧猪を乾かしてきた、その同じ並びで、誰も先を争わず、誰も遅れない。ボルクが殿に回って獣を睨み、ニアが皆の背に手を添えて、息の上がった者から順に流れを整える。リシアも、半歩ずつ退きながら、奥の獣から目を離さなかった。
退路は、来た道——旧採掘区の細い坑道を、一本、戻るだけだ。広くはない。背を向けて駆ければ、追われる。だから、誰も走らない。獣を視界に入れたまま、後ろ足だけで、一歩ずつ間合いを開けていく。カイラの指示は、的確だった。
これで、退ける。今度こそ、退けるはずだった。
一人を、除いて。
「待てよ。逃げる必要が、どこにある」
グレン・ヴァルガスが、流れに逆らって前へ出た。火属性の名門に生まれ、《爆炎》を持つ三つ星だ。差し出した掌の上で、炎がもう、ふくらみはじめている。
「火喰い蜥蜴か。並の炎なら、確かに食われるんだろうな。だが——俺の《爆炎》は別だ。食う前に、丸ごと灰にしてやる」
口では笑っていた。だがその笑い方には、余裕よりも、焦りに近いものが混じっていた。
そばにいた上位生の一人が、「おい、教官が退けって……」と声をかけたが、グレンは聞かなかった。
分かる気が、した。
この坑に潜ってからずっと、炎の出番がなかった。湿った霧では、火が湯気で視界を潰した。泥の鎧は、焼くほど陶器のように硬くなった。火を使わない解決ばかりが評価され、温い石に怯えるなと笑った当人が、次は黙って退けと言われる。名門に生まれ、家格の証だと教えられて磨いてきた炎が、この坑では、いちばん役に立たない手札になっていた。
名門の炎より、最弱の火種の読みのほうが、いつも先に正しいことになる。三つ星が一つ星に後れを取り続ける——それを、この男は、もう一度でいいから、ひっくり返したいのだ。だから、火属性の敵が出たこの瞬間を、逃せない。前へ踏み出す背中の、引きつった肩が、そう言っていた。
「下がれ、グレン」俺は言った。「これは、知られている火喰いとは違う。変異種だ。何が違うのかは、まだ言えない。だが、まずい」
「変異だろうが何だろうが、炎で焼け落ちないものはない」
振り向きもしなかった。
「グレン、下がりなさい!」
カイラの声も、届かなかった。三つ星の見習いは、実習担当の制止に足を止める義理を、感じていなかった。火力こそが格だと信じられている場所では、退けという正しさが、いつも最後に回される。
頭の中で、止める手を、片端から探した。
火を撃たせない方法。獣の気を逸らす方法。グレンを後ろへ引き戻す方法。どれも、間に合う形にならない。俺には、相手を縛る術も、力ずくで押しのける体も、命じるだけの星の数もない。
それでも、踏み込んだ。腕を掴もうとした。指先が、肩に触れる。
振り払われた。三つ星の踏み込みは、一つ星の俺が後ろから止められる重さじゃなかった。たたらを踏んだ俺の目の前で、グレンが、獣へ向かって大きく腕を振りかぶる。
とっさに、自分の熱を使いかけて——手が、止まった。
あの獣は、外から熱を吸い込んでいる。手の中の石の熱まで、引いていった。そんなものに、熱を足してどうなる。理屈の手前で、何かが、それだけは違うと言っていた。いつも俺を助けてきた一本の手が、この相手の前では、まるで頼りにならない。
見えている。何が危ないのかも、退くべきだということも、全部、見えている。なのに、止める手が、ひとつもない。
グレンは、もう獣の間合いへ踏み込んでいた。退いていく仲間と、黒い獣の、ちょうど真ん中。いちばん火が効かない相手に、いちばん近い場所だ。
あとは、見ているしかなかった。退けと言った口も、伸ばして空を掴んだ手も、この流れの、何ひとつ変えられない。正しく見えていることと、止められることのあいだには、星の数ぶんの距離があった。
口だけが、動いた。
「やめろ、グレン!」
届かない。俺の声は、いつも間に合っている。届かないだけだ。
リシアだけが、退く足を止めていた。退避の列から半身を戻し、グレンと獣のあいだの、ある一点を、じっと見ている。間合いを測るような、線を引こうとするような目だった。何をしようとしているのか、そのときの俺には、まだ読めなかった。
「燃やし尽くしてやる」
グレンの掌で、炎が、一気にふくれ上がった。坑道じゅうの空気が、音を立てて、そこへ巻き込まれていく。名門の炎は、確かに、見事だった。これだけの火を浴びて、平気でいられる獣のほうが、おかしい。普通なら。
《爆炎》が、放たれた。
坑道が、赤く灼けた。炎の奔流が、黒い殻めがけて殺到する。
獣は、避けなかった。逃げもせず、むしろ身を低く沈めて——その口を、押し寄せる炎のほうへ、ゆっくりと、開いた。




