第134話 なぜ一人で
第134話 なぜ一人で
八頭が、いっぺんに来た。
ガレスの盾が広げる光の壁は、門の幅に人ひとりぶん足りない。その足りない端を、岩みたいに固まったボルクの体が受けている。二つ合わせて、門の柱から柱までがふさがっていた。
光の壁が端から端まで波を打った。二度、三度。波はボルクの肩で止まって、そこから先へは行かない。牙の欠けた大きい雪牙が三度目にはじかれて、斜面を転がり落ちた。横の崩れ口へそれた二頭は、グレンが壁の上から石を落として追い返した。
それでも、群れは引かない。日はもう落ちている。暖かい場所をめざして上がってくる獣は、暖かい場所がここにあるかぎり、朝まで来る。
月が出ていた。雪の斜面のずっと下に、立ち枯れた松が一本、黒く立っている。
俺は、口を開く前に一度だけ考えた。さっきは考えずにグレンに火を撃たせて、火に寄ってくる群れを増やした。
「ガレス。下の枯れ松を燃やしていいか。あいつらは火に寄るんだろ」
ガレスは、すぐには答えなかった。盾を構えたまま、松までの距離を目で測っている。
「……八十歩はある。私は何度か、火をつけに降りようとした。行って戻る前に、囲まれる」
「降りなくていい。届くやつが、上にいる」
崩れ口のわきの壁の上から、グレンの声が降ってきた。
「聞こえてんぞ」
グレンは抱えていた石を置いて、右手を上げた。大きな炎が夜の斜面を飛んで、枯れ松の根もとに落ちた。松は、下から上へ一気に燃え上がった。
雪牙の首が、いっせいにそっちを向いた。
一頭が下りはじめると、あとは早かった。大きいのは、斜面の途中から最後まで門をにらんでいたが、それも、やがて向きを変えた。松のまわりに、灰色の背中が輪になって寝そべっていく。
「犬かよ」
グレンが言っても、誰も笑わない。ボルクの肩から力が抜けて、体の色が戻った。
「幹が太い。芯まで火が回るのに、朝までかかる」
ガレスはそう言って、光の壁を消した。盾を下ろした左腕が、細かくふるえている。本人は、それを外套の中に入れた。
松が燃えつきれば、群れはまた上がってくる。それまでに俺たちが裏の道から町へ降りたら、門はまた、ガレス一人だ。
誰も、帰るとは言い出さなかった。ボルクは、門の柱にもたれて座ったまま、腰を上げない。それで決まった。凍った尾根道を夜に下るのも、気は進まなかった。
半日で戻る、と言って出てきた。宿に残ったリシアの顔が浮かんだ。知らせる方法は、ない。
中庭の井戸のふちに、五人で座った。塔の階段で戦いを書きとめていた帳面係のリオネルも、降りてきている。月と雪の照り返しで、中庭は字が読めるくらいに明るかった。
火は焚けない。焚けば、また群れが上がってくる。そのかわり、井戸の口から暖かい風が上がっていて、ふちの石に背中をつけていれば凍えずに済んだ。ガレスは二年、こうして冬を越してきた。
リオネルは、凍ったインク壺を暖かい石の上に置いて、溶けるのを待っている。グレンは、ガレスが出した固いパンをかじって「石のほうがましだ」と言い、それでも二つ食べた。
ガレスは、麦と雪をひとつかみずつ椀に入れて、井戸の内側のくぼみに置いた。
「煮ないのか」
ボルクが訊いた。
「火が使えない。ここに一晩置くと、朝にはふやける」
「うまいのか」
「まずい」
冗談を言っている顔ではなかった。
しばらく、風の音だけがした。崩れた壁の向こうに、赤い火と、そのまわりの灰色の輪が見える。大きいのだけは、寝ていなかった。首を上げて、こっちを向いている。
口を開いたのは、ボルクだった。
「なんで、降りなかった」
ガレスは、椀の位置を指一本ぶん直した。
「持ち場だからだ」
「軍は、捨てたんだろ」
「軍は捨てた。私は、捨てろと言われていない。引きあげろ、と言われただけだ」
「捨てたのと、何が違うんだよ」
グレンが口をはさんだ。ガレスは、グレンのほうを見なかった。
「引きあげたあと、ここを誰が見るのかを訊いた。答えは、なかった。なら、私が見る」
ガレスは町を守りたいのだろう、と俺は思った。裏の道を降りれば、あの国境の町だ。宿があって、らばがいて、荷運びのトマがいる。
「町に、知り合いがいるのか」
「いない。降りたことも、数えるほどしかない」
外れた。
「手は、足りなかっただろ。二つの口を、一人で」
ボルクが言った。門から崩れ口まで、何重にもついていた靴の跡のことだ。
「足りなかった」
「呼べばよかった」
「呼べと、三度言われた。麦を置いていく男にだ。王国には外塔というギルドがある、北の関でも働いた、頼めば来る、と」
トマだ。そんなことまで言っていたのか。
「それで」
「断った」
ガレスの声は、門の前にいたときと同じで、平らだった。
「六年前、私の班は、お前たちに負けた」
学院の星冠戦のことだ。学院でいちばん上の第一班と、いちばん下の外棟の班が当たって、外棟が勝った。負けた側の盾が、ガレスだ。
「班は、そのあと散った。セイルは北へ行き、エレノアは神殿に入った。私に残ったのは、教わったとおりにやってきた、ということだけだ」
ガレスは、椀の位置をまた直した。直すところは、もうなかった。
「盾は、持ち場を離れない。盾は……うしろの者に、戦わせない。盾が助けを呼ぶのは」
そこで止まった。
「……破れたときだけだ。それが正しい盾だと、教わった」
ここまで長くしゃべるガレスを、俺は初めて見た。
「外棟に負けた班の盾が、外棟に助けを求める。それは……」
その先は、出てこなかった。
「負けてねえだろ、別に」
ボルクが言った。
「あの試合で、お前の壁は、前に立ってても割れる気がしなかった。うちの連中は、壁のないところを通っただけだ」
「同じことだ」
「同じじゃねえよ」
ボルクの声が、少し大きくなった。それから、自分で気づいて、小さくなった。
「……俺は、一人じゃ一頭も倒せねえ。受けるだけだ。遅いから、受けてるあいだに誰かがやってくれないと、何も終わらない。だから、最初から頼ってた。恥ずかしいと思う暇も、なかった」
ガレスは、何も言わなかった。
グレンは、いつのまにか井戸のふちにもたれて寝ていた。口が半分開いている。石のほうがましだと言っていたパンのかけらを、まだ片手に握ったままだ。リオネルのインクは、やっと溶けたらしい。ペン先を壺につけて、何か書きはじめた。
俺は、井戸の口に手をかざした。
暖かい風が、強くなったり、弱くなったりしている。間をおいて、ゆっくり。北の防衛線で倒した、熱を吸う魔物の胸の中と、同じ動き方だった。あのときは、脈みたいだと思った。
さっきより、少し速くなっている気がする。気のせいかもしれない。
「リオネル。この風が強くなる間を、数えておいてくれ」
「……風、ですか」
リオネルは首をかしげたが、帳面の新しい頁を開いた。
ガレスが、俺を見ていた。
「お前は、なぜ来た。ボルク・ダントは、私を見に来たと言った。お前は」
「ボルクについてきただけだ」
「班の長が、か」
「俺が一人で動いたせいで、フィンという仲間が腕の骨にひびを入れた。七日ほど前の話だ。それから、出かける前に訊くことにしてる」
ガレスは、しばらく黙っていた。
「……訊かれた者は、止めなかったのか」
「止めなかった。見張りをつけろ、とは言われた」
ボルクが、鼻で短く笑った。
ガレスは、椀の中の麦を見ていた。ふやけるには、まだ早い。
「エレノアは、いまうちにいる」
俺は言った。
「下の町の宿だ。神殿からは、破門されてる」
ガレスの手が、盾の革帯の上で止まった。何か訊くかと思ったが、訊かなかった。革帯の端を、親指で二度なでただけだ。
「今日」
ボルクが、前を向いたまま言った。
「お前の壁は、俺の肩に乗ってた。大きいのが三回ぶつかった。お前、崩れたか」
ガレスは、外套の中から左腕を出した。ふるえは、まだ少し残っていた。そのまま、盾の革帯を一度締め直した。
井戸の風が、また強く来た。リオネルのペンが、紙の上で止まった。
「……さっきは、四十数えるあいだに一度でした。いまは、三十一です」
誰も、すぐには何も言わなかった。
「私が崩れたら、正しさごと崩れる気がしていた」
お読みいただき、ありがとうございます。
火を焚けない砦の夜、井戸のふちで。麦は、朝までふやかしても「まずい」そうです。
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