第133話 盾と盾
第133話 盾と盾
「帰れ。ここは、私の持ち場だ」
崩れた壁の上から降りてきた男は、門の内側で、それだけ言った。
ガレス・ヴァルド。学院のころ、いちばん上の班で盾役をしていた男だ。軍が二年前に捨てた尾根の砦に、一人で残っている。外套は裾がすり切れて、左腕の盾には、新しい傷と古い傷が重なっていた。
「帰れって、お前な。朝からずっと坂をのぼってきたんだぞ」
グレンが言った。ガレスは、グレンを見なかった。ボルクを見ている。
「ボルク・ダントか」
「……ああ」
「外棟の盾が、何の用だ」
「用は、ない。立ってるって聞いたから、見に来た」
ボルクは、それきり黙った。ガレスも黙った。学院のころ、盾役どうしでずっと比べられてきた二人だ。
門のわきに、麦の袋が二つ積んである。その横の壁には、石でひっかいた短い線が、びっしり並んでいた。何を数えた線なのかは、分からない。
俺は門の外を指さした。道ばたの、雪が丸く消えているところだ。石組みの穴から、暖かい空気が漏れている。
「あれは、いつからだ」
「この冬だ。あれが暖かくなってから、数が増えた」
「何の数だ」
ガレスは答えずに、斜面の下を見た。
日が尾根の向こうへ落ちかけている。斜面の下の林から、灰色のものが出てきた。一つ。三つ。その後ろに、まだいる。
狼より大きい。肩が盛り上がっていて、下あごから牙が二本、上へ突き出ている。
「雪牙だ。日が落ちると、暖かいところへ上がってくる」
ガレスは盾を持ち直した。
「中庭の井戸からも、同じ暖かい風が出ている。やつらは中へ入りたがる。中庭を抜ければ、裏の道から町へ降りられる」
砦の入口は、二つあった。
一つは、この門だ。戸はとうになくなっていて、斜面の下を向いて口を開けている。もう一つは、門から十歩ほど横にある。壁が崩れて、荷車が通れるくらいの口が開いていた。崩れ口は、落ちた石が両わきに積もっていて、通れるのは真ん中の人ふたりぶんくらいだ。門と崩れ口のあいだは、石の壁が残っている。
中庭には、屋根の落ちた兵舎が二つと、屋根の半分ない塔、それにふたのない井戸が一つあって、井戸のまわりだけ雪がなかった。俺は、門の内側と、崩れ口ごしの斜面の両方が見える場所まで下がった。
道ばたの穴からも、この井戸からも、暖かい風が出ている。下に、熱を集める何かがある。ここで不用意に熱を使いたくなかった。聖教国で見た黒い石は、入れた熱を増やして返してきた。
グレンは、崩れ口のわきの壁の上に登った。帳面係のリオネルは、塔の階段の途中に座らせた。戦えないので、見て、書く。インクが凍る、と小さな声でこぼしながら、インク壺をふところに入れていた。
ボルクは、門の内側に立ったままだった。
最初の一頭が、門へ走りこんできた。
ガレスが盾を前に出した。
盾のまわりに、光が広がった。戸板を四枚並べたくらいの、平たい光の壁だ。高さは、門の上の横木まである。
門の幅には、少しだけ足りなかった。片方の端は、門の柱にぴたりとついている。もう片方は柱まで届かなくて、人ひとりぶん空いていた。空いているのは、崩れ口に近いほうだ。ガレスは、その空いた側に寄って立っている。
雪牙が壁の真ん中に頭からぶつかった。
音はしなかった。ぶつかったところから光の壁が波みたいに揺れて、受けた力を壁ぜんたいに散らしていく。雪牙は、はじかれて雪の上を転がった。
学院で聞いていた「面で守る」というのは、これか。一点で受けずに、広げて返す。
二頭目と三頭目が、続けて来た。光の壁は揺れて、返した。空いた端へ鼻を向けた一頭は、ガレスが盾のふちで殴って下がらせた。
四頭目は、門へ来なかった。
崩れ口へ向かう。
ガレスの首が、そっちへ動いた。光の壁は、一枚しかない。門の内側の雪には、門から崩れ口へ、崩れ口から門へ、何重にも走った靴の跡がついていた。
ガレスが踏み出そうとした。
その前に、ボルクが歩いていた。
走らずに、大股で崩れ口まで行って、真ん中に立って腰を落とした。体が、灰色の岩みたいに固まる。ボルクの力は、これだけだ。固まっているあいだは、歩けない。踏み替えられるのは、せいぜい半歩までだ。
雪牙が肩からぶつかった。
今度は、鈍い音がした。ボルクは揺れなかった。かかとが雪を削って、ほんの少しうしろへずれる。雪牙のほうが、よろけて下がった。
散らしもしないし、返しもしない。ただ、そこにいる。
「頼んでいない」
ガレスが門の内側から言った。ボルクのほうは見ないままだ。
「頼まれてねえよ」
ボルクが固まったまま答えた。口だけ、動いていた。
斜面の下から、また五、六頭が上がってくる。
「まとめて焼くぞ。いいな、レン」
壁の上で、グレンが右手を上げた。斜面の雪牙が、ちょうど一か所に寄っている。
「やれ」
炎が斜面に落ちた。雪が一気に溶けて、白い湯気が上がる。先頭の二頭が、毛を焦がして転がった。
残りは、逃げなかった。
逃げるどころか、足を速めた。焼けた地面のほうへ、寄ってくる。林の中からも、新しい影が四つ、五つと出てきた。
「……おい。増えたぞ」
「火に寄るんだ。暖かいところへ上がってくる、と言った」
ガレスの声は、平らだった。止める気がなかったのか、止める暇がなかったのか、背中からは分からない。
言っていた。聞いていたのに、俺は「やれ」と言った。グレンに先に訊かれて、考える前に口が動いた。
雪牙は、十頭を超えた。門に三頭、崩れ口に二頭が取りつく。残りは斜面をうろついて、あいた場所を探している。光の壁が揺れて、ボルクのかかとが雪を削る。二人とも、隣を見る余裕はなさそうだった。
焼けた地面の湯気の中から、ひときわ大きいのが出てきた。
ほかの倍はある。牙の先が、片方欠けていた。まわりをうろついていた雪牙が、そいつのうしろへ寄っていく。崩れ口の二頭まで、首を向けた。
そいつは、光の壁の真ん中へは来なかった。光の壁の、柱に届いていないほうの端へ、斜めにぶつかった。
光の壁がたわんだ。
真ん中なら、力を両側へ逃がせる。端は、逃がす先が片方しかない。そこからめくれるように、内へ曲がった。
曲がったすき間から、牙が入った。ガレスの外套の裾が、音を立てて裂けた。
ガレスが低くうなって押し返した。足が初めて半歩下がった。
大きいのは下がって、もう一度同じ端へ頭を向けた。分かってやっている。
あの端を、動かないものに当てておけばいい。
動かないものなら、すぐそこにいる。
「ボルク! 門まで来られるか。ガレスの壁と、柱のあいだに立て」
「崩れ口が空くぞ」
「グレンが見る。火は使うな、石を落とせ」
「石かよ」
グレンは文句を言いながら、足もとの崩れた石を持ち上げた。
崩れ口は、グレンの石だけになる。まとめて来られたら、足りない。ただ、この群れは大きいのについて動く。あいつが門にいるあいだは、崩れ口へ来る数は少ない。そこに賭けた。
ボルクが一度、力を抜いた。体の色が戻る。大股で十歩、門まで歩く。
崩れ口に取りついていた二頭のうち、一頭は大きいのを追って門のほうへ回った。残った一頭が、空いた口へ肩まで入ってきた。
俺は足もとの石を拾って、投げた。外れた。石は雪牙の耳の横を抜けて、斜面を転がっていく。
その背中に、グレンの落とした石が当たった。雪牙は、短く鳴いて下がった。
「どこ投げてんだ」
壁の上から言われた。言い返せなかった。
ボルクが光の壁の端と柱のあいだに体を入れて、腰を落とした。固まる。
大きいのが、雪を蹴った。
同じ端に、斜めにぶつかる。
光の壁のたわんだ端が、ボルクの肩に当たって止まった。
めくれない。ボルクは動かなかった。かかとが、雪を削りもしない。
大きいのははじかれて、斜面を三歩ぶん滑り落ちた。
ガレスの首が、ボルクのほうへ動いた。
ボルクは、前を向いたままだった。
「指二本ぶん、こっちだ。お前の壁、俺の肩に届いてない」
「……分かっている」
ガレスは、足を動かさなかった。盾を持つ腕を、指二本ぶんだけ押し出した。光の壁が少し伸びて、端がボルクの肩にぴたりとつく。ついたところだけ、光が一段明るくなった。岩みたいな肩の形に沿って、少しだけ回りこんでいる。
門の柱から柱まで、すき間がなくなった。
斜面の下で、大きいのが起き上がった。まわりの雪牙がそのうしろに集まっていく。七頭。八頭。次は、まとめて来る。
塔の階段で、リオネルのペンが紙をこする音がしていた。こんなときでも書いている。壁の上では、グレンが次の石を両手で抱えたまま、冷たい、冷たいと足踏みをしていた。
崩れ口は、まだグレンの石だけだ。
ガレスは盾を握り直した。裂けた外套の裾を、踏まないように一度うしろへ払う。
ボルクの隣から、低い声が聞こえた。
「……援護、無駄にはしない」
お読みいただき、ありがとうございます。
散らして返す盾と、ただそこにいる盾。レンの投げた石は、外れました。
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