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第131話 急ぎすぎた確認

第131話 急ぎすぎた確認


「会えました」


 夕飯の途中で宿に戻ってきたリオネルは、座る前にそう言った。


 帳面係のリオネルは、この何日か、毎朝出かけては会えずに帰ってきていた。相手は、神殿の文書を書き写す仕事をしている年寄りだ。


 祈りの間の下で見つけた鉄の扉には、立ち入りを禁じる札が打ってあった。細くて、右へ傾いた字の札だ。リオネルが帳面に写したその字を見せると、年寄りは顔色を変えたという。


「あの人は、誰の字か知っています。そういう顔でした」


「名前は」


「まだです。ここでは話せない、日と場所はこちらから知らせる、と」


 リオネルは、やっと椅子に座った。


「待ちます。向こうが決めるまで」


 テーブルの端では、フィンが匙と匙のあいだに糸を張って遊んでいた。指先から細い糸を出して、物と物をつなぐのがフィンの力だ。


「糸を張ってるとさ、右腕が腕じゃなくなるんだよ。引っぱられて、物干しの柱みたいでさ」


「柱なら、黙って立っていてください」


 リシアに言われて、フィンは糸を消した。匙が一本、床に落ちた。


 俺は、パンをちぎる手を止めていた。


 エレノアが破門されたときは、たった四日だった。報告の紙に、神殿に逆らうひとことを書き足しただけでだ。この国の神殿は、決めたら早い。字を見て顔色を変えた年寄りを、向こうが何日も放っておくとは思えない。


 年寄りが消える前に、名前を聞く。名前が分かれば、あの扉に札を打たせた相手に、やっと手が届く。


 待てば、何日かかるか分からない。


「その年寄り、どこに住んでる」


 リオネルは、開きかけた帳面から顔を上げた。


「紙問屋の裏の長屋です。……レンさん、待つと言いました」


「待ってるあいだに消されたら、何も残らない」


「レン」


 リシアが、ナプキンを置いた。


「相手は、怖がっているのです。怖がっている人のところへ夜に押しかけて、口が開くと思うのですか」


「開かなくても、無事かどうかは分かる」


「それは、確かめたいだけでしょう。あなたが」


 言い返す言葉が、すぐには出てこなかった。出てこないまま、俺は上着を取った。


「すぐ戻る」


 リシアは、それ以上は言わなかった。ナプキンを、もう一度たたみ直していた。


 夜の通りには、もう人の姿がなかった。白い石の道を歩いているのは、俺だけだ。うしろは、一度も見なかった。


 紙問屋の裏は、隣が染め物屋で、玉ねぎの皮を煮たようなにおいがしていた。


 長屋のいちばん奥の窓に、明かりがついている。


 戸をたたいた。二回。


 明かりが、消えた。


 中で、何かが倒れる音がした。それから、裏の窓が開く音。


「待て。話を聞きに来ただけだ」


 言ってから気づいた。夜に戸をたたいて、そう言う。神殿の者がやりそうなことと、どこが違う。


 戸は、押すと開いた。


 部屋には誰もいなかった。裏の窓から月が入って、机の上を照らしている。ランプの芯が、まだ赤い。机のインク壺は倒れて、書きかけの紙の上に黒く広がっていく。開いた裏の窓の向こうに、干した布が見えた。


 窓を越えた。


 干し場は、左右が高い塀で、うしろが長屋の壁だった。濡れた布が何列もぶら下がって、月で白く見えた。その奥に、荷車を通す木戸が一つあった。木戸は開いたまま、まだ揺れている。年寄りは、あそこから出た。


 木戸へ走ろうとした。


 布のあいだから、男が二人出てきた。俺と木戸のあいだだ。白い服ではない。帯も、印もない。手に、腕の長さほどの鉄の棒を持っている。


 目の前を走り抜けた年寄りを、追わなかった連中だ。待っていたのは、訪ねてくる側らしい。


 右の男が、棒を振り上げて踏みこんできた。


 その足が、止まった。足首に、細い糸がからんでいる。男は前につんのめって、濡れた布を一枚引きずり落とした。布は、隣の男の頭にかぶさった。


「レン、うしろ!」


 フィンの声だった。左の塀の上に、しゃがんでいる。いつからついてきていたのか、分からなかった。


 振り返るより先に、上着の背中を左へ引かれた。フィンの糸だ。けれど、俺の体は半歩しか動かなかった。糸一本で引くには、俺が重すぎる。


 すぐうしろに、塀のほうから誰かが降りた。続けて、鈍い音がした。


 振り返った。


 フィンが、俺の背中のすぐうしろで片膝をついていた。頭の上に上げた右腕で、鉄の棒を受けている。棒を持っているのは三人目の男だ。俺が越えてきた窓のわきの、布の陰から出てきていた。


 フィンは、声を出さなかった。


 男が棒を引いて、もう一度振り上げた。


 俺は、その棒に手を向けた。


 握っているあたりの鉄の芯に、熱を入れる。黒い鉄が、中から赤く透けてくる。男は棒を落として、手のひらを押さえた。革の手袋が焦げて、煙を上げている。


 頭の布をはねのけたもう一人が、その煙を見て一歩下がった。


 木戸の向こうで、短い笛が鳴った。年寄りが逃げていった方角だ。


 男たちは、それで下がった。糸に足を取られた一人も足を引きずって立ち上がり、三人とも木戸を出ていって、そのまま戻ってこなかった。


 あの笛が何の合図だったのか、俺には分からない。年寄りが逃げきったのか、木戸の先でつかまったのかも、分からなかった。


 フィンは、地面に座りこんでいた。右腕を、左手で抱えている。指先から、糸が出ていない。俺の上着についていた糸も、消えていた。


「……フィン」


「リシアがさ、こわい顔してたから。一人で行かせたら、あとで俺が怒られると思って」


 フィンは笑おうとして、やめた。額に、汗が浮いている。


 俺は、フィンの左の脇に肩を入れた。立たせるとき、フィンの足が一度すべった。


 木戸から路地へ出た。もう誰もいない。フィンを長屋の壁にもたれさせておいて、俺だけ表へ回って年寄りの部屋に入る。戸は、開いたままだった。机の上の、インクをかぶった紙だけは取った。いちばん上に、リオネルの名前が見えたからだ。


 帰り道は、来たときの倍かかった。フィンは途中で一度だけ、金貨の袋を宿に置いてきてよかった、と言って、あとは黙って歩いた。


 宿の一階では、みんながまだ起きて待っていた。


 フィンを椅子に座らせると、エレノアが両手を広げて、光でその腕を包んだ。紫に腫れはじめていた肌の色が、引いていく。その光が消えないうちに、回復役のニアはもう、フィンのひじから手首までを指で押していた。途中で、手が止まった。


「折れてはいません。ひびです」


「治るのか」


「治ります。ただ、骨は急がせると曲がってつきます。何週間かは、糸を張らないでください。引っぱる力が、いちばんよくないので」


 エレノアが、手を下ろしながら言った。


「私の光でも、骨だけは日にちがかかります」


 リオネルは、手当てのほうを見ていなかった。俺がテーブルに置いた紙を、ランプの下で広げている。インクで、下半分がつぶれていた。


『リオネル殿 あすの夜、川ばたの』


 読めるのは、そこまでだった。


 あすの夜だった。


「……あの人には、もう会えません。逃げきっていても、です」


 リオネルの声は、怒っていなかった。帳面を閉じる音のほうが、大きかった。


 リシアは、階段の下に立っていた。何か言われると思った。言われたほうが、たぶん楽だ。


 リシアは布を一枚持ってきて、フィンの首から腕を吊った。結び目を、二度やり直す。俺のほうは、最後まで向かなかった。


「悪かった」


 誰に言ったのか、自分でもはっきりしない。


 フィンは、吊られた右腕を見下ろしていた。指を、少しだけ動かす。糸は出ない。


 口を開くまでに、少し間があった。


「……大丈夫。腕っぽいの、久しぶりだ」


 誰も、それを笑わなかった。

お読みいただき、ありがとうございます。

待てと言われたのに、待てませんでした。レンの失点です。

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