第130話 十五人目にはしない
第130話 十五人目にはしない
「本日、施療はありません。代わりの方は、あさって着きます」
施療所の係の男は、石段の上からそれだけ言って、戸を閉めた。
通りには、三十人ほどが並んでいた。首から下げた札の縁が銀色の人から先に、列を離れていく。銀の札なら、街の反対側の施療所でも診てもらえるらしい。あとに残ったのは、何も塗っていない木の札の十人だった。行くところがない顔で、閉まった戸を見ている。
ここの朝の施療は、何日か前までエレノアの受け持ちだった。そのエレノアは、五日前に自分から神殿を出て、首の札を返している。きのうは神殿から、破門の通達が届いた。聖女候補の名を取り上げられて、神殿の門はもうくぐれない。
いまは俺のうしろで、宿のおかみに借りた袖の長い服を着て、水桶を一つ提げていた。俺も、一つ提げている。
井戸の帰りだった。俺と、エレノアと、回復役のニア。ニアは、熱を出していたミナという子の様子を見たいと言って、ついてきていた。
そのミナは、列のいちばん後ろで母親に抱かれていた。頬が、また赤い。
ニアは何も言わずに、母親のところへ歩いていった。熱が体の真ん中にこもると、足の先が冷える。ニアは、いつもそこから看る。
エレノアは動かなかった。桶を提げたまま、木の札の十人を見ている。
十人も、エレノアに気づいた。法衣を着ていなくても、顔は知られている。エレノアが札を返した日から、この街ではずっとこうだ。一人が目をそらして、その隣が半歩下がった。
エレノアは桶を下ろした。
「……戻りましょう。私がいると、あの方たちが帰ってしまいます」
「帰って、どこで診てもらうんだ」
エレノアは答えなかった。
先に動いたのは、ミナの母親だった。ニアに子どもの足を見せながら、顔だけエレノアに向ける。
「あの。この前の光を、もう一度、お願いできませんか」
母親の首で、木の札が揺れた。
「破門された者の光ですが」
「この子の熱が下がるなら、どなたの光でも」
十人のうちの一人が、自分の札を握って、何も言わずに角を曲がっていった。残ったのは、九人だ。
エレノアは石段の手前まで歩いた。石段には上がらない。通りの石の上に立って、両手を広げた。
光の輪が、通りに広がった。
下がりかけていた者の足が、止まる。咳をしていた女が咳をやめて、腰を押さえていた男が、手を離しておそるおそる背中を伸ばした。ミナの頬の赤みが、少し引いた。十も数えないうちに、光は消えた。
いつもなら、ここで終わりだ。
エレノアは手を下ろさなかった。下ろしかけて、もう一度、九人を端から見ていく。一人ずつだ。顔を見て、それから手を見て、足を見ている。
三人目で、止まった。
石段のいちばん下に腰かけた、年寄りの男だ。光が消えたあとも、両手を脇の下にはさんで、背中を丸めている。
「手を、見せていただけますか」
男は少し迷ってから、手を出した。指先が白い。
「……冷たいです。光は、届いたはずなのですが」
エレノアはニアを振り返った。
「ニアさん。この方を、お願いできますか」
「いま、手がふさがっています」
ニアは、ミナの両足を手で包んだまま、顔も上げなかった。
「その方の手を、両手ではさんでください。指の付け根から、順に押して。息を合わせて」
「……私が、ですか」
「はい」
エレノアは年寄りの前に膝をついた。男の右手を、両手ではさむ。人さし指の付け根から順に、押していく。このあいだエレノアは、冷えた俺の指で同じことをやった。あのときは、力が強すぎた。今日は弱い。押す場所は、まだ少しずれている。
ニアが、ミナの足を包んだまま、横目でそれを見た。ずれている、とは言わなかった。
俺も何かしようと思って、桶を置いて、男が座っている石段に手を当てた。朝の石は冷たい。中から、少し温めた。
「熱いです」
ニアが、今度は年寄りの顔を見て言った。
「誰も、熱いとは言ってないぞ」
「その方の顔が、言っています」
年寄りが、尻を半分浮かせていた。俺は熱を引いた。火種は、ぬるくするほうが難しい。
しばらくして、ニアがミナの足を布にくるんで、こっちへ来た。エレノアの隣に膝をついて、年寄りの左手を取る。右手はエレノアが、左手はニアが持った。
ニアの息が、ゆっくりになる。年寄りの息がそれにつられて、エレノアの息も、いつのまにか同じ長さになっていた。
左手の指が、先に赤くなった。右手は、だいぶ遅れた。
「……遅いですね。私は」
「二度目なら、早いほうです」
ニアはそう言って、年寄りの右手も、上から一度握った。それで、右も赤くなった。
年寄りは、両手を開いたり閉じたりした。礼は言わなかった。立ち上がって、エレノアに頭を下げかけて、途中でやめる。それから、ニアにだけ下げた。
エレノアは立って、残りの六人も端まで見て回った。ほかに、手の冷たい者はいなかった。
木の札の九人が、一人ずつ帰っていく。最後になったミナの母親は、角を曲がる前に振り返って、二人のどちらにともなく頭を下げた。
通りに誰もいなくなると、エレノアは、その場にしゃがみこんだ。膝に両手をのせて、指を見ている。
ニアが立ち上がると、膝が鳴った。
俺は、口を開きかけた。ゆうべから、誘う言い方を三つ考えてあった。外塔の代表は、いちおう俺だ。こういうのは、俺が言うものだと思っていた。いちばんましなのは「鍋を洗う手が足りない」で、二つ目は「部屋なら余ってる」だった。三つ目は、自分でももう覚えていない。
ニアが、早かった。
エレノアの前に、手を出した。何も持っていない、右手だ。
「立てますか」
エレノアは、その手をすぐには取らなかった。
ニアが、自分から手を出している。
エレノアが、手を取った。ニアは、引いて立たせた。立たせたあとも、手を離さなかった。
「外塔に、広く治せる人はいません。私は、一度に一人しか看られないので」
「……はい」
「来てください」
エレノアは、握られた手を握り返さないまま、俺に顔を向けた。
「よろしいのですか。破門された者を迎えれば、外塔まで」
「神殿の門なら、もともとくぐる用がない」
考えてあった三つのどれでもなかった。エレノアは、笑ったのか困ったのか分からない顔をして、それからニアの手を握り返した。
桶は、俺が二つとも持って帰った。
宿に戻ると、帳面係のリオネルが、朝飯のテーブルで帳面を開いて待っていた。もう聞いたような顔をしている。誰からかは、分からない。
リオネルは、帳面にはさんであった紙を一枚、テーブルに広げた。外塔の名簿の写しだ。名前が十四、並んでいる。
エレノアはそれを上から下まで読んだ。
「私は、十五人目ですか」
「番号は、ふっていません」
リオネルは、ペンの軸をエレノアに向けて置いた。
「……私は、治した方を、数で書いていました」
誰も、それには答えなかった。エレノアはペンを取った。いちばん下の空いたところに、小さな丸い字で書く。
『エレノア』
そこで、ペン先が紙から浮いた。浮いたまま、動かない。
エレノアは、家の名が入るくらいのすき間を空けて、ペンを置いた。
それから三日のあいだに、西の山道を越えてくる手紙の便が、二度、宿の前を通った。破門の知らせは、エレノアの家にも送られている。エレノアは二度とも、洗いかけの鍋を持ったまま戸口まで出た。荷車は、二度とも止まらなかった。
俺は何も言わなかった。家が黙っているはずがない、という俺の読みは、通達が届いた日に、エレノアにあっさり否定されている。
三日目の夕方、台所をのぞくと、流しの前に二人が並んでいた。エレノアが洗って、ニアが拭いている。おかみは椅子に座って、豆のさやをむいていた。
「拭くほうが早すぎるんだよ。洗うほうが追いつかれてるじゃないか」
おかみにそう言われても、二人とも手の速さを変えなかった。
「この鍋、へこんでいます」
エレノアが、鍋の底をこすりながら言った。
「前からです」
ニアは鍋を受け取って、布で拭いた。俺が叩いて、半分しか戻せなかったへこみだ。
エレノアの目が、戸口へ行って、また流しに戻った。
ニアは拭き終えた鍋を棚に置いた。置いてから、少しだけ向きを直す。棚を向いたまま、小さな声で言った。
「広く治せる人が、隣にいる。……悪くない」
お読みいただき、ありがとうございます。
外塔の名簿に、名前が一つ増えました。番号は、ふっていません。
続きが気になりましたら、ブックマークや評価、感想をいただけると励みになります。




