第129話 破門
第129話 破門
「出してきました」
朝いちばんに宿の戸を開けて、エレノアはそう言った。
ゆうべ祈りの間で、エレノアが名前と一行を書き足した紙のことだ。『熱のもとは、祈りの間の下にあります』。神殿が書かせたかった報告の下に、神殿がいちばん書かせたくなかったはずの一行が足してある。
エレノアは白い法衣のままだった。ただ、髪が結ばれていない。長い髪が、背中にそのまま落ちている。腕には、枕より小さい布の包みを一つ抱えていた。いつも髪を結んでいた銀の紐は、その包みの結び目にはさんであった。
「それから、部屋を片づけてきました」
「呼び出されたのか」
「いいえ。呼ばれる前に、出てきました」
エレノアは、包みを抱え直した。
「神殿に残れば、あの一行を削るように言われます。言われたら、私はたぶん削ります。削るのは、ずいぶん上手になってしまいましたので。……ですから、言われない場所にいることにしました」
「紙は、誰が受け取ったんだ」
「朝の当番の方です。読まずに、ほかの紙と一緒に箱へ入れていました。上の方が読むのは、早くても今夜だと思います」
「なら、まだ半日ある。取り返すなら、いまのうちだぞ」
「取り返しません」
早かった。俺のほうが、次の言葉に困った。
「どこへ行くのですか」
リシアが、階段の途中から訊いた。
「……決めていません」
台所から宿のおかみが出てきて、エレノアを頭から靴まで見た。
「札は」
「返してきました」
この街の人は、みんな首から札を下げている。札の縁の色で、施療所の列の順番まで決まる。エレノアの首には、もう何もなかった。
「裏の物置なら空いてるよ。鍋を洗うなら、ただでいい」
おかみは返事も待たずに、台所へ戻った。エレノアは、もう誰もいない台所の入口に向かって、頭を下げた。
ニアが二階から降りてくると、エレノアは先に口を開いた。
「粥は、半分食べたそうです。出てくる前に、施療所に寄って訊きました」
ミナ、という子どもの話だ。熱を出して施療所の列のいちばん後ろに並んでいた子で、おとといの朝、ニアに冷えた足を温めてもらっている。
「半分なら、いいほうです」
ニアの返事は、短かった。
俺たちは、あと何日かこの街にいることになっていた。帳面係のリオネルが、地下で写してきた字を見せたい相手がいると言って、毎朝出かけていく。毎晩、会えませんでした、と言って帰ってきた。
その日のうちに、エレノアは鍋を三つ洗って、一つを落とした。おかみに借りた古い服は袖が長くて、二回折ってもまだ手の甲にかかる。エレノアは濡れた袖をしぼりながら、鍋のへこみを指でなぞって、長いこと見ていた。
へこみは、俺が刃の背で裏から叩いた。半分しか戻らなかった。
次の日、エレノアはおかみに言われて、通りの角の井戸まで水をくみに出た。俺も桶を一つ持ってついていった。
井戸には、七、八人が並んでいた。
いちばん後ろの女が、エレノアの首もとを見た。それから、連れていた子どもの肩を引いて、自分のうしろへやった。その前の男も、桶を持ったまま横へよけた。誰も、何も言わない。列は、すぐになくなった。
「早く済みましたね」
エレノアはそう言って、桶を持ち上げた。水が少しこぼれて、靴にかかった。
帰り道で、俺は訊いた。
「謝ったら、許してもらえるのか」
「もらえません。上の方が読む前なら、削れば済みました。読まれたあとは、済みません」
エレノアは、桶の水から目を上げなかった。
「二年前に、一人、見ました。聖女候補の名簿から、名前を消すのです。削るのではありません。その人の頁ごと切り取って、残りを綴じ直します。初めから、いなかったように」
桶の水が、歩くたびに揺れた。
「綴じ直すのを手伝ったのは、私です」
「そいつの名前は」
エレノアは首を横に振った。
「……覚えていません。糸の色は、覚えているのですが」
俺の桶からも、水がこぼれた。宿に着くころには、どっちの桶も三分の二になっていた。
その日の夕方、二階の泊まり客が一組、荷物をまとめて出ていった。おかみは何も言わずに、その部屋のシーツをはがしていた。鐘が鳴りはじめると、ノエルが「きのうより一回少ない」と言った。きのうの分を数えていた者はほかにいない。確かめようがなかった。
夜になって、リシアが自分の替えの紺の髪紐を一本、黙って物置の戸の取っ手にかけていた。
四日目の朝に、来た。
案内役だった若い神官が、封をした紙を一通、両手で持って戸口に立っていた。この神官は、落ち着かないと帯の結び目を増やす。今日は四重だった。封の蝋には、丸の中に閉じた目の、神殿の印。
「エレノアさ……」
若い神官は、そこで詰まった。
「……様、は、もうつけてはならないと、言われておりまして」
「かまいません」
エレノアは、濡れた手を前掛けで拭いて、紙を受け取った。髪は、紺の紐でうしろに一つにまとめてある。立ったまま封を切って、立ったまま読んだ。顔は、変わらなかった。
「……鍋を、火にかけたままでした」
エレノアは紙を持ったまま台所へ行って、鍋を下ろす音をさせてから戻ってきた。それから紙を置いて、テーブルに片手をついた。脚が一本短いテーブルが、かたりと傾いた。
俺の席からは逆さだったが、読めた。
『エレノア・セラフィス。
右の者、祈りの間のことについて偽りを書き、神殿の名を汚した。
よって、聖女候補の名を取り上げ、神殿より除く。
以後、いずれの神殿の門をくぐることも許さない。
同じ知らせを、セラフィス家にも送った』
きちんとした、四角い字だった。このあいだ金貨の袋と一緒に届いた礼状と、同じ字だ。丁寧に礼を言ってきた手が、同じ丁寧さで切ってきた。
「偽り、ですか」
階段の下にいたリシアが、低い声で言った。エレノアは答えなかった。
偽り、と書いてある。祈りの間の下には何もない、ということにするらしい。熱を集めるあの黒い石は、あのまま置いておかれる。
エレノアは、紙のいちばん下の行を見ていた。
「家のほうが、神殿に何か言うだろ」
俺は言った。
「客が来るたびに、娘の話をする親父なんだろ。黙ってるとは思えない」
「言ってきません」
エレノアは、その行から目を離さなかった。
「父は、あしたから、来る客に娘の話をしなくなります」
外れた。家というのは、こういうときに出てくるものだと、俺は勝手に思っていた。テーブルの傷を一つ、爪でなぞった。
若い神官が、帯の結び目をいじりながら言った。
「あの、法衣と、紐を、お預かりするように、と」
「用意してあります」
エレノアは裏の物置へ行って、すぐに戻ってきた。白い法衣を四角くたたんで、その上に銀の紐をのせてある。
「洗ってあります。おかみさんの石けんなので、少し匂いますが」
若い神官は、それを両手で受け取った。受け取ってからも、しばらく動かない。銀の紐が法衣の上から滑り落ちそうになって、あわててあごで押さえた。それから、頭を下げた。金貨の袋を置いていったときより、ずっと深い。
「……お世話に、なりました」
若い神官は法衣を胸に抱えて、逃げるように出ていった。宿の戸が、小さくきしんだ。
台所で、おかみが鍋のふたを落とした。「ああもう」という声がして、それきり静かになった。
ニアが茶を持ってきて、テーブルに置いた。ゆうべからかまどの端に置きっぱなしの、色の濃い茶だ。
エレノアは、椅子に座った。
名前を書くかどうか迷ってここへ来た夕方は、浅く腰かけたままで、出された茶にも手をつけなかった。
今日は、背もたれに背中をつけた。
それから、茶に手を伸ばした。両手で器を持って、ひと口飲む。眉が、少しだけ寄った。
「……苦いですね」
「煮つまっているので」
ニアが言った。エレノアは、もうひと口飲んだ。
器を持つエレノアの指先は、三日ぶんの鍋の水で白くふやけていた。ニアは、その指を見ている。テーブルの上でニアの手が少し動いて、止まった。
器を置くと、エレノアは通達の紙を手に取った。二つに折る。角が合わなくて、一度開いて折り直した。もう一度折ると、いちばん下の行が内側に隠れた。その折り目を、親指で上から押さえている。借り物の長い袖が、紙の上にかかった。
捨てるのかと思った。エレノアは折った紙を、前掛けのポケットに入れた。
「これで、戻る場所はなくなりました」
お読みいただき、ありがとうございます。
エレノアが、神殿を出ました。鍋洗いは、まだあまり上手ではありません。
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