浄化任務、完遂
第128話 浄化任務、完遂
夜の鐘が鳴り終わってから、宿の戸がもう一度開いた。
「出しませんでした」
エレノアだった。夕方と同じ白い法衣で、手燭を一つ持っている。あの紙は、まだ胸にしまったままらしい。
夜の鐘までに、名前を書いて出すように言われていた紙だ。祈りの間の熱は、聖女候補の祈りで鎮まった、と書いてある。鎮まっていないのに。
「鎮まっていないものを、鎮まったとは書けません。……なら、鎮めてから書きます」
エレノアは、一階に一人で残っていた俺を見た。
「手を、貸していただけますか」
祈る者はいくらでもいる、足りないのは手のほうだ、と、この依頼を出した年寄りの神官は言っていた。
話し声で、二階からリシアと、ニアと、ノエルが降りてきた。フィンは金貨の袋を枕にして寝ている、とリシアが言った。起こさなかった。
「鍋、借りていくか」
俺は、台所のほうを見た。北の防衛線では、同じ黒い石を鉄の鍋に入れて運んだ。鍋ごと布でくるめば、少しはましになる。
「何に使うのですか」
「下の石に、かぶせる」
「柱に埋まっているものに、どうやってかぶせるのですか」
リシアに言われて、鍋はやめた。五人で、宿を出た。
夜の神殿は、昼より白く見えた。通りには首から札を下げた人の姿もなくて、白い石の道に落ちているのは、エレノアの手燭が作る俺たち五人の影だけだった。
祈りの間に入れるのは、位の高い者だけだ。聖女候補のエレノアが先に立つと、戸口の番の神官は、うしろの四人を一度だけ見て、何も訊かずに頭を下げた。
祈りの間は、夜でも暖かかった。
地下の丸い部屋だ。床の真ん中の穴に、平たい石が一枚かぶせてある。そのまわりだけ、床が白く乾いている。平たい石は、あとからのせた、ふただった。きのう、その下に段と、もう一つ古い部屋を見つけた。部屋の柱には、熱を集める黒い石が埋まっている。集めすぎた熱が、ここまで上がってくる。
ニアは、壁ぎわの石の長椅子に腰を下ろした。ノエルは、ふたの石の横にしゃがんで、床に耳を寄せた。下の部屋には鉄の扉があって、きのうは、その向こうで誰かが俺たちの話を聞いていた。
「……今夜は、いない」
ノエルは立ち上がって、あくびを一つした。それから長椅子の端に座って、目を閉じてしまった。
ふたの石を、横へ滑らせた。きのうと同じで、軽い。下から、暖かい空気が上がってくる。エレノアの手燭の火が、穴のほうへ傾いた。
そこで、手が止まった。
きのう、帳面係のリオネルが言っていた。この乾いた円の真ん中と、部屋の真ん中が、手のひら一つぶん、ずれている、と。何のことか分からなくて、聞き流していた。
床が乾くのは、ふたのまわりだ。円がずれているなら、ふたがずれている。
ふたを、閉めてみた。
ふたは、穴よりひとまわり大きい。ぱっと見には、穴はふさがって見える。きのうは、それで閉まったと思っていた。
閉まりきっていなかった。ふたは、あと手のひら一つぶんというところで、こつんと止まる。そのせいで、奥の縁に、指が一本入るくらいのすき間が残っていた。そこから、暖かい空気が細く上がっている。
ふたを、もう一度わきへよけた。ふたを滑らせる溝が、むき出しになる。
溝のいちばん奥に、青く錆びた金具が一本あった。指の長さほどの棒だ。本当ならまっすぐ立って、ふたを奥で受け止める。それが根もとから手前へ折れ曲がって、ふたを手のひら一つぶん早く止めていた。
鍋は、いらなかった。
「……閉まってなかったのか」
「この金具を起こせば、閉まるのですか。ずいぶん簡単な話ですね」
リシアが、溝をのぞいて言った。俺は答えずに、右手を金具にかざした。
折れた金具に、熱を入れた。熱して、やわらかくして、叩いて起こす。
赤くならなかった。
入れたそばから、熱が下へ抜けていく。金具の根もとは、溝の底を突きぬけて、下の部屋のほうへ伸びているらしい。下の黒い石が、吸っている。
そのうち、こっちの指が冷えてきた。金具に近づけていた右手だ。指先が白くなって、曲がりにくくなる。おととい、ここへ降りる階段の壁に触ったときと同じだった。
「レン」
リシアが、俺の手首を引いた。
「熱の逃げ道を、私がふさぎます。簡単ではなかったようですから」
リシアは、溝の上に片手をかざした。金具の根もとを囲むように、溝の底に薄い膜を一枚張る。光の加減で、やっと見えるくらいの膜だ。
金具と、その下の部屋とが、膜で分かれた。
「長くは持ちません。重いです、これ」
リシアの額に、汗が浮いていた。下へ引かれる熱を、膜一枚で受けているらしい。
もう一度、熱を入れた。
今度は、たまった。青い錆が焦げて、その下が暗い赤になっていく。
左手で、腰の解体用の刃を抜いた。その背で、折れた先を横から叩く。一回。二回。リシアの膜が、一度たわんだ。三回目で、金具がまっすぐに立った。
リシアが、膜を消した。肩で息をしている。新しく縫いつけたばかりの手袋のボタンに、錆の粉が青くついていた。
ふたを、閉めた。
最後まで滑った。こつん、ではなくて、ごとり、と重い音がして、奥のすき間が消えた。
しばらく、誰も動かなかった。
エレノアの手燭の火が、まっすぐ上に立っていた。
足もとから上がっていた暖かさが、止まっている。首のうしろの汗が、冷えていく。
「……鎮まりました」
エレノアが、小さく言った。
俺は、右手を握ろうとした。握れなかった。指が、半分のところで止まる。
ニアが長椅子から立ち上がりかけた。その前に、エレノアが俺の横に膝をついた。
「手を、出していただけますか」
「大したことない」
「出してください」
ニアの言い方だった。
エレノアは、手燭を床に置いて、両手で俺の右手をはさんだ。光は、出さない。指の付け根を、人さし指から順に押していく。押す場所が、少しずつずれていた。力も、強すぎる。
「息」
ニアが、長椅子から言った。
「吸うときに押して、吐くときに離します」
「……はい」
エレノアは、俺の息に合わせようとして、自分の息を止めてしまった。顔が、だんだん赤くなる。
「止めないで」
「……はい」
ノエルが、目を閉じたまま、声を出さずに笑っていた。寝ていなかったらしい。
小指までたどり着くのに、ニアの倍はかかった。それでも、指は曲がった。拳が、最後まで握れる。
「動く」
「……よかった」
エレノアは、自分の両手を見た。親指の腹が、赤くなっていた。何十人もまとめて治せる手だ。
ふたの石に手を置くと、まだぬるかった。下の黒い石は、そのままだ。金具がなぜ折れたのかも、分かっていない。
エレノアは、胸から紙を出して、ふたの石の上に広げた。
『祈りの間の熱は、神意の乱れによるもの。聖女候補の祈りにより、鎮まった』
細くて、右へ傾いた字だ。エレノアの字ではない。紙を渡した側の、誰かの字だ。
「鎮まったのは、本当になりました」
エレノアは、法衣の内側から、短いペンと小さなインク壺を出した。壺のふたを開けるのに、少し手間どった。
「神意の乱れ、も、祈りにより、も、本当ではありませんが」
「半分だな」
「半分です」
エレノアは、名前の欄に、ペンを下ろした。何度も書いては削って、薄くなっている紙だ。破れないように、ゆっくり書いた。小さな、丸い字だった。
書き終えても、ペンを置かなかった。
名前の欄の、さらに下。何も書いていない余白に、もう一度、ペン先をつけた。
丸い字で、一行、書き足した。名前よりも、少し小さい字だった。
『熱のもとは、祈りの間の下にあります。 エレノア・セラフィス』
お読みいただき、ありがとうございました。
鍋は、いりませんでした。
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