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聖女の迷い

第127話 聖女の迷い


 夕方、エレノアが宿の戸を開けて、入口で立ったまま言った。


「少しだけ、座らせていただけますか」


 白い法衣の裾に、通りの砂がついていた。髪を結んだ銀の紐が、きのうよりゆるんでいる。耳のうしろの髪がひとすじ、法衣の襟に落ちていた。手には、折った紙を一枚持っている。きのう地下で、鉄の扉の札と見比べた、あの紙だ。


「神殿では、どこにいても誰かが見ていますので」


 宿の一階には、俺と、リシアと、ニアと、フィンがいた。リオネルは二階で、礼状の字を写した帳面とにらみ合っている。ノエルは、夕方の鐘を聞きに出たまま戻っていない。


 俺は、向かいの椅子を足で押した。座らせてくれと言ったのに、エレノアはそれからもしばらく、戸口の敷居の上に立ったままでいた。


 今朝、神殿から礼状と報酬が届いた。浄化は果たされた、と書いてあった。地下で俺たちが話したことまで、礼状には書いてあった。鉄の扉の向こうで、誰かが聞いていたらしい。


 エレノアも上に話したのかどうかは、まだ分からない。


 口止めを頼みに来たのか、と俺は思った。地下で見たものを、黙っていてほしい。そう言いに来たのなら、話は早い。断るだけだ。


 エレノアは椅子に座って、紙をテーブルに置いた。手をついたところで、テーブルがかたりと傾いた。脚が一本、短いらしい。


「それ、三年前から直す直すって言ってるんだけどね」


 台所から宿のおかみが顔を出して、それだけ言って引っこんだ。直しに来る気配は、なかった。


「今朝、上の方から、お言葉をいただきました」


 エレノアは、自分の手を見ながら言った。


「お顔は見ていません。帳の向こうから、お声だけです。外塔の方々を、よく案内した、と」


 礼状を書いた者と、扉の札を書いた者と、扉の向こうで聞いていた者。顔の見えない相手が、また一人増えた。


 リシアの針が、止まった。リシアは窓ぎわで、手袋の手首に、取れたボタンを縫いつけているところだった。


 エレノアは、手を見たまま続けた。


「私は、案内したつもりはありませんでした。自分で見たくて、降りただけです。……それを、案内と呼ばれました」


 エレノアは、そこで初めて顔を上げて、俺を見た。


「きのう地下で聞いたことは、私は誰にも話していません。信じていただけるかどうかは、分かりませんが」


 口止めではなかった。


「信じるかどうかは、まだ決めてない」


 俺が言うと、エレノアはうなずいた。怒りもしなかったし、言い訳もしなかった。


 ニアが台所から、何も言わずに湯気の立つ茶を持ってきて、エレノアの前に置いた。朝からかまどの端に置きっぱなしで煮つまった、色の濃い茶だ。エレノアは礼を言ったが、手はつけなかった。


 テーブルの上の紙が、少しだけ開いていた。


『祈りの間の熱は、神意の乱れによるもの。聖女候補の祈りにより、鎮まった』


 細くて、右へ傾いた字。おととい祈りの間で初めて見たときから、一字も変わっていない。その下に、名前を書く欄がある。そこだけが、まだ白い。


「これを、夜の鐘が鳴るまでに出すように言われています。私の名前を書いて」


「書いたのか」


「書いていません」


 エレノアが、紙の端を持ち上げた。


 名前の欄のあたりだけ、紙がほかより薄くなっていて、窓からの夕日がそこだけ抜けた。インクを削った跡だ。書いては削り、また書いては削ったのだろう。何度やったのかは、紙の薄さを見れば、だいたい分かった。


「鎮まっていないものを、鎮まったと書くことになります」


「そうだな」


「書かなければ、命じられたことに背きます。……うちから聖女候補を出したことを、父は今でも、来る客ごとに話すそうです」


「書かずに出したら、どうなるのですか」


 リシアが、針を持ったまま訊いた。


「聖女候補では、なくなると思います。……たぶん、それだけでは済みません」


 リシアは、それ以上は訊かなかった。縫いかけのボタンに目を戻して、糸を一度、強く引いた。


「……どちらが正しいのか、教えてはいただけないのですね」


「俺に訊くことじゃない」


「……そう、ですね」


 エレノアは、茶から上がる湯気を、しばらく目で追っていた。


 フィンは、隣のテーブルで、今朝もらった報酬の金貨を積んでいた。十枚重ねたところで塔が崩れて、一枚が床を転がり、エレノアの靴に当たって止まった。


「あ、ごめん。それ俺の」


 エレノアは金貨を拾って、フィンに返した。フィンは受け取って、また一枚目から積みはじめた。「いち、に、さん、ご」と数えて、自分で首をかしげている。エレノアの紙には、一度も目を向けない。


 誰も、急かさなかった。エレノアは椅子に浅く腰かけて、背もたれを一度も使っていない。呼ばれたら、すぐ立てる座り方だ。急かせば、たぶん、言われたほうを選ぶ。


 リシアは、玉結びを二度やり直してからボタンの糸を歯で切り、縫い終えた手袋を窓の夕日にかざして、ボタンが曲がっていないかを片目で確かめた。ニアは、冷めていく茶を見ていたが、取り替えようとはしない。台所からは、おかみが鍋をこする音がしている。


 エレノアは、法衣の内側から、もう一枚、小さな紙を出した。


 施療所の帳面を、破いた切れ端だった。きのうの日付と、『三十二』の数字。その横に、小さな丸い字で、名前が一つだけ書いてあった。


『ミナ』


「あの子の名前です。今朝、施療所で母親に訊きました」


「今朝は、何人だったんだ」


「三十四名です」


「名前は」


「……この一つだけです」


 エレノアは、切れ端をニアのほうへ向けた。ミナは、きのうの朝、エレノアの光のあとでニアが足を温めた子どもだ。


「足は、朝まで温かかったそうです」


「……そうですか」


 ニアは、切れ端の丸い字を、しばらく見ていた。


「粥は、食べましたか。その子」


「……訊きませんでした」


「そうですか」


「明日、訊きます」


 エレノアは、自分で言ってから、少し驚いた顔をした。


「学院のころは、全員の名前を書いていました。いつからやめたのか、自分でも思い出せません。数だけ書くほうが、早かったのだと思います」


 エレノアは、切れ端を大きいほうの紙の上に重ねた。丸い字と、右へ傾いた字が、上下に並んだ。


「この一つを書くのに、今朝は長くかかりました。人の名前の書き方を、忘れかけていたので」


 エレノアは、少しだけ笑った。


 俺は、自分の指先を見た。十五の春に鑑定盤が《火種》と出したときから、この指だけは、盤と違うことを言っている。


 窓の外を、首から札を下げた人たちが通っていく。歩くたびに、札が小さく鳴った。


 外で、鐘が鳴りはじめた。


 夕方の鐘だ。七回鳴る、とノエルが数えていた。夜の鐘まで、あとひとつ。ノエルは、まだ戻ってこない。どこかの軒下で、指を折って数えているのだろう。フィンの金貨の塔は、今度は十二枚まで積めている。


 エレノアは、二枚の紙を重ねたまま、胸にしまった。茶には、最後まで手をつけなかった。


「お邪魔しました」


 立ち上がって、椅子をきちんと戻す。戻すときに手が触れて、テーブルがまた、かたりと傾いた。


 戸口まで歩いて、エレノアは戸に手をかけた。そこで、少しだけ止まった。振り返りはしない。


 俺は、口を開けて、閉じた。出せ、とも、出すな、とも、出てこなかった。


 鐘が、四回目を打った。


「エレノア」


 法衣の背中が、動かなくなった。


「見えたものを、見なかったことにするな。……それだけだ」

お読みいただき、ありがとうございました。

名前を書く欄だけが白いままの紙と、名前が一つだけの切れ端の回でした。

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