治す理由
第124話 治す理由
朝の鐘が鳴る前に、ニアはもう宿の戸口で靴をはいていた。
「施療所の列、見てきます。あの子、まだ並んでいるかもしれないので」
「一人でか」
「はい」
はい、で終わりだった。俺は、椅子の背にかけてあった上着を取った。
「焦げくさいです」
「暖炉のせいだ」
ゆうべは、ニアに言われたとおり暖炉のそばで寝た。暑くて三回起きた。きのう神殿の地下で熱を吸われて、右手の指が半分しか曲がらなくなっていた。それが朝には、もうふつうに曲がった。
二階からは、フィンのいびきが階段の下まで聞こえてくる。
この街に来た日の昼、通りの角の施療所には、首から下げた札の順に人が並んでいた。縁が銀の札が前で、縁に何も塗っていない木の札がいちばん後ろ。最後尾には、頬の赤い子どもを抱いた女がいた。ニアが水筒を差し出そうとして、係の人に止められた。その列だ。
宿から施療所までは、白い石の通りをまっすぐ歩いていく。途中で朝の鐘が鳴りはじめて、着くころに鳴りやんだ。道の端では、年寄りが柄の割れた箒で石の継ぎ目の砂を掃き出しながら、何かぶつぶつ言っていた。
「なんで、あの子なんだ」
歩きながら訊くと、ニアは少し考えた。
「いちばん後ろだったので」
それが理由になるのかどうか、俺にはよく分からなかった。
施療所の前には、もう三十人ほどが並んでいた。順番は、あの日と同じだった。
いちばん後ろに、あの女がいた。子どもを抱いている。子どもの頬は、まだ赤い。
「あの日のうちに、診てもらえたんでしょうか」
ニアが、誰にともなく言った。俺は答えなかった。答えを持っていない。
施療所の戸が開いた。
出てきたのは、白い法衣の女だった。長い髪を、銀の紐できつく結んでいる。きのう、神殿の地下で会ったばかりのエレノアだった。学院のころは、星冠第一班という一番上の班で、回復役をしていた。
エレノアは三段しかない石段の上に立って、列を端から端まで見た。俺たちにも気づいたはずだが、何も言わなかった。
係の男が、エレノアの横で帳面を開いた。
「本日、三十二名です。札の順に、正しく並んでおります」
「では」
エレノアが、両手を広げた。
光の輪が、石段から通りへ広がっていく。列の先頭から最後尾まで、一度に届いた。腕を吊った男が、布の下で肘を曲げてみている。咳をしていた年寄りが、咳をやめて胸をさすった。足を引きずっていた若いのが、二、三歩歩いて、首をかしげた。
光は、列の脇に立っていた俺たちのところまで届いた。袖の焦げ跡は、焦げたままだった。光が消えるまで、十も数えなかった。
「終わりです。お大事に」
係の男は列にそう言ってから、エレノアのほうを向いて、小さな声で付け足した。
「今朝も、効率よく済みました」
列は、ばらばらとほどけていった。礼を言う者もいれば、言わない者もいる。膝をさすりながら「古い傷までは、やっぱり治らんな」とこぼして帰っていく男もいた。誰も、エレノアのそばには寄らない。エレノアのほうも、帰っていく背中を一つも目で追わなかった。
エレノアは、係の男から帳面を受け取ると、石段のいちばん下の段まで降りてきて何か書きつけた。すぐ横に立っていたから、帳面の中が見えた。今日の日付の隣に、数が一つ書いてあるだけだった。
『三十二』
学院のころ、エレノアは治した人の名前を、一人ずつ控えの紙に書いていた。小さな丸い字で。
今日の帳面には、名前が一つもない。
……まあ、三十二人の名前を書いていたら、昼になる。
最後尾の女も、子どもを抱いたまま帰りかけていた。子どもの頬の赤みは、少し薄くなっていた。くるんだ布の端から、小さな裸足がのぞいている。指先が、少し白っぽい。
治ったんだな、と俺は思った。顔色が戻ったなら、もういいはずだ。
ニアは、そう思わなかったらしい。
「あの」
ニアが女を呼び止めた。女は足を止めて、ニアの首もとを見た。札がないと分かると、少し身を引いた。よそ者だと思ったのかもしれない。
「触りません。……足、見せてもらってもいいですか。その子の」
女は、首から下げた何も塗っていない木の札を、片手で握った。迷ってから、子どもを抱き直して、足が見えるようにした。
ニアは、触らずに手をかざして、少し眉を寄せた。それから、俺のほうを見た。
「冷たいです。顔はまだ熱いのに、足だけ」
さっき見えていた、あの白っぽい指だ。爪の色も薄い。息も、浅くて速い。胸が、小刻みに上下している。
足は見えていたのに、顔色だけで治ったと決めていた。外れた。
「さっきの光で、熱はだいぶ下がっています。でも、体の真ん中だけがまだ熱くて、温かい血が足まで回っていないんです」
ニアが、女に言った。女は、分かったような、分からないような顔でうなずいた。
「手を当てないと、戻りません。少しだけ、触ってもいいですか」
女がうなずいた。
俺も隣にしゃがんだ。
「温めるだけなら、俺がやろうか」
「だめです。レンさんの火は、熱すぎます」
即答だった。俺は、出しかけた手を膝の上に戻した。
ニアは女を石段の端に座らせて、自分はその前に膝をついた。それから、子どもの両足を、自分の両手で包んだ。光は、ほとんど出ない。目を閉じて、じっとしている。ときどき、包んだ手を少しだけずらす。かかと。足の裏。指先。
子どもの息に合わせて、ニア自身の息も、ゆっくりにしていく。子どもの息が、それにつられるみたいに、少しずつ長くなった。
石段のいちばん下の段から、エレノアがそれを見ていた。
「その子は、もう治しました」
「はい」
ニアは、顔も上げなかった。
「その時間があれば、私は列をもう一つ治せます」
「そうですね」
ニアは手を止めなかった。言い返しもしないし、やめもしない。
係の男が、空いた通りを見回してから、戸の中へ戻っていった。次の列が来るまで、まだ時間があるらしい。通りの向こうで、荷車の車輪がきしんでいる。片側だけ油が切れているのか、同じ音がずっと続いていた。
どれくらいたったか分からない。子どもの足の指が、少しずつ赤くなってきた。爪の色も戻ってくる。胸の上下が、ゆっくりになった。
子どもが、母親の胸に顔をうずめて、目を閉じた。眠ったらしい。小さな手が、いつのまにかニアの袖をつかんでいた。ニアはその指を一本ずつそっとほどいて、布の中に戻した。
「今夜は、足を布でくるんで寝かせてください。きつくしないで」
ニアが言った。女は、子どもの足を布の中にしまいこんで、何度も頭を下げた。礼の言葉は、最後まで出てこなかった。
女が通りの角を曲がるまで、ニアは石段の前に膝をついたままでいた。
立ち上がるとき、ニアの膝が鳴った。ニアは少し顔をしかめて、膝の砂を払った。
「長いな」
俺が言うと、ニアは首をかしげた。
「何がですか」
「一人に」
「一人なので」
ニアは膝の砂をもう一度払って、それ以上は何も言わなかった。
エレノアは、まだ石段のいちばん下の段にいた。帳面を開いたまま、『三十二』の字を見下ろしている。ペンの先が、その数字の横で止まっていた。何かを書き足そうとしたのかもしれない。書かなかった。
しばらくして、エレノアは帳面を閉じた。
エレノアは石段を降りきって、ニアの前で止まった。
「あの子の足が冷たいことに、私は気づきませんでした」
「顔は、熱かったので」
ニアはそれだけ言って、通りの角のほうを見た。さっき女が曲がっていった角だ。
エレノアは、閉じた帳面を胸に当てた。ペン先のインクが、法衣の袖に小さな点を付けていた。
「三十二人のうち、あの子のような人は、何人いたのでしょう」
ニアは黙っていた。あの母子のほかに、俺が覚えている顔は一つもなかった。
戸の中から、係の男が次の列の札を読み上げて、帳面に並べていく声が聞こえた。銀、銀、木、木。
エレノアは、帳面を握る指に、少しだけ力を入れた。
「……効率と、正しさは、違うのですか」
お読みいただき、ありがとうございました。
三十二人と、一人。どちらも同じ朝の出来事でした。
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