聖女、エレノア
第123話 聖女、エレノア
「どこでだ」
俺が訊いても、ノエルは答えなかった。前にも似た音を聞いた、と言ったきりだ。震える指を、もう片方の手で握りこんでいる。聞こえていないのか、答える気がないのか、顔を見ても分からない。
首のうしろを、汗が一筋つたった。火の気もないのに、神殿の地下の祈りの間は、冬とは思えないほど暖かい。
そのとき、階段のほうから足音が降りてきた。
軽くて、急がない足音だった。ノエルが握った手をほどいて、階段のほうへ顔を向ける。俺たちをここまで案内してきた若い神官が、あわてて壁ぎわに寄った。
小さな手燭の明かりが、最後の段を照らした。
「……ここには、位の高い者しか入れないはずですが」
白い法衣の女が、手燭を少し上げて、俺たちを一人ずつ見ていく。長い髪を、銀の紐できつく結んでいた。
顔に、見覚えがあった。
六年前、学院の合同の任務で一緒になった、星冠第一班の回復役だ。名前は、エレノア・セラフィス。
あのころは、髪を結いもしないで、土に膝をついて怪我人を治していた。治した人の名前を、控えの紙に小さな丸い字で書きつけていたのを覚えている。
「聖女候補さま」
若い神官が深く頭を下げた。帯の二重の結び目が、腰の前でずれた。エレノアはその神官を見て、それから俺たちを見直した。壁ぎわで帳面を開いていたリオネルが、ペンを止める。
エレノアの目は、俺の上を一度通りすぎて、ニアのところで止まった。
ニアは壁ぎわで、水筒の栓を閉めかけて、そのまま動かなかった。
「……エレノアさん」
「あなたでしたか」
ニアに向けた言葉は、それだけだった。ニアの手の中で、水筒の栓は半分閉まったまま止まっている。
フィンが、俺の袖を引いた。
「知り合い?」
「学院のころのな」
「ふうん。……なんか、こわい」
声が大きい。エレノアには、たぶん聞こえている。リシアが小さく「フィン」と呼ぶと、フィンは両手で口をふさいだ。ふさぐのが、遅い。
「神殿に呼ばれた方々ですね。……下まで降りているとは、聞いていませんでした」
エレノアは乾いた円の手前まで歩いてきた。手燭の明かりで、床の白く乾いた丸い跡と、その上のしおれた花が浮かぶ。エレノアは、少しも驚いた顔をしなかった。法衣の袖口に、そこだけ色の違う糸でつくろった跡がある。
「私は、この部屋を清めるように言われて来ました。祈りの間の乱れを鎮めて、上に報告を出します」
「乱れって、何の乱れだ」
俺が訊くと、エレノアは手燭を若い神官に渡して、胸に抱えていた紙を開き、俺たちのほうへ向けた。エレノア自身は、その紙を一度も見なかった。
「それを、これから確かめるのです」
若い神官の手燭の明かりが、紙の表に当たった。
もう、字が書いてあった。
『祈りの間の熱は、神意の乱れによるもの。聖女候補の祈りにより、鎮まった』
字は細くて、右へ傾いていた。学院のころの、あの小さな丸い字とは違う。
……この人の字じゃない。たぶん。
「確かめる前に、もう答えが書いてあるな」
エレノアの目が、俺の右手に移った。リシアに借りた手袋の指が、半端に曲がったまま止まっている。
「その手は」
「階段の壁に、熱を吸われた」
「何に、ですか」
「分からない」
エレノアは、それ以上は訊かなかった。紙の端を持つ手が、止まっている。
しばらく、何も言わない。それから、紙をきちんと二つに折り直した。
「……書いてあるとおりに祈ってくるように、と。上から、そう言われています」
「上というのは、どなたです」
リシアが言った。いつもの、丁寧で棘のある声だ。
「確かめるために、来たのです」
エレノアは、さっきと似たことを言った。今度は少しだけ声が硬い。指先が、折った紙の折り目を何度もなぞっていた。
書いたのは、上の部屋で俺たちを迎えた、白い髭の年寄りの神官だろうか。そう思ったが、確かめようはなかった。
エレノアは、乾いた円の前に立った。手燭を持たされたままの若い神官は、垂れた蝋が手の甲に落ちても、手燭を離さない。
エレノアが、両手を胸の高さで広げる。
淡い光が、輪になって広がった。
学院のころに何度も見たのと、同じ光だった。部屋の端から端まで、壁ぎわの長椅子の下まで、一度に届く。フィンの額にできていた、階段で天井にぶつけたこぶが、すっと引いていく。
「あ、治った」
フィンが、額を触って言った。
光は、乾いた円の上も通っていく。しおれた花は茶色いままで、床の白い粉もそのまま。部屋の暖かさも、変わらない。
俺の右手も、変わらなかった。手袋の中で、指はまだ半分しか曲がらない。
この光なら、手くらいは治るだろうと思っていた。外れた。
光が消えると、エレノアは自分の両手を見た。もう一度広げかけて、やめる。
「……鎮まりませんね」
誰に言ったのかは、分からなかった。若い神官が、手燭を持ったまま一歩さがる。
「学院を出てから、ずっとこちらに?」
リシアが訊いた。
「神殿に推薦された者は、神殿に戻るものです」
フィンが口をはさんだ。
「そういうもんなの?」
「そういうものです」
答えを聞くと、フィンは「へえ」と言った。それから「帰りに、あの甘いやつ、また買おうぜ」と言ったが、誰も返事をしない。
部屋は、静かだった。リオネルのペンが紙をこする音だけが、しばらく続いて、途中で止まる。ペン先が紙に引っかかって、帳面に小さな穴があいたらしい。リオネルは、舌打ちを一つした。
「レンさん」
ニアが、いつのまにか水筒を足もとに置いて、俺の横にしゃがんでいた。
「手、出してください」
「大したことない」
「出してください」
二回目は、少しだけ強かった。俺は手袋を外して、右手を出した。
ニアは、両手で俺の手をはさんだ。光は、ほとんど出ない。目を閉じて、指の付け根を順に、ゆっくり押していく。人さし指、中指、薬指。押されたところから、ぬくもりが少しずつ戻ってくる。指を押して温めてもらうのは、子どものころ、霜焼けの指を母さんに押してもらって以来だ。
息を吸うのに合わせて押して、吐くのに合わせて離す。ニアは、それを何度もくり返した。
小指までたどり着くのに、ずいぶんかかった。
フィンが待ちきれずに、しおれた花の茎を一本、指で弾いた。花びらが一枚、粉になって落ちる。リシアににらまれて、フィンは手を背中に隠した。
「……動きますか」
ニアに言われて、指を曲げてみた。
曲がる。拳が、最後まで握れた。
「ああ。動く」
「まだ、少し冷たいです。今夜は、火のそばで寝てください」
「俺が、火のそばで寝るのか」
「はい」
ニアは、冗談を言っている顔ではなかった。
外した手袋を、リシアに返した。手袋の指は、まだ俺の指の形に曲がっていた。リシアは何も言わずに、それを直さないまま自分の手にはめた。
エレノアは、少し離れたところで、それを見ていた。六年前の任務のときと同じで、割りこまずに、ただ立っている。けれど、体の横に下ろした右手の指だけが、ニアが押していた順番どおりに、一本ずつ小さく曲がっていた。
若い神官の手燭の火が、乾いた円のほうへ、わずかに傾いている。風かと思ったが、この部屋に風は通らない。
ノエルは壁ぎわに立ったまま、エレノアが降りてきてから一度も口を開いていない。指を、また握りこんでいた。
「上へ戻ったら、この紙を出します」
エレノアが、折った紙を胸に戻した。
「その紙、写させてもらえますか」
リオネルが、帳面から顔を上げずに訊いた。エレノアは答えなかった。
ニアが立ち上がって、足もとの水筒を拾い、腰に戻した。栓は、まだ緩いままだった。エレノアのほうは、見ない。
エレノアは階段のほうへ一歩踏み出して、そこで止まった。振り返らないまま、言う。
「ニアさん」
ニアの肩が、少しだけ上がった。
「あなたは、まだそうやって、一人ずつ看ているのですか」
お読みいただき、ありがとうございました。
六年ぶりの再会は、ひと言だけでした。
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