次の依頼、聖教国から
第120話 次の依頼、聖教国から
「ゼロが、ひとつ多くないか」
フィンが、紙を窓の光に透かしながら言った。
「多くない。俺も三回数えた」
ボルクが答えた。……ボルクも数えたのか。
朝の一階の長いテーブルで、その紙が、さっきから手から手へ回っている。依頼書だ。外塔がこの一年で稼いだ分を全部足しても、報酬の欄のこの数字には届かない。
依頼書を持ってきたのは、白い服を着た男だったらしい。夜明けすぐに親父の店の戸をたたいて、これを外塔に、とだけ言って帰っていったそうだ。
「何も買っていかなかった」
帳場から、親父の声がした。怒っているのか、どうでもいいのか、声では分からない。
俺のところに回ってきた依頼書の字は、きれいすぎるくらいきれいだった。
『セルフィア聖教国の神殿より、外塔の皆さまへ。
神殿に付属する古い施設の、浄化をお願いしたい。
王国の北で、熱の異常を鎮められたと聞いている。
くわしいことは、お越しいただいてからお話しする。』
右下の隅に、小さな印が押してあった。黒っぽいインクで、丸の中に、まぶたを閉じた目が一つ描いてある。下向きのまつげは長くて、丸の縁を越えて、細い線で何本も下へ垂れている。
「北のこと、もう向こうに知られているんですね」
隣で、リシアが依頼書の三行目を、指でゆっくりなぞっていた。防衛線から戻って、まだひと月だ。リシアの指は、「鎮められた」の字の上で止まった。
「聖教国って、こないだ地図の隅にあった国じゃん」
フィンが身を乗り出して、俺の手から依頼書を取った。また窓の光にかざして、ひらひらさせる。
「破れます。神殿の紙ですよ。高いんですから」
戸口から声がして、リオネルが入ってきた。靴の先に泥がついている。朝飯の前に、支部まで走っていったらしい。
「なんで紙の値段まで知ってんの」
「本物でした。支部にも、ちゃんと依頼の届けが出てます。判も、神殿のものでした」
リオネルはフィンには答えずに、俺の隣に座った。偽物かもしれない、と俺が口に出す前に、片づいてしまった。
「その印は」
俺が訊くと、リオネルはうなずいた。
「神殿の紋だそうです。神殿から出る紙には、みんな押してあるって」
「お前、それ、疑ってた顔だろ」
向かいのグレンが、パンをちぎりながら俺を見て言った。俺はスープを飲もうとして、少しむせた。
リオネルは、ゆうべも二階の床に地図を広げて、その前で寝たらしい。目の下に、黒いくまができている。
「消された報告を赤い糸でたどったら、糸の先が、全部この国のほうへ行くんです」
いつもより早口だった。
「王都に窓口はあっても、こっちから頼んで奥まで入れてくれる相手じゃないんです。向こうから呼んでくれるなら——」
「金も入る。馬の蹄鉄、四つとも替えられる」
「肉、毎日食えるよね」
ボルクとフィンが、リオネルの話の上にかぶせた。リオネルは口を開けたまま、閉じた。
「毎日は、無理だ」
「じゃあ、一日おき」
「俺、新しい靴」
グレンが言った。前に火にかざしすぎて先の反った靴は、もう捨てたはずだ。
「お前のは、この前買っただろ」
ボルクに言われて、グレンは黙ってパンをかじった。
「で、浄化って何すんだよ。祈るのか」
「洗濯じゃない?」
違うと思う。依頼書にも、そこは書いていなかった。
裏から、薪を割る音が聞こえていた。セイルは夜明け前から外に出たきり、まだ戻ってこない。
帳場のほうから、親父がもう一言足した。
「外の国から、名指しか。六年前は、看板の字が曲がってるって、笑われてたのにな」
親父は、またそろばんをはじきはじめる。笑ったのは、たしか親父だった。
フィンが椅子を鳴らして、表へ飛び出していった。すぐに戻ってきて、「まだ曲がってる」と報告した。誰も、直しに行かなかった。
俺は依頼書を手元に引き寄せて、もう一度、隅の印を見た。閉じた目。垂れたまつげ。親指でこすってみても、インクは少しもにじまなかった。
浄化なら、神殿には祈る人がいくらでもいるはずだ。なのに、わざわざ山の向こうから、火を使うやつを呼ぶ。金の余った国の、ただのもの好きか、とも思った。
気がつくと、俺は右の手のひらを、紙の上にぺたりと置いていた。指を少し開いて、押さえつけるように。
十五の春に一度、同じ置き方をしたことがある。
そっと、手を離した。
「で、受けるのかよ」
「受けるよね? ね?」
グレンとフィンの声が、ほとんど同時だった。ラグは、スプーンをくわえたまま、窓の外で吠えている犬を見ていた。
「行きたくない顔になってますよ」
リシアが、今度は依頼書ではなく、俺の顔のほうを見て言った。
「なってない」
「北へ行く前も、その顔でした」
北へ行く前の俺がどんな顔をしていたのか、俺は知らない。
二階の引き出しにしまってある手紙を、思い出した。東の集落で家をなくした家族から、ひと月前に届いた手紙だ。字が大きくて、行がだんだん斜めに下がっていく。最後の行は紙の端にぶつかって、そこだけ字が小さく詰まっていた。
『新しい柱が、一本、立っています。』
封筒の底には、崩れた柱の、焦げた根元のかけらも入っていた。それも、手紙と一緒に引き出しの中にある。
目が、依頼書の三行目に戻った。王国の北で、熱の異常を鎮められたと聞いている。
窓の外で、犬がまだ吠えている。二階から誰かが「うるさい」と怒鳴った。犬は、それでもかまわず吠えつづけた。
「……受ける」
リオネルが、新しい紙を一枚広げて、神殿への返事を書きはじめた。最後に代表の名前を入れるところで、ペンが止まる。俺は、そのペンを取った。
名前を書く。最後の一画で、インクがにじんで、指の先が黒くなった。
リシアは何も言わずに、俺の器にスープを足した。足されたスープは、もうぬるかった。器は、さっきより指一本ぶん、俺の手の近くに置かれていた。
グレンが、パンの最後のひとかけを持ったまま、まだ俺を見ていた。
「お前が嫌がる仕事ってさ、だいたい当たりなんだよな」
「当たりって、どっちのだ」
「知らねえよ」
グレンは、パンを口に放りこんだ。
昼すぎは、帳場で親父の手伝いをした。台秤に、魔物の殻のかけらを載せていく。客は来ない。親父は目盛りから目を離さずに言った。
「聖教国か。母さんの薬草の種な、あっちの山で採れたのがいちばんいいんだと」
「そうなのか」
「高いけどな」
親父は、殻を一つ取って、目盛りを読み直した。何を量り直したのかは、言わなかった。
夜、母さんに言われて、毛布を一枚持って二階の記録部屋に上がった。リオネルは地図の前で寝ていた。赤い糸の束を、片手に握ったままだ。靴下の親指のところに、穴があいている。毛布をかけると、寝たまま「その針、僕のです」と言った。
部屋の隅の棚では、布をかぶせた鉄の鍋が、今夜も棚板をぬるく温めている。
ランプの芯を少し上げてから、机をのぞいた。朝のうちにリオネルが持って上がった依頼書の上に、明日出す返事の紙が重ねてある。返事の紙の端が、隅の印の丸にかぶさっていた。閉じた目は、紙の下だ。紙の外にはみ出しているのは、丸の縁を越えて垂れた、まつげの線だけだった。
返事の紙をどけようとして手を伸ばしかけ、そこで止めた。
六年前。学院の評定の部屋。評定長だったハーグが、若い教官に渡した紙の束の、いちばん下。
あのときも、見えたのはこの線だけだった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
今回で、第2シリーズの第1部はおしまいです。次回から、外塔は山の向こうへ向かいます。
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