第119話 線が一本、上へ伸びる
第119話 線が一本、上へ伸びる
赤い糸が、床の地図の上を走っていた。
東の辺境の小さな村から、うちの支部へ。支部から、王都へ。王都から、北の関へ。糸の両端は、針で地図に留めてある。同じような糸が、地図の上に十本以上あった。
「針、一本足りないんですけど」
リオネルが、床に這ったまま言った。
「知らない」
「レンさんの、右足の下です。さっきから、ずっと」
足をどけると、針が一本、板の隙間に刺さっていた。針先は下を向いていた。足の裏に刺さらなくて、助かった。
北から戻って、四日目の夜だった。記録部屋の床いっぱいに、リオネルが支部から借りてきた王国の地図を広げている。端が丸まるので、四隅にインク壺と本と、黒い石の入った鉄の鍋がのせてあった。
その日の昼、学院からの二通目の手紙を開けた。やっぱりイザークだった。セイルを外塔に入れたことと、リオネルの新しい名簿を、こっちから知らせた返事だ。
『セイル・ノルディアの紙も来た。
数のない名簿は受け取った。読みやすい。
滑車はまだか。』
滑車は、まだだった。
「なんで糸なんだ。線を引けば済むだろ」
「地図を汚したら、支部に返せません」
リオネルは、まじめな顔で言った。それに、糸なら、まちがえたら抜けばいい。インクの線は、抜けない。
「これで、支部と王都と北の関までは、つながりました」
リオネルが、最後の針を刺した。
「でも、そこから先が分かりません。四角い印を押した人が、王都の誰なのか。それが分からないと、ここで止まります」
戸口で、セイルが言った。
「王都の監査院に、学院のころの剣の先生がいる」
俺とリオネルが、同時に振り返った。
「国の役所が、ちゃんと仕事をしているかを調べる役所だ。民間のギルドが頼んでも動かないが、あの人なら、私の手紙は読む」
「読むだけか」
「読めば、たぶん動く。そういう人だ」
セイルは、少しだけ間をおいて、つけ足した。
「家の名前を使わずに頼めるのは、あの人だけだ」
北の関の札の隅の、小さな花の印を、俺は思い出した。セイルの外套の胸には、今も同じ形の留め金がついている。
その夜のうちに、セイルが手紙を書いた。左手で、ゆっくり。リオネルが、四角い印の写しと、十一件の日付の表と、北の関の受け取りの札を写したものを添えた。
便では送らない。次の朝、ボルクが馬で王都まで届けに行った。出る前に、ボルクの馬が水桶をひっくり返して、ボルクのズボンの片方だけがびしょ濡れになった。ボルクは、着替えもせずに、そのまま出ていく。
四角い印の持ち主は、どんなやつだろう、と思った。
六年で十一件。黙って依頼を消して、村がどうなろうと知らん顔をしてきた。頭が回って、ずる賢くて、自分だけは安全なところにいるやつだ。
返事を待つあいだに、雪が一度だけ降って、すぐに溶けた。王都から戻ったボルクは、役所の前で三日待たされた、とだけ言って、あとは何も話さなかった。セイルの右手の包帯は、薄いものに替わっている。
返事が来たのは、二十日後の昼だった。
セイルあての封筒に、紙が三枚入っていた。セイルは一度読んで、それを、そのまま俺に渡した。
四角い印の持ち主の名前は、ハロルド・ベックといった。王都の役所で、依頼の取り下げを扱う係の、いちばん下の役人だった。勤めて、二十年になるという。
監査院に呼ばれて、ベックはこう答えたそうだ。
『北から来る便の袋に、紙が入っていることがある。紙に書かれた依頼の番号に、判を押す。それだけです。中身は読んでいません。読むなと言われていましたので。言われたとおりに、二十年やってきました』
その下に、監査院の人の字で、一行だけ書き足してあった。
『最後に、本人がこう訊いた。判を押した依頼の村は、どうなったのか、と』
東の集落では、家が一軒つぶれた。父親は脚をやられて、冬のあいだ歩けなかった。
ベックは、その日のうちに役所をやめさせられた。十一件の取り下げは、表向きは「手違い」として訂正されることになったらしい。
俺は、ベックの言葉をもう一度読んだ。北から来る便の袋に、紙が入っている。
村の報告は、支部から王都へ上がり、北の関で消えていた。床の糸も、その順番で張ってある。でも、ベックの言うとおりなら、判を押せという指示のほうは、北の関から王都へ届いていた。
向きが、逆だった。
俺は、机の上の紙を一枚ちぎって、矢印の形に折った。それを、王都と北の関をつなぐ糸の、王都の側の端に結びつける。矢印の先は、王都を向いていた。リオネルが、床に這ったまま、俺の手元を見ていた。
ずる賢い悪党は、どこにもいなかった。
「下を一人切って、上は残る」
セイルが、窓のほうを見たまま言った。
「……これで、終わりか」
俺の口から、思ったより間の抜けた声が出た。誰も答えなかった。
同じ昼、支部の窓口から、もう一通回ってきた。サラが、階段の下から持って上がってきた。
宛名の字は、大きくて、行が斜めに下がっていた。
東の集落の、家をなくした家族からだった。床下から上がってきた熱で、柱の根元が炭になって崩れた、あの家だ。
『見舞金が、出ました。
支部の人が、まちがいだった、と言って持ってきました。
新しい柱が、一本、立っています。
息子が、あなたの名前を、柱に書こうとして、止められました。』
字は、あの母親のものだろう。最後の一行だけ、紙の端からはみ出しかけていた。
封筒の底に、何か固いものが入っていた。振ると、黒い木のかけらが、手のひらに落ちてきた。指先ほどの大きさで、片側だけが炭になっている。崩れた柱の、根元のかけらだろう。手紙には、それについて何も書いていなかった。
俺は、かけらに、ほんの少しだけ熱を入れてみた。何も起きない。吸われもしないし、増えて返ってもこない。ただの、焦げた木だった。かけらを握ったまま、俺はしばらく、それを机に置けなかった。
届いた知らせは、一件だけだ。
リシアが、いつのまにか戸口にいた。俺の手の中の手紙を一度だけ見た。
「柱、立ったんですね」
それだけ言うと、リシアは階段を下りていった。
リオネルは、まだ床の地図に向かっていた。俺が机に置いた監査院の三枚目の紙を、裏返している。裏にも、監査院の人の字で、小さく書き足してある。俺は、裏までは見ていなかった。
『北の関の文書係の長に「上から」の手紙を運んでいたのは、西の山道を越えてくる便だった』
リオネルが、新しい糸を一本出した。北の関の針から、西の山道へ。山道は、地図の西の端で切れている。リオネルは、その端に指を置いて、糸の行き先を少し考えてから、端に沿って南西の隅へ伸ばした。
研究院で、ノアの報告に「重要度低」の付箋を貼った部署からも、一本。こっちは、まだ証拠がない。リオネルは、王都の針から、赤ではなく白い糸をゆるく置いて、その先を南西へ向けた。
赤い糸の先と、白い糸の先が、地図の南西の隅に寄っていく。
隅の余白に、山の向こうの国の名前だけが、小さく刷ってあった。
セルフィア聖教国。鑑定を神さまの言葉として扱う、神殿の国だ。十五の春に、俺に《火種》のF等級を言い渡した鑑定盤も、もとをたどれば、あの国から来たものだと聞いたことがある。
セイルが、地図をのぞきこんだ。左手が、外套の胸の花の留め金に触れて、すぐに離れた。
リオネルは、残りの針をそこに刺そうとして、手を止めた。針は、刺さらないまま、指のあいだに残った。
「王国の中だけの話じゃ、なかったみたいです」
俺は、家をなくした家族からの手紙を、しばらく畳まなかった。
お読みいただき、ありがとうございます。
床の地図の糸が、ようやく一つの方向を指しました。
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