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第11話

第11話 ロイの名


坑道の奥へ下りるほど、空気がぬるくなっていった。

灰のような粉が、相変わらず上から落ちてくる。それを払う手の甲に、汗が滲んでいた。岩肌を背にした班の誰も、火を使ってはいないのに。

熱が、どこからか湧いている。


第二層の泥鎧猪を片づけてから、半刻ほど経っていた。ギルド実習の担当教官カイラ・ローデンが、奥の坑道へもう少しだけ足を延ばすと決めた。撤退路の確認と、素材の追加回収のためだ。外棟は補助枠で、列の後ろを進んでいた。

前を行く上位生たちは、まだ余裕の顔をしている。泥鎧猪を仕留めたのは結局、外棟の連携だったのに、そのことはもう忘れたらしい。

カイラが記録には残してくれた。だが、紙に残ることと、その場で認められることは、別ものだ。それくらいは、もう知っている。

ボルクが先頭近くで岩の崩れ方を確かめ、ニアが、突進を受け止めて強ばったままのボルクの肩を、後ろから押して息を整えさせている。

俺は列の最後尾に近いところで、ただ壁の熱をたしかめていた。

たしかめるほど、嫌な感じがした。


「……変な感じ、です」

小声でそう言ったのは、外棟で耳のいいユノだった。手当ても力比べもからきしだが、魔力の流れを聞きとる精度だけは、班の誰よりも高い。彼女は壁に手のひらをあて、奥のほうへ顔を向けていた。

「熱が、流れてくるんじゃなくて……奥から、こっちへ、押し返してくる、みたいで」

押し返してくる、という言い方を、俺は聞きとがめた。

熱は、高いほうから低いほうへ流れる。火に近ければ熱く、離れれば冷める。それが当たり前だ。

押し返してくる熱、というのは、当たり前じゃない。


「ただの熱い石だろ」

前を行く上位生の一人が、振り返りもせずに言った。鉱山の奥には熱を持った鉱脈がある、それくらい入坑前に習っただろう——という顔だった。

カイラだけが、足を止めて壁に手を当てた。何も言わず、すぐにまた歩き出したが、その横顔は、さっきまでと少し違っていた。

俺は、口を開きかけた。ユノの感じているものは、たぶん正しい。そう言ってやりたかった。

だが、補助枠の一つ星が口を挟んだところで、結果は見えている。等級の低い人間が何を言っても、聞く耳の数は増えない。

口を、閉じた。

拾わないのは、知っている。

一年前も、そうだった。


「あなた、さっきから黙っているのね」

隣でリシアが言った。結界貴族アルヴェイン家の娘で、薄膜が割れるたびに失敗と記録される、俺と同じ外棟の一つ星だ。普段は棘のある言い方をするが、今のは、棘の角度が少し違っていた。

「奥を見て、顔が固まっている。何か、知っているの?」

何か、知っている。

言い当てられて、俺は壁の奥へ目を向けたまま、すぐには答えなかった。

話したところで、説明が長くなる。長くなる話は、たいてい途中で信じてもらえなくなる。

「……いや」

俺は短く言った。嘘ではない。まだ、何も確かめていない。

リシアは「そう」とだけ返して、それ以上は訊かなかった。ただ、こちらへ向けた目を、すぐには戻さなかった。

出会った頃のこいつなら、外棟の人間がどんな顔をしていようと、構いもしなかっただろう。それを思って、少しだけ、妙な気分になった。

俺は壁の奥へ目を戻した。

ただ、思い出していた。


一年前のことだ。

俺はまだ鑑定も受けていない、十四の素材屋の子供だった。

村の子供は、鑑定で等級をもらって初めて、半人前として数に入る。それまではいてもいなくても同じ扱いで、素材屋の子なら、なおさらだった。


その頃の俺に、一人だけ、まともに話を聞いてくれる相手がいた。

俺より四つ上の、前線で戦う若い冒険者だった。辺境では姓を呼ばない。みんな、ただロイと呼んでいた。

村のほかの大人は、俺が魔核の手触りで何か言っても、子供のあてずっぽうとしか思わなかった。ロイだけが違った。

一度、ロイが前線から持ち帰った魔核を、俺が手に取って言ったことがある。これはもう中が傷んでいる、武器の素材には向かない、と。買い取りに来た商人は鼻で笑ったが、ロイは商人ではなく、俺の言葉を信じて別の魔核を選んだ。あとで、商人が掴ませようとしたほうの魔核が、加工の途中で割れたと聞いた。

それからロイは、俺の見立てを面白がるようになった。

「お前の目は、鑑定盤より正確だな」

会うたび頭を乱暴に撫でて、半分は冗談、半分は本気で、そう言うやつだった。

等級のない子供の言葉を、本気で聞いてくれる大人は、ロイ一人だった。


その年の春、村に一つの魔核が持ち込まれた。

前線の浅瀬——魔物の数が少なく、新人が経験を積むのにいちばん安全とされる、前線のいちばん手前の縁。そこから戻った冒険者が、土産のように母の店へ置いていったものだった。

その魔核が、冷めなかった。

普通の魔核は、魔物を倒せばただの石になる。手のひらで握れば、人肌の熱がうつって、それきりだ。

だがそれは、握ると、奥から熱が返ってきた。俺の手の熱を吸って、それより少しだけ高い熱を、内側から押し戻してくる。何度握り直しても、同じだった。

母の店の道具で測っても、外側は冷えているのに、芯だけが、いつまでもぬるかった。母は測りながら、何も言わずに眉を寄せていた。

俺は、そのときひとつのことに気づいてしまった。

熱は、外から当てれば中へ伝わる。それが石の理屈だ。なのにこの石は、逆をやっている。外が冷めても、中から熱を作って、返してくる。

こんな石が、浅瀬から来た。

だとしたら——いちばん安全なはずの浅瀬そのものに、奥の何かが、漏れ出している。


俺は、それを言った。

浅瀬に異変がある、近いうちに、奥の魔物が、もっと手前まで出てくるかもしれない、と。

村の自警団の頭に言った。鼻で笑われた。寄り合いの大人に言った。「で、お前の等級は?」と聞き返されて、答えられなかった。

鑑定も受けていない子供が、前線の何を知っている。

行き着く先は、結局それだった。等級のない人間の言葉には、重さがない。正しいかどうかは、関係ない。誰が言ったかで決まる。

それがこの国のやり方だと、俺はそのとき、はっきり知った。


ただ一人、ロイだけが、最後まで俺の話を聞いた。

「お前がそこまで言うなら、何かあるんだろうな」

そう言って、奥の様子を確かめてくると約束した。

ロイは、ちょうどその浅瀬への遠征が決まっていた。新人を連れていく、いつもの仕事だ。日取りも、もう動かせなかった。遠征そのものを止める力なんて、村の若い冒険者一人にはない。

だからロイは、俺の言葉を頭の隅に置いたまま、予定どおり前線へ向かった。

出ていく朝、ロイは振り返って片手を上げた。「土産話、用意しとけよ」。それが、無事なあいつを見た最後だった。


遠征が予定より早く戻ったと聞いて、村の入口に人が集まった。帰ってきたのは、出ていった人数の、半分だった。

俺は、数える前から分かっていた。浅瀬だ。あの石が来た、あの浅瀬で起きた。

地面の下に、熱が溜まっていたらしい。前触れもなく、足元から噴き上がった。火ではなかった。空気そのものが、内側から焼けるような熱だったと、あとで聞いた。

俺が石の中に感じていたものが、地面の規模で起きていた。

ロイは、新人を先に逃がして、最後に坑から出てきた。

出てきたときには、右手が、動かなくなっていた。


報せを聞いて、俺はロイの家へ走った。

あいつは、寝台に座っていた。生きていた。

ただ、動かない右手を、左手で、膝の上に乗せていた。包帯の隙間から、火傷とも違う、黒っぽく変わった皮膚が見えた。

俺は、何を言えばいいのか分からなかった。謝る言葉も、見当違いな気がして、喉で止まった。

俺が言わなくても、ロイには分かっていたんだと思う。

先に口を開いたのは、あいつのほうだった。

「お前は、見えてた」

静かな声だった。

「それだけは本当だ。誰も信じなくても、お前は、ちゃんと見えてた」

そして、いつものように俺の頭を撫でようとして——動かない右手に気づいて、少しだけ笑った。

「……今度は、聞いてもらえるといいな」

責められたほうが、まだ楽だった。


ロイは、それきり前線を退いた。村に残って、若い連中に前線の歩き方を教えている。剣は、もう左手で握る。

あいつの右手は、俺の代わりに動かなくなった。そう思うのは、たぶん思い上がりだ。俺が見抜こうが見抜くまいが、壊れるものは、壊れるときに壊れた。

分かっている。分かっていても、消えないものがある。


王都へ発つ前、最後に会ったとき、ロイは左手で俺の肩を叩いて言った。

「お前の目が正しいって、向こうで証明してこい。等級の高い連中に、嫌でも聞かせてやれ」

俺は、正しく見えていた。

見えていたのに、届かなかった。

等級がなかったから。火種だったから。子供だったから。

だったら——それを全部、ひっくり返すしかない。

正しく見えているだけじゃ、足りない。今度は、聞かせる側に立つ。


ユノの声が、俺を坑道へ引き戻した。

彼女はもう一度、壁に手のひらをあてていた。さっきより、顔が強ばっている。

「やっぱり、変です。これ……熱いんじゃなくて、内側から、戻ってくる熱、です」

内側から、戻ってくる熱。

聞いた瞬間、手のひらの感覚がよみがえった。一年前、俺の手に少しだけ高い熱を返してきた、あの石。

同じだ。

あのときと同じものが、今度は、この坑道の奥にある。

隣で、リシアがこちらを見たのが分かった。何か言いかけて、口をつぐんだのも。

俺は、奥の暗がりを見たまま、手の中の道具を握り直そうとして。

握れなかった。

手が、止まっていた。

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