第10話
第十話 泥鎧猪
音の正体は、すぐに、姿を、見せた。
霧の向こうから、ぬう、と、現れたのは。巨大な、猪だった。
牛ほども、ある。いや、それ以上か。その全身は、ぶ厚い泥と、砕けた鉱物の混じった、鎧のようなもので、覆われている。一歩、踏み出すたびに、その泥の鎧が、ずる、ずる、と、地面を、引きずった。
濡れた泥が、坑道の、淡い光を、にぶく、照り返している。
狭い坑道の、幅、いっぱい。逃げ場は、左右の、わずかな隙間しか、ない。あれに、本気で突進されたら——避けきれる場所は、ほとんど、なかった。
「泥鎧猪だ!」
カイラさんが、叫んだ。
「突進してくるぞ! まともに食らうな!」
泥鎧猪が、前脚で、地面を、掻いた。狙いを、定めている。突進の、構えだ。
「邪魔だ!」
また、グレンだった。
苛立った声とともに、両手から、炎を、放つ。
炎は、泥鎧猪の、横っ腹に、当たった。
——だが。
燃え上がる、はずの泥が。じゅう、と、音を立てて、乾いていく。そして、乾いた先から、かちかちに、固まっていった。まるで、窯で焼いた、陶器のように。
「な……硬く、なっただと?」
グレンが、目を、剥いた。
火で、焼いたせいだ。濡れた泥が、急に、焼き締まって、より硬い装甲に、変わってしまった。
火は、逆効果。焼けば焼くほど、装甲は、硬くなる。
それでも、グレンは、止まらなかった。
「じゃあ、もっと、火力を上げれば……!」
「やめろ! 焼くほど、固くなるだけだ!」
俺の声は、突進の地響きに、かき消された。
ほかの上位生の、氷も、石の槍も。焼き固まった泥の装甲に、はじかれて、通らない。いちばんの火力を持つはずの、上位生たちが。誰一人、この一頭を、止められずに、いた。
泥鎧猪が、走り出した。
ぶ厚い鎧の塊が、こちらへ、まっすぐ、突っ込んでくる。狭い坑道では、避ける場所も、限られている。
上位生たちが、左右へ、散った。
——その、一人が。
逃げ、遅れた。
足を、滑らせたのだ。濡れた地面に。グレンの、取り巻きの、一人だった。尻もちを、ついて、立てずにいる。その、目の前に、泥鎧猪の突進が、迫る。
「危ない!」
誰かが、叫んだ。けれど、誰も、間に合わない。
——間に合った者が、一人だけ、いた。
ボルクだった。
いつも、自分の遅さを、気にして。みんなの後ろで、うつむいている、あのボルクが。
その大きな体が、動いた。
普段の、のろさが、嘘のように——いや、やっぱり、のろい。それでも、誰よりも先に、逃げ遅れた上位生と、突進の、間へ。割り込んだ。
俺には、一瞬、見えた。ボルクの横顔に、よぎった、恐怖が。あの巨体の突進が、どれほど、恐ろしいか。鈍くて頑丈なだけの自分に、受け止めきれるのか。——分かっていて、なお。
ボルクは、退かなかった。
「《硬直》ッ!」
ボルクの全身が、岩のように、硬く、なる。両足を、踏ん張って。腕を、交差させて。来る衝撃に、備える。
そこへ、泥鎧猪の突進が、ぶつかった。
——どぉん。
坑道全体が、震えるような、衝撃だった。鈍い、肉と泥の、ぶつかる音。
ボルクの、両足が、ずるずると、後ろへ、削れていく。守っている上位生の方へ、じりじりと、押し込まれていく。
それでも——倒れなかった。
岩になった体で、泥鎧猪の突進を、まるごと、受け止めて。歯を、食いしばって。低く、唸りながら。一歩、また一歩と、押されながらも。決して、背中の相手の前から、退かなかった。
守られた上位生が、ぽかんと、口を、開けていた。
ボルクの足は、震えている。鉄殻兎のときと、同じだ。動きは、遅い。誰より、のろい。
でも、その遅さで。今、確かに、一人の命を、その場に、つなぎとめていた。
「は、はやく……っ」
ボルクの、絞り出すような、声。
「おれ……足は、遅いけど……ここで、踏ん張るのだけは……得意なんだ……!」
ボルクが、稼いだ、その一瞬で。
俺は、もう、泥鎧猪の、装甲を、見ていた。
グレンが、焼き固めた部分は、硬い。でも——突進で、ボルクに押しつけられた、別の場所は、まだ、濡れている。たっぷりと、水を、含んだ泥だ。
泥は、水を含んで、固まっている。
グレンみたいに、火で、一気に焼けば。中の水が、閉じ込められたまま、外側だけが、陶器のように、焼き締まる。だから、硬くなる。逆効果だ。
でも——じっくりと、中の水分だけを、抜いていったら。泥は、乾いて、縮んで、ひび割れる。日照りで、ひび割れた、田んぼみたいに。
焼くんじゃ、ない。乾かすんだ。
俺は、火を、出さなかった。泥鎧猪の、濡れた装甲に、じわり、と、広く、熱を、通す。燃やすんじゃ、ない。ただ、中の水分を、ゆっくりと、飛ばしていく。
濡れて、つやのあった泥が。みるみる、色を、変えていった。
乾いて、白っぽく、なって。そして——ひび割れていく。
ぴき、ぴき、と。乾いた泥に、無数の、ひびが、走る。
「ボルク! もう一回、押し返せ!」
「お、おう……っ!」
ボルクが、最後の力で、岩の体を、ぐっと、前へ。
その一押しで。ひび割れた泥の鎧が、ばりばりと、音を立てて——剥がれ落ちた。
装甲を失った泥鎧猪の、生身が、むき出しに、なる。
「今だ! 上位生、撃て!」
俺が、叫ぶより、先に。
我に返った上位生たちの、氷と、石の槍が、むき出しの胴へ、突き刺さった。
泥鎧猪は、短く、鳴いて。どう、と、横倒しに、なった。
しん、と、した。
ボルクが、その場に、へたり込んだ。岩の体が、元に戻って、汗だくの、大きな背中だけが、残る。
ニアが、すぐに、駆け寄った。ボルクの、震える腕や、肩に、そっと、手を当てる。傷を、治すんじゃない。乱れた呼吸と、こわばった筋を、ほどいて、整えていく。ボルクの息が、少しずつ、楽になっていった。
守られた上位生が、立ち上がって。何か、言おうとして、口ごもった。外棟の、のろまに、助けられた。その事実を、どう、飲み込めばいいのか、分からない顔だった。
結局、その上位生は、ぼそりと、一言だけ、言った。
「……悪い。助かった」
ボルクは、ぜえぜえと、息をしながら。それでも、嬉しそうに、こくり、と、うなずいた。
迷いの、ない顔だった。普段、自分の遅さを、気にして、いつも、うつむき気味の、あのボルクとは。まるで、別人のような。
速さで、測れば。ボルクは、たぶん、最低だ。鑑定も、そう、出たんだろう。
でも。逃げ遅れた誰かの前に、立って。退かずに、いられること。——それは、速さとは、別の、強さだ。
鑑定の物差しは、それを、測れない。
カイラさんが、その背中を、じっと、見ていた。
それから、記録板に、何かを、書きつけながら、ぽつりと、言った。
「今の……ただ、遅いだけじゃ、ないわね」




