第117話 セイルの選択
第117話 セイルの選択
インク壺が、凍っていた。
セイルは、それを左手で持って、ストーブの上にかざしていた。右手には白い包帯が巻いてあって、その上から、見覚えのある灰色の布が巻きつけてある。壺のふちに張った氷は、なかなか溶けなかった。
「貸せ」
俺は、壺を受け取った。指で包んで、中のインクにだけ熱を入れる。壺の外側は冷たいまま、中で氷がほどけて、黒い水がゆっくり揺れはじめた。ペン先を浸せば、すぐに書ける。俺は、溶けた壺をセイルの手もとに置いた。リシアは、ストーブの前で手袋を乾かしていた。
「便利だな」
セイルが言った。褒めているのか、ただそう思っただけなのか、声からは分からない。
兵たちが「白いの」と呼んでいた魔物を倒して、二日目の朝だった。俺たち四人は、今日、本拠へ帰る。荷造りは、ゆうべのうちにほとんど済んでいた。小屋の隅には、俺たちの袋が四つと、リオネルが紙を詰めこんだ木の箱が一つ、戸口に近い順に並べてある。
鍋の中には、白いのの胸から出てきた黒い石が入っている。
「この黒い石は、便では送りません」
リオネルが、鉄の鍋に布をかぶせながら言った。
「袋に入れたら、関の番小屋で開けられます。だから、僕が外套の下に抱えて持って帰ります」
「じゃあ、お前ごと調べられたら終わりだろ」
フィンが言った。リオネルは、少し考えてから、布の上から鍋を抱え直した。答えは、なかった。鍋の取っ手が、かちゃりと鳴った。
セイルは、テーブルで手紙を書いていた。左手で書く字は、右手のときより大きくて、少し傾いている。それでも、行はまっすぐだった。
セイルの報告は、三回とも、関の番小屋で止められていた。だから今度は、俺たちが本拠へ持ち帰って王都へ回す。そのための手紙だろう、と思った。
「王都の、どこに出せばいい。研究院なら、ノアに渡せる」
セイルは、ペンを止めなかった。
「これは、王都へは行かない」
「じゃあ、どこへ」
「ここだ」
セイルは、最後の行を書き終えると、ペンを置いた。紙を二つにたたんで、小屋の戸口のほうを見た。
「入ってくれ」
戸が開いて、年かさの兵が入ってきた。灰色のひげに、霜がついている。口には、火のついていないパイプをくわえていた。ゆうべも、その前の晩も、くわえているのを見た。火がついているところは、一度も見ていない。
この防衛線の副官だと、前にフィンが兵から聞いていた。
セイルは立ち上がって、たたんだ紙を副官の前に差し出した。
「今日から、ここの指揮を頼む。評議には、私から届けを出す。……出しても、番小屋で止まるかもしれないが」
副官は、紙を受け取らなかった。パイプをくわえたまま、セイルの顔を見ていた。セイルは、紙を副官の前のテーブルに置いた。
「冬の終わりまで、いてください」
「私の報告が届かなければ、薪も手袋も来ない。冬が終わるまで待てば、また誰かが指をなくす」
副官は、パイプを噛んだ。
「この人は、私が四年前にここへ来たときから、ずっと横にいる」
セイルが、俺たちのほうを見ないまま言った。副官のひげの霜が、ストーブの熱で溶けて、一滴だけあごから落ちた。
俺は、テーブルに置かれた紙から、目を離せなかった。ノアに渡せる、と言ったばかりの口が、まだ半分開いていた。
「なんでだ」
口から出たのは、それだけだった。
セイルは、副官から目を離さないまま答えた。
「ここにいれば、私の報告は、また番小屋で止まる。四回目も、五回目も」
少しだけ間があった。
「それに、家のことは……ここからでは、見えない」
セイルの左手が、外套の胸もとへ行った。留め金が二つ並んでいる。片方は、銀の小さな板だった。もう片方は、花の形をしていた。花びらが六つの、細い線の花。どこかで見た形だった。
セイルは、銀の板のほうを外そうとした。左手一本では、留め具がなかなか外れなかった。二度しくじって、三度目で外れた。
花の留め金には、指で一度だけ触れた。それは、外さなかった。
「指揮官のしるしだ」
銀の板を、副官の手のひらに置く。副官の手は、すぐには閉じなかった。
小屋の外に、いつのまにか兵が集まっていた。窓の霜の溶けたところから、何人かの顔がのぞいている。誰も、入ってはこなかった。
副官は、しばらく手のひらの銀の板を見ていた。それから、パイプを口から外して、ゆっくり手を閉じた。
「……火打ち石が、湿ってましてね」
副官は、パイプを胸のポケットに入れながら言った。誰に向けた言葉なのかは、分からなかった。
「三年、ずっとです」
それきり、副官はテーブルの紙を取って、小屋を出ていった。戸の外で、兵たちが道をあけた。
セイルは、しばらく閉まった戸を見ていた。それから、テーブルの上の紙の束から、紐でまとめた受け取りの札を三枚抜いて、リオネルの前に置いた。
「番小屋に預けた報告の、受け取りの札だ。三回分ある。私が持っているより、君のほうが読める」
リオネルは、札を両手で受け取って、手帳のいちばん奥に挟んだ。
セイルは、テーブルのペンを一度持ち上げて、また置いた。それから、俺のほうを向いた。
「外塔に、入れてくれないか」
「……は?」
ストーブの前で、リシアの手から、乾かしていた手袋が片方落ちた。
「……俺一人では決めない。誰を入れるかは、本拠にいる十三人で決める。うちは、そういう決まりだ」
「それでいい」
「落とされるかも、しれないぞ」
「それでもいい」
戸口の横に置かれたセイルの袋は、俺の袋より小さかった。
「寝るところも、ないですよ」
フィンが言った。
「グレンさんは、棚で寝てます」
「棚でいい」
セイルは、まじめな顔のまま答えた。
「寝返り打ったら落ちますよ」
「落ちない」
「落ちますって。俺、見ました」
……学院の五つ星が、倉庫の棚で寝るのか。俺は、口には出さなかった。
セイルは、右手の包帯の上に巻いていた、もう一枚の布をほどいた。リシアの襟巻きだった。
「これは、返す」
前に返そうとしたときは、窓の外を見たまま断ったリシアが、今度はセイルのほうを向いた。セイルの差し出した襟巻きを受け取って、自分の首に巻いた。
「冷えていませんか」
リシアが訊くと、セイルは包帯の手を開こうとして、途中でやめた。
「いや」
それだけのやりとりだった。リシアは、巻き終えた襟巻きの端を、一度だけ指で整えた。それから俺のほうを見て、何も言わずに、荷物の袋を一つ持ち上げた。
小屋の外では、馬が待っていた。荷を積み終えた五頭目の馬が、フィンの袖をくわえて、引っぱっている。フィンが「やめろって」と言っても、馬はやめなかった。袖が、よだれで少しずつ色を変えていく。そのうちフィンはあきらめて、袖をくわえさせたまま、馬の首をなでていた。
セイルは、小屋の戸口で一度だけ振り返った。ストーブの火と、テーブルの上のインク壺と、壁ぎわの木箱。それから、小さな袋を一つだけ肩にかけて、外へ出た。
柵の上で、兵たちがこっちを見ていた。白いのが来た夜に、口を半分開けて俺を見ていた若い兵が、ぎこちなく右手を額に当てた。誰に習ったのか、手の向きが少し違っていた。副官は、門の横に立っていた。手に、銀の板はもう見えなかった。
セイルは、副官の前で足を止めた。副官は、何も言わなかった。セイルも、何も言わなかった。二人とも、相手の顔ではなく、門の外の雪を見ている。
やがて歩き出したセイルは、俺の横に並ぶと、雪の向こうの南の空を見上げた。外套の胸で、外さなかった花の留め金だけが、雪の光を返していた。
セイルが、白い息を吐いた。
「止める力しかない私が、動く番だ」
お読みいただき、ありがとうございます。
北の防衛線を離れる日の朝の話でした。
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