第116話 窓口の正体
第116話 窓口の正体
鉄の鍋の下だけ、床板が乾いていた。
ストーブから遠いこのあたりの板には、ゆうべ俺たちが靴で運びこんだ雪が、まだ溶け残って白い。鍋より一回り広く、そこだけが、からからに乾いている。
鍋の中には、黒いものが、一つ入っていた。ゆうべ、白いのの胸から出てきたものだ。こぶしくらいの大きさで、見た目はただの黒い石に近い。手をかざして、やっと分かるくらいの温かさだ。それなのに、まわりの床を乾かし、近くの窓の霜まで、少しずつ溶かしていく。どこかから、熱を集めているみたいだった。
「触るなよ。絶対、触るなよ」
フィンが言った。誰も、触ってはいない。
防衛線の、指揮官の小屋だった。丸太を組んだだけの小屋で、まんなかにストーブが一つある。煙突が途中で曲がっていて、そのつなぎ目から、細い煙が少しずつ部屋にもれていた。窓の内側には霜が張っている。鍋に近い窓だけ、霜が溶けて、水の筋が下へ垂れていた。溶けたところから外をのぞくと、兵が二人、ゆうべ崩れた白いのの体に、スコップで雪をかけて少しずつ埋めているのが見えた。
「研究院のノアさんに、送ります」
リオネルが、鍋をのぞきこんだまま言った。それから、少し黙った。
「……でも、ここから南へ送る便も、北の関を通りますよね」
防衛線は、北の関の門より北の、公国の土地にある。セイルの家は公国の騎士の家で、セイルはここの指揮を任されている。ここから王都へ送るものは、どれもいったん、あの門を抜ける。そして、関の門をくぐる前の番小屋で、袋が一度開けられる。
「開けられるかもな」
俺が言うと、リオネルは鍋から目を離さないまま、うなずいた。
セイルは、ストーブの横の椅子に座っていた。右手には、まだリシアの襟巻きが巻いてある。端からのぞいた指先は、凍傷で赤く腫れたままだった。
「これは、返す」
セイルが、左手で襟巻きの端をほどこうとした。
「あとでいいです」
リシアは、窓の外を見たまま言った。セイルの左手が、襟巻きの端をつまんだまま止まった。それから、元に戻した。
フィンは、兵にもらった干し魚をかじろうとしていた。歯が立たないらしい。三回かじって、三回とも、魚のほうが勝った。四回目はストーブであぶろうとして、兵に「燃えますよ」と止められていた。
「あれは、どこから来た」
俺は訊いた。鍋の中の黒いものだけじゃない。白いのが、どこから来たのか。
セイルは、すぐには答えなかった。ストーブの火を、しばらく見ていた。
「ここから北へ、馬で半日。氷原のまんなかに、古い石の建物がある。屋根が半分落ちていて、まわりだけ、雪が積もらない。一度、近くまで馬で行ったが、馬が足を止めて、それ以上は進まなかった。降りて歩こうとしたら、靴の裏から、地面の温かさが上がってきた」
東の集落を思い出した。あそこも、潰れた家のまわりだけ、雪がなかった。地面に手をつくと、入れた熱を持っていかれて、増やして返された。
「見つけたのは、去年の秋だ。白いのは、決まってそっちの方角から来る」
「それを、ずっと黙ってたのか」
口から出たのは、そんな言葉だった。北の関の記録庫は、上からの言いつけで閉められていた。中の帳面は、南へ運び出されたあとだった。そして、北の防衛線の指揮官が、雪の積もらない建物のことを一年近く知っていた。
「報告を止めてたのは、お前なのか」
フィンが、干し魚を口から離した。
セイルは、怒らなかった。立ち上がって、壁ぎわの木箱を開けた。ふたの裏に、何かの焼き印が一つ押してあった。セイルはそこから紙の束を出して、テーブルに置いた。
「私は、三回上げた」
上の三枚は、報告の控えだった。見つけた日、場所、白いのが出た夜の数。字は細くて、行がまっすぐだ。きのう関の町の掲示板で見た、応援を頼む貼り紙の、がたがたの字とは違った。
「公国の評議へ、三回。返事は三回とも同じだった。調べる。持ち場を守れ」
「調べたのか」
「誰も来なかった。来たのは、兵を減らすという知らせだけだ。去年の冬に二十人いた兵が、今は十二人しかいない」
俺は、テーブルの控えを見た。まっすぐな行を、もう一度目でなぞった。口を開きかけて、閉じた。
「……悪かった」
セイルは、左手だけで、紙の束の端をそろえていた。控えのいちばん上の紙だけ、角が丸くなっていた。何度も出し入れした紙の角だった。
「私も、最初は自分の部下を疑った」
それだけ言うと、セイルは椅子に戻って、ストーブに薪を一本足した。
「先月、公国の都へ行く用があった。評議の一人に会ったので、報告のことを訊いた。そんな報告は聞いていない、と言われた」
「三回とも、ですか」
リオネルが、テーブルの端から控えの束をのぞきこんだ。束のいちばん下に、小さな紙が三枚、紐でまとめてある。
「それは」
「受け取りの札だ。報告を出すと、受け取った側がこれを返してくる。届いたという印のつもりで、私は取っておいた」
リオネルは、札を一枚ずつ、窓の明かりにかざした。三枚とも、同じ丸い印が押してある。
「この丸い印、見たことがあります。関の番小屋の、窓口の板に焼きつけてありました」
「関って、どっちにも人がいるの?」
フィンが割りこんだ。誰も答えなかった。
「セイルさん。公国の都まで報告が行って、札が戻ってくるまで、何日かかりますか」
「行きに五日、帰りに五日。十日はかかる」
リオネルは、札に書かれた日付を、控えの日付と一枚ずつ見比べていった。一枚目。二枚目。三枚目で、指が止まった。
「三枚とも、報告を出した二日後に、札が戻ってます」
「……関、ですね」
リオネルの声が、かすれた。
セイルが、ゆっくり息を吐いた。
「札は、補給の荷車にまとめて積まれて届く。届いた日しか、見ていなかった。……番小屋には、王国と公国の両方から人が出ている。袋を開けて中を調べるのは、公国の文書係のほうだ」
「じゃあ、王都から北へ来る袋も」
「……同じ部屋で、開けているはずだ」
それ以上、リオネルは言わなかった。
「なんで、そんなことをする」
セイルは、少しだけ間をおいた。
「公国は、王国とけんかができない。冬の麦を、王国から買っているからだ」
「麦って、パンの?」
フィンが訊いた。セイルは、フィンのほうを見て、少し考えてから、うなずいた。
「パンの」
それから、また前を向いた。
「報告が通れば、王国が兵を出して、あの建物を調べに来る。その兵が死ねば、王国は公国のせいにする。麦を止められたら、公国は冬を越せない」
セイルは、そこで一度、言葉を切った。俺は、鍋の中の黒いものを見た。床の乾いたところが、さっきより少し広がっていた。
「それに、文書係の長は、上から言われている、と言っていたそうだ。評議の一人が、あとで自分で調べて、私に教えてくれた」
「上って、誰だ」
「……分からない」
「公国の偉い人より、もっと上ってこと?」
フィンが訊いた。セイルは、今度は答えなかった。ストーブの火が、小さくはぜた。
言えないのか、本当に知らないのか、俺には見分けがつかなかった。
リオネルが、三枚目の札をまだ明かりにかざしていた。
「セイルさん。この隅の印、何ですか」
丸い印の横に、もう一つ、指先ほどの小さな印があった。三枚とも、同じところに押してある。
花びらが六つの、細い線の花だった。
さっき、木箱のふたの裏で、似たものを見た気がした。
セイルが、札を受け取った。札の角を、左の親指で押さえる。まばたきを、しなかった。唇から、色が引いていた。学院の試合で負けたときでさえ、こいつの唇の色は変わらなかった。
ストーブの前で手をこすっていたフィンが、手を止めた。
セイルが、札から目を上げずに言った。
「私の家も、無関係ではないかもしれない」
お読みいただき、ありがとうございます。
消えた報告の行き先が、ようやく一つの場所に重なりました。
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