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第115話 氷原の異常

第115話 氷原の異常


「七本目……いや、八本目です」


 見張り台の上で、リオネルが言った。


 柵の上に並んだ松明が、いちばん端から順に消えていく。風はない。火が揺れもしないうちに、ふっと細くなって、なくなる。次の一本も、その次も、同じだった。


「九本目」


 少し間があった。


「……さっきのを二回数えたかもしれません。八本目です」


 防衛線に着いた日の夜だった。月が出ていて、柵の外の雪原は、明かりがなくても青白く見える。


 俺は、柵の外に立っていた。昼間に見た、割れた丸太三本の前だ。割れ目には、横倒しの荷車が押しこんである。その左に俺、右に五歩離れてセイル。リシアは荷車の上にいた。


 柵の内側では、フィンと兵たちが、消えた松明に火をつけ直して回っている。フィンの靴が、雪を踏むたびに、きゅっきゅっと鳴った。新しい靴らしい。


 右手は、まだ指がうまく曲がらなかった。昼間、凍った丸太に熱を入れていたあいだ、手のほうが丸太に冷やされ続けたせいだ。今夜は、左を使うしかない。


「その手は」


 セイルが、前を見たまま訊いた。


「昼間のだ。左は動く」


「三晩前は、兵が二人、指をやられた。焚き火に当たっていたのに、手だけが冷えていったそうだ」


 それきり、セイルは黙った。白い息が、口もとで細く切れては消えた。


「白いのが来るぞ」


 柵の上で、兵の誰かが言った。名前は、まだ誰もつけていないらしい。


 先に来たのは、冷たさだった。顔に当たる空気が、急に一段冷たくなって、吸いこんだ息が、喉の奥でひりひりと痛んだ。


 二十歩ほど先の雪が、内側から押し上げられた。


 盛り上がった雪が割れて、白いものが出てきた。長さは、馬を二頭並べたくらい。脚は短くて四本、頭は平たい。皮は白くて固そうで、霜がびっしりついていた。目は、どこにあるのか分からない。


 白いのは、雪の上を滑るように寄ってくると、迷いもせずに、荷車に前脚をかけた。


 荷車の板が、見ているうちに白くなった。木がきしむ。荷車の上に立っていたリシアが、白くなっていく板から足を逃がすように、一歩うしろへ下がった。


 こいつは、冷たいものじゃない。まわりの熱を、吸っている。だったら、吸いきれないくらい入れてやればいい。


 前に試した黒いかけらのことが、頭をかすめた。かすめただけで、手はもう出ていた。


 俺は、左手を前に出して、白いのの前脚に熱を入れた。一気に、多めに。


 入れたそばから、消えた。底のない穴に、水を流しこんでいるみたいだった。


 ひと呼吸おいて、白いのの足もとの雪が、いきなり溶けた。ざっと音がして、湯気が噴き上がる。溶けた雪の穴は、俺の膝が埋まるくらいの深さになった。


 入れた熱が、増えて返ってきた。


 穴のふちに立っていた俺の靴が、半分、湯に浸かった。熱くはない。増えた分も、もとは俺の熱から出ている。俺の熱が、俺を焼くことはない。柵の内側で、誰かが「うわっ」と声を上げた。


 前に本拠で試した、黒いかけらと同じだ。


 ……馬鹿か、俺は。


 左手の指先が、冷たくなっていた。


「下がれ」


 セイルが二歩前へ出て、そこで足を止めた。


 白いのの前脚が、雪を踏みかけたまま止まった。前脚だけだ。セイルが止められるのは、立ち止まった場所のまわりだけで、そこから外れたところは動く。


 平たい頭が、ゆっくりセイルのほうを向いた。セイルの外套の裾が、端から白くなりはじめる。


「止めても、吸うのは止まらないのか」


 俺が訊くと、セイルは前を見たまま答えた。


「……そうらしい」


 離れれば、止められない。近づけば、吸われる。


 俺は、もう一度、白いのの前脚に熱を入れた。今度は、ほんの少しだけ。


 入れた熱の行き先を、追った。自分が入れた熱なら、どこにあるか分かる。


 熱は、脚の中にしばらくとどまっていた。


 それから、どくん、と動いた。脚の中を上っていく。頭か、と思った。違う。首の手前で曲がって、胸のまんなかへ落ちた。


 少しして、また、どくん。


 間がある。そのあいだ、熱はその場から動かない。


 ……食ってるんじゃない。


「運んでる。胸だ。脈みたいに、間をおいて」


 セイルが、こっちを見ないまま言った。


「何をすればいい」


「胸の横で、立ち止まってくれ。俺が熱を入れ終わるまで、脈を止めていてほしい」


 セイルは、少しだけ黙った。白いのの胸の横は、頭のすぐうしろだ。あそこで立ち止まれば、外套どころか、体ごと吸われる。


「分かった」


 言うなり、セイルは歩き出していた。俺は左手を握りかけて、まだ俺の番じゃない、と開いた。


 荷車の上で、リシアが、セイルの歩いていく側の端まで移った。荷車の端から、白いのの胸の横まで、四歩くらい。リシアの膜が届く距離だ。


 そのとき、白いのの尾が動いた。


 太い尾が、雪を巻き上げながら、横から振られる。セイルの背中の高さだった。


 尾の通り道に、光の加減でやっと見えるくらいの、薄いものが斜めに立つ。リシアの膜だ。尾は膜の上を滑って、セイルの頭の上を抜けていった。


 巻き上げられた雪が、セイルの肩にざらざらと降った。


「……今のは、頼んでいない」


 リシアは、返事をしなかった。


 セイルは、白いのの胸の横で、足を止めた。


 どくん、が来なかった。


 次の一回も、来ない。胸のまんなかが、止まっていた。


 俺は、左手を胸に向けて、熱を入れた。


 今度は、消えなかった。入れた熱が、胸の中にとどまる。運ばれない。増えて返ってもこない。


 行き場のない熱が、胸のまんなかに、そのままたまっていく。


 もう少し入れる。もう少し。


 セイルの外套が、腰まで白くなっていた。すぐ横に立ち止まったセイルの体から、白いのが、遠慮もなく熱を吸い上げている。剣の柄を握ったセイルの手が、袖ごと白くなりはじめた。


 セイルの息が、一度だけ、つまった。


 足が、半歩、ずれた。


 どくん。


 胸の中にためていた熱が、一気に動いた。胸のまんなかへ吸いこまれていく。あそこで増やされたら、さっきの何倍もの熱が返ってくる。セイルは、そのすぐ横にいる。


 俺は、熱を入れるのをやめた。


「セイル」


 セイルは、ずれた半歩を、黙って戻した。気がつくと、左手を握りこんでいた。開いて、もう一度、胸に向ける。


 どくん、が止まった。


 運ばれた分が返ってくる前に、終わらせる。俺は、左手でもう一度、熱を入れた。ひと息ぶん。もうひと息ぶん。左の指先の感覚が、だんだん遠くなっていく。


 白い皮に、ひびが走った。外からではなく、内側から押し広げられるように。ひびの隙間から、湯気が細く何本も上がる。


 白いのの頭が、一度だけ、空を向いた。


 白いのの足もとの雪が、もう一度、ざっと溶けた。さっき運ばれた分が、遅れて返ってきた。噴き上がった湯が、すぐ横のセイルの膝から下にかかる。濡れたズボンから湯気が立って、セイルの顔が、初めて少しだけゆがんだ。湯気はすぐに消えて、濡れたところから白く固まっていく。それでも、セイルは足を動かさなかった。


 音はしなかった。白い体が、前脚のほうから、雪の上に崩れた。


 セイルが、白いのから離れようとした。剣の柄を握った右手が、開かなかった。指が、柄に貼りついたまま固まっている。


 リシアが荷車から飛び降りて、セイルの指を一本ずつ、柄からはがしていった。セイルは、そのあいだ一度も声を出さなかった。はがし終えると、リシアは自分の襟巻きをほどいて、セイルの右手にぐるぐる巻きつけた。


 柵の上から、兵たちが顔を出している。いちばん若そうな一人は、口を半分開けたまま、崩れた白い体と俺の顔を、交互に見ていた。


 柵の内側で、ぽっと火がともった。フィンが、消えた松明の一本に、火をつけ直したところだった。


「十本目……あ、ついた」


 見張り台のリオネルが、数えるのをやめた。


 焚き火にかけたままの鍋の表面に、薄い氷が張っていた。兵の一人が、それを指でつついて割ると、黙って薪を一本足した。


 それから、リシアは俺のところへ来た。俺の両手を一度だけ見て、何も言わずに、自分の手袋を片方外した。それを、俺の左手に押しつけてくる。


「……お前の手が冷えるだろ」


「私のは、冷えていません」


 受け取るしかなかった。押しつけられた手袋は、俺の手よりは、まだ温かかった。


 崩れた白い体の、胸のあたりのひびから、まだ湯気が上がっていた。その奥に、黒いものが一つ、のぞいている。こぶしくらいの大きさで、まわりの雪が、そこだけ溶けて濡れていた。


 セイルは、それをしばらく見ていた。それから、自分の右手を見て、俺の左手を見た。


 セイルが、白い息を吐いた。


「学院の、あの試合を覚えているか」


「忘れるか」


 あのとき俺は、こいつの手首に熱を入れて、こいつはそれを止めようとした。


「あの日と、同じ力のはずなのに。ずいぶん違う使い方をする」

お読みいただき、ありがとうございます。

今回は、レンとセイルが初めて組んで戦う回でした。

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