第111話 グレン、来る
第111話 グレン、来る
表の戸の鈴が鳴ったのは、秤のねじを最後まで締めたときだった。
戸口に、グレンが立っていた。
旅の外套に、肩から大きな袋を一つ下げている。半月前、集落で一緒に魔獣と戦ってから、会うのはこれがはじめてだ。靴は、新しくなっていた。火にかざしすぎて先が反り返ったほうは、さすがに捨てたらしい。
「いらっしゃい」
帳場に座ったまま、親父が言った。グレンは、親父に小さく頭を下げた。親父も、同じくらい小さく頭を下げて、帳面に目を戻した。
集落から本拠に戻って、三日目の朝だった。俺は帳場の横の台で、店の左の秤を直していた。先月から「あとで見る」と言い続けてきた秤だ。指で皿を押すと、揺れて、戻って、真ん中で止まった。
「直ったぞ」
「ひと月半かかったな」
親父は、帳面から顔を上げなかった。
グレンは、店の中を見回していた。棚の魔核、乾かした毛皮、直したばかりの秤。秤のところで、目が止まった。
「その秤、まだ左に寄ってるぞ」
「今、直した」
「寄ってる。皿の縁が、右より指一本ぶん低い」
しゃがんで、皿の高さを横から見た。指一本ぶん、低かった。親父は、帳面から顔を上げないまま、鼻で小さく笑った。
グレンは、肩の袋を床に下ろした。中で、鉄の道具どうしが、がちゃりと鳴った。何が入っているのかは、誰も訊かなかった。
「依頼なのか」
「違う」
「じゃあ、集落で撃った火の分の金か。それなら、リオネルに言え。帳面は全部あいつが持ってる」
「金なんか要るかよ」
グレンは、外套の内側から、たたんだ紙を一枚出した。秤の台の、俺の前に、ぱんと置く。
ギルドの登録の紙だった。所属を移すときに出す書式だ。前の所属の欄には、グレンの実家が抱えている、火の一門の名前が書いてある。抜ける、という印は、もう押してあった。移る先の欄だけが、空いている。
「……何だ、これ」
「見りゃ分かるだろうが」
「分からないから、訊いてるんだ」
グレンは、右の拳を一度開いてから、ちっと舌打ちした。
「俺も入れろ」
帳場で、親父が、直したはずの左の秤に魔核を一つ載せた。皿は、まだ少し左に傾いた。親父は何も言わずに、帳面に数字を書いた。
……こいつが、うちに?
学院の一年の冬、稽古場の床は、石みたいに冷たかった。俺はそこに、こいつの木剣で三回、背中から転がされたことがある。三回目は、起き上がる前に、頭の上から「火属性の面汚し」と言われた。背中の、骨の出たところが、しばらく冷たいままだった。
「なんでだ」
「なんでもいいだろうが」
「よくない。うちが受ける依頼の報酬、知ってるか。お前の家の一門が受ける仕事の、十分の一もない。それに、外塔は、親父の倉庫に二階を足しただけの場所だぞ」
「知ってる。来る途中で、二階が傾いてるのも見た」
「傾いてないぞ」
「傾いてる。向かいの屋根から見ると、分かる」
知らなかった。今度、向かいの屋根に上ってみよう。上ったところで、たぶん直せないが。
話しながら、俺は秤の左の皿の下をのぞいた。ねじが三本ある。どれを回せばいいのか、迷った。
「右の、下のやつだ」
グレンが、こっちも見ずに言った。さっき、しゃがんだ俺の頭の上から、のぞいていたらしい。右の下のねじを、半分だけ回した。皿の縁の高さが、やっと右とそろった。親父が、帳面から顔も上げずに、横目だけでそれを確かめていたのを、俺は見なかったことにした。礼は、言わなかった。グレンのほうも、礼を待っている顔ではない。肩の袋を、足で少しだけ、壁ぎわへ寄せただけだ。
奥の土間から、母さんが盆を持って出てきた。湯気の立つ茶が、二つのっている。
「いらっしゃい。遠くから来たんでしょう」
母さんは、グレンの前に茶を置いて、それから足もとを見た。
「靴、新しいのね。まだ固いでしょう。あとで油を塗ってあげましょうか」
「……いえ、自分でやります」
グレンは、俺に向けるのとは別の声で答えた。母さんは「そう」とだけ言って、もう一つの茶を親父の帳場に置き、土間へ戻っていった。俺の分は、なかった。……まあ、俺は客じゃない。
グレンは、茶に手を伸ばさなかった。
「家には、もう言ってきた。うちの親父には、二度と帰ってくるな、だとよ」
天気の話でもするみたいな、軽い言い方だった。目は、棚のほうを見ていた。
火の一門の名前は、学院にいたときから、聞けば誰でも知っていた。その家の息子が、紙一枚で、そこを抜けてきた。
グレンの前の茶だけが、湯気を立てていた。俺は、ねじ回しを握ったまま、次のねじに手を伸ばせずにいた。
階段がきしんで、二階からリオネルが下りてきた。帳面を抱えている。うしろから、サラも顔を出した。
「あ、グレンさん」
リオネルは、紙を手には取らずに、秤の台の上から、そっとのぞきこんだ。
「これ……」
「入れろって書いてあるだろうが」
「書いてはないです。空欄です」
リオネルは、まじめな顔で言った。冗談を言ったつもりは、たぶんない。グレンの耳の端が、少しだけ赤くなった。
「鍋の人だ」
サラが言った。
「鍋は、関係ねえだろうが」
「集落で、鍋の横で靴を燃やしてた人でしょ」
「燃やしてねえ。乾かしてただけだ」
裏口の戸が、半分だけ開いている。誰かが閉め忘れたらしく、冷たい風が、そこから少しずつ入ってきた。その向こうの広場では、さっきまで聞こえていた薪割りの音が、いつのまにか止まっていた。
グレンは、紙の上に指を置いたまま、しばらく黙っていた。俺のほうではなく、棚に並んだ魔核のほうを見ている。
「学院に入ったばかりのとき、蜥蜴がいただろ」
覚えている。実習に出た、火を食う大きな蜥蜴だ。外から火をぶつけるほど、硬くなった。
「俺の火は、あいつに全部食われた。二発撃って、二発とも、あいつの餌になった」
グレンは、紙の端を指でそろえた。そろっているのに、もう一度そろえた。
「この前の魔獣にも、通ったのは、お前の熱と同じときだけだ」
「あれは、たまたま同じときに来ただけだろ」
「……だから、たまたまじゃ、困るんだよ」
グレンは、そこで口を閉じた。指はまだ、紙の端の上にあった。
集落の夜のことを思い出した。魔獣の背中の割れ目の底で、俺の熱がくすぶっていたところに、グレンの火がぶつかった。赤くない、白い光が弾けた。あれは、二人とも狙ってやったことじゃない。狙ってできたら、どうなるのか。俺にも、まだ分からない。
「お茶、飲まないんですか」
いつのまにか、リシアが裏口のところに立っていた。秤の台の紙の、空いた欄を一度だけ見て、それから、グレンの手もとの茶を見ていた。
グレンは、あわてて、茶を一口飲んだ。熱かったらしく、顔をしかめた。
外塔に誰を入れるかは、俺一人では決めない。六年前に十二人で始めたときから、そう決めてある。それに、入るとしても部屋がない。二階の寝床は、もう全部埋まっている。
「寝るところ、ないぞ」
「記録部屋の床でいい。この袋を、枕にする」
「だめです。床は、写しを広げるのに使います」
リオネルが、すぐに言った。
「じゃあ、廊下でいい」
「廊下は、途中で一段下がってるから、寝ると落ちます」
サラが言った。前に、夜中に一度、落ちたことがあるような言い方だった。
グレンは、紙から指を離した。それから、俺を見た。店に入ってきてから、はじめて、まっすぐ俺を見た。
「面汚しって呼んでた頃の分、働く」
お読みいただき、ありがとうございました。
昔のライバルが、紙一枚を持って訪ねてくる回でした。外塔の二階は、たぶん少しだけ傾いています。
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