第109話 ズレを読む
第109話 ズレを読む
火が、つかなかった。
正確には、つくのが遅れた。組んだ薪の芯に熱を入れて、いつもならすぐ、ぼっと赤くなる。それが、ひと呼吸の半分くらい遅れて、やっと赤くなった。
俺は、しゃがんだまま顔を上げた。
焚き火の向こう、三歩ほどのところに、ラグが立っていた。布を巻いた右手の指を、胸の前で、軽く閉じかけている。
「……今の、お前か」
「試した」
それだけ言って、ラグは指を開いた。
「何を」
「指が、まだ動くか」
ラグは、布を巻いた二本の指を、焚き火の明かりにかざした。曲げて、伸ばす。曲げるときに、少しだけ顔をしかめた。
集落を出て、一日目の夜だった。街道から少し外れた林のふちに、屋根の落ちた炭焼き小屋の跡があった。石の壁が二面だけ残っていて、風よけにちょうどいい。雪は、靴の底が隠れるくらいしか積もっていない。
昼のあいだ、ラグは列のいちばんうしろにいた。手綱を左手だけで持って、右手を、ときどき開いたり閉じたりしていた。前を行くリオネルは、馬の上で帳面を開いて、ノアに出す二通目の報告を書こうとしている。馬が揺れるたびに字が曲がるらしく、何度も同じ行を消していた。
壁ぎわでは、サラが小さな鍋を火にかけようとしていた。集落の母親が「持っていきなさい」と貸してくれたものだ。取っ手がぐらぐらしていて、持ち上げるたびに、かたかた鳴る。
「これ、取れたら私のせいじゃないからね」
誰も返事をしなかった。
薪は、カイルが割ったものだった。凍った倒木に指を当てて、割れ目を入れる。今日は加減がうまくいかなかったらしく、半分は指より細い木っ端になっていた。カイルは、その山を黙って見下ろしてから、木っ端のほうを焚きつけの側へ寄せた。
俺は、左手で薪を一本足した。右手の指は、まだ半分しか曲がらない。
ラグが熱を止められるなら、話は早い。あの魔獣が吠える前に、喉にたまった熱ごと止められたはずだ。集落に着いた最初の夜、あれだけ手こずった相手だ。
「もう一回、やってみろ。俺が熱を入れる。それを、止めてみろ」
ラグは、何か言いかけて、やめた。右手を、また胸の前に上げる。
新しい薪の芯に、熱を入れた。
ひと呼吸の半分、何も起きない。それから、ぼっと赤くなった。
「止まってないぞ」
「止まらない」
「もう一回だ」
続けて二回やった。二回とも、火はついた。遅れるだけだ。最後の一回は、遅れる長さを数えようとした。一、と口の中で言いかけたところで、もう赤くなった。
「火をつけるのに、何回かかってるんですか」
壁にもたれていたリシアが言った。膝の上で、手袋のほつれた指先を縫っている。こっちは見ていない。
「四回だ」
「見れば分かります」
じゃあ訊くな、とは言わなかった。リシアの縫い目は、一針ごとに、少しずつ斜めになっていく。本人は、気づいていないらしい。
俺は、左手の薪を、火の奥へ押しこんだ。押しこみすぎて、火の粉が散った。ラグの指を見たまま、言った。
「……それだけか」
口から出てから、まずいと思った。リシアの針が、一度だけ止まった。すぐに、また動きだした。
ラグは、何も言わなかった。右手の二本の指を、もう片方の手で、そっとつまんだ。布のすきまから、指先の赤いところが、まだ少し見えている。
「止まったことは、一回もない。ずれるだけだ。ほんの少し。それで、終わり」
自分の足もとを見たまま、そう言った。それから、焚き火のそばに転がっている倒木に、腰を下ろした。
俺は、黙って薪をもう一本足した。焚き火のまわりで座れるところは、その倒木と、平たい石が二つしかない。
小屋の入り口のほうで、フィンが馬具の革ひもと格闘していた。俺の馬の手綱をつなぐひもが、集落を出るときに切れたのだ。結び直すたびに、また別のところが切れる。
「これ、絶対に革が古いって」
フィンは、切れた端を焚き火にかざして、何か確かめようとした。近づけすぎて、端が焦げた。
「あっつ」
「人の鍋の横で燃やさないで」
サラが言った。燃えたのは革ひもで、鍋ではない。フィンは、焦げた端を雪に突っこんで、じゅっと鳴らしてから、また結び直しはじめた。
今朝、集落を出るとき、潰れた家の母親と男の子が、坂の上まで見送りに来た。男の子は、馬の列の横を、雪を蹴りながらしばらく走ってついてきた。坂の途中で転んで、起き上がったときには、もう走るのをやめていた。手を振っていたのかどうか、確かめる前に、道が林の陰に入った。
昼に馬を休ませたとき、俺の馬が、俺の袖を噛んだ。親父が「性格が悪い」と言っていた馬だ。どこが悪いのか、家を出て十二日目にして、やっと一つ分かった。袖には、歯の跡が二つ残った。夜になっても、そこだけまだ少し湿っている。
ボルクが、ラグの隣に座った。倒木が、みしっと鳴って、少し雪に沈んだ。胸のやけどには、もう布を当てていない。サラからスープを一杯もらって、一口だけ飲んだ。それから、器を膝の上に置いた。
「……ラグの横だと、受けるのが楽だ」
急に言うので、何のことか分からなかった。
「何が」
「来るのが、ちょっと遅い。相手のが」
「相手って、誰だ」
「全部」
ボルクは、それだけ言って、また器を持ち上げた。
ラグが、ボルクのほうを見た。
「……そんなこと、一回も言わなかっただろ」
「訊かれなかった」
「普通、訊かないだろ」
「訊かれたら、言った」
ボルクは、そっちを見なかった。ラグは、口を開けて、閉じた。
ボルクが、自分の器を、黙ってラグのほうへずらした。まだ半分以上残っている。ラグは、少し迷ってから、左手でそれを受け取った。一口飲んで、器のふちから少しこぼした。
来るのが、遅い。
あの夜を、思い出した。あの魔獣は、背中の割れ目が暗いあいだだけ、熱を食わない。吠えると、割れ目はまた赤く光りだす。
魔獣がボルクの真上で吠えかけたとき、ラグが指を閉じた。吠える声が、喉の途中でつっかえた。そのぶん、背中が暗いままの時間が長くなった。その暗いあいだに、俺の熱と、グレンの火が入った。
ラグは、ずらしただけだ。そのずれに、俺たちが入った。
学院の稽古場の、木剣を掛けておく棚を思い出した。いちばん端に掛かっていた一本だけ、握りの革がすり切れて、下の木が白く見えていた。その隣が、ボルクの木剣だった。端の一本が誰のものだったのか、俺は卒業の日まで知らなかった。最後の日に、ラグがその一本を棚から外して、布で包んで持って帰るのを見た。
見たのに、何も言わなかった。あんなに振っていた奴がいたことを、本人にも、誰にも。あの木剣が今どこにあるのかも、知らない。ラグの荷物のいちばん底あたりに、ありそうな気はする。……いや、薪にしたかもしれない。あいつなら、やりかねない。
「……ラグ」
ラグが、顔を上げた。
「さっき、それだけかって言ったのは、取り消す」
「……別に、いい。盤、ほとんど光らなかったからな。俺のだけ。《無才》って字が、ぽつんと出ただけだ」
ラグは、器に目を落としたまま言った。
「盤に手を置くのは、一人だけだろ」
ラグは、返事をしなかった。膝の上で、右手を一度だけ握りかけて、やめた。
壁ぎわで、リシアが糸を歯で切った。
ボルクが、ラグの手から器を取り返して、残りを飲んだ。林のほうで、雪が枝から落ちる音がした。リオネルは、壁にもたれて、帳面を開いたまま眠っていた。
焚き火の中で、薪が一本、ぱちんと割れた。
俺は、ラグの指を見た。あの夜、魔獣の喉に向けて伸ばしていた指だ。
「お前の力は、無じゃない。……誰かと組む前提の力だ」
お読みいただき、ありがとうございました。
帰り道の、焚き火の夜の話でした。ボルクは訊かれたら答える人です。
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