第107話 ラグ、突く
第107話 ラグ、突く
ボルクの膝の下で、泥がぐしゃりと鳴った。
日はもう、山の向こうに沈んでいた。空にだけ、まだ少し明るさが残っている。雪原で目立つのは、魔獣の背中の赤と、溶けた雪から上がる湯気だけだ。
魔獣の額が、片膝をついたボルクの胸を押しつづけている。ボルクの体を石のように硬くしていた顕能は、もう切れていた。その体が、少しずつ、うしろへ傾いていく。胸の前の服から、焦げたにおいがした。
リシアは、膜を二枚使ったばかりだった。三枚目を置こうとして、右手を前に出している。手の先の空気が、ゆらっと揺れては消えた。三枚目は、まだ形にならない。額に、汗で前髪がはりついていた。
俺は走った。
泥に足を取られて、思ったように前へ出ない。三歩目で右足がすべって、冷えた右手を泥の中についた。感覚のない手のひらが、泥の上でずるっと流れる。左手で泥ごと地面をつかんで、体を起こした。また走る。ボルクまで、あと十五歩。いつもなら、ひと息で詰まる距離だ。それが、やけに遠い。
魔獣が、額でボルクを押さえたまま、喉だけを持ち上げた。
喉の奥が、赤くなっていく。
また吠える気だ。今度は、ボルクの真上で。
さっきの咆哮では、まわりの雪が一度に溶けた。あれを真上から浴びたら、服が焦げるくらいでは済まない。
熱を入れて止めるか。
だめだ。さっき刃を通して入れた熱は、当てたそばから吸いこまれた。あの背中は、俺の熱を食う。
ただ、さっき吠えたあと、背中の割れ目が一瞬だけ暗くなった。熱を吐き出したあとは、腹の中が空っぽなのかもしれない。空っぽなら、食う元気もないだろう。……たぶん。
どっちにしろ、暗かったのは息を一つ吐くくらいのあいだだけだ。
横を、誰かが走り抜けた。
ラグだった。
さっきまで、俺の後ろで魔獣の口ばかり見ていた奴だ。泥をはね上げて俺を追い越し、三歩ほど先で急に止まった。右手を、魔獣のほうへまっすぐ伸ばしている。手袋の指先が、片方だけ破れていた。
俺も、そこで足を止めた。ボルクまで、あと十歩ほどだ。
「……合わせろ」
振り向きもしなかった。
「何に」
答えはなかった。ラグは、魔獣の喉だけを見ている。伸ばした右手の指が、何かをつまむみたいに、少しずつ閉じていく。
魔獣の口が開いた。
吠える。
——吠えなかった。
喉の奥の赤がぐっとふくらんで、そこで止まった。出かけた声が、喉の途中でつっかえたみたいに。開いた口から、熱い息だけが、ごほっと漏れた。
ラグの指が閉じきったのと、魔獣の首がびくりと横へ揺れたのが、同時だった。
背中の割れ目が、暗くなった。
一つ数えても、まだ暗い。二つ数えても、まだ戻らない。
……今か。
割れ目のいちばん暗いところに、目をやった。肩の後ろ、背骨の真上だ。ここからだと、十歩と少しある。熱を入れるのに、手はいらない。それなのに、癖で右手が前へ出かけた。曲がらない指先が、目の端に入る。割れ目に目を戻すまでに、一拍かかった。
その一拍のあとで、熱を入れた。
俺の中から、熱が一点へ抜けていく。吸いこまれる、あのいやな引っぱられ方が来ない。入れた熱は、割れ目の底で、小さな塊になってくすぶっていた。
……食われてない。
なのに、魔獣はボルクから額を離さなかった。焼くには、まだ量が足りない。
うしろで、空気がうなった。
太い火の束が一本、俺の頭の上をごうっと越えていく。狙いは少し甘かった。それでも、俺の熱がくすぶっているすぐ横に、どんと当たった。
じゅっ、という音がした。くすぶっていた塊が、火に触れたとたん、赤ではない白い光になって弾けた。
魔獣がのけぞった。
額がボルクの胸から離れて、巨体が横へよろける。そのまま首を振りながら、森のほうへ十歩ほど下がっていった。右の前脚が、泥に着くたびに、少しだけ遅れる。開いた口から、今度こそ声が出た。熱のない、裂けたような高い声だった。
うしろで、馬が一頭、高くいなないた。
振り向くと、集落の入り口の柵の外に、汗で湯気を上げた馬が止まっていた。泥の雪原の手前で前脚を突っぱって、それ以上は進もうとしない。その鞍から、男が一人、転げ落ちるように下りてくる。見覚えのある外套だった。
ボルクは、片膝をついたまま、前へ倒れかけていた。リシアがうしろに回って、両脇の下に腕を入れる。そのまま尻もちをつかせるようにして、うしろへ引いた。リシアの靴が、泥の上で何度もすべった。三歩ぶん引いたところで、手を離す。それから、三枚目の膜を、ボルクの前に置いた。一度ずれて、置き直していた。
家の戸口から、ニアが飛び出してきた。ボルクのそばに膝をついて、治しの手を、焦げた服の上から胸に当てる。
「……重かった」
ボルクが、ぼそっと言う。ニアの手の下で、ボルクの肩の上がり下がりが、少しずつゆっくりになった。
ボルクの服の胸には、手のひらほどの穴が焦げて開いていた。気がつくと、俺の左手は、起き上がるときにつかんだ泥を、まだ握ったままだった。指を開いて、そっと捨てた。
ラグは、まだ同じところに立っていた。右腕は、前に伸ばしたまま下がらない。白い息が、短く、何度も上がっている。
「くそ、何だこの泥。靴が、持っていかれる」
さっきの男が、泥に片足をずぶりと沈めながら、こっちへ歩いてくる。右手から、まだ煙が上がっていた。外套の袖の先が少し焦げている。自分の火で焦がしたらしい。男は右の拳を一度開いてから、ちっ、と舌打ちした。学院のころから、変わらない癖だ。
入学したばかりのころ、俺を「火属性の面汚し」と呼んでいた奴だった。
「グレン」
「おう」
柵の外の馬は、主人を置いたまま、来た道のほうへ勝手に歩いて帰りはじめていた。グレンは、呼び止めもしない。何度か足を取られながら、俺の横まで来た。
「なんでいる」
「通りがかりだろうが」
「ここ、いちばん近い街道からでも、半日かかるぞ」
「うるせえ」
二十歩先で、魔獣が、前脚で泥を掻いた。そのたびに、湯気がぼっと上がる。背中の割れ目が、また赤く光りはじめていた。ただ、背骨の真上の一本だけは、白く焼けた筋が、消えずに残っている。
魔獣が、泥を掻きながら、一歩ずつ詰めてくる。三歩、四歩。リシアの置いた三枚目の膜まで、あと十歩もない。そこで、首を低くした。
「……あと一回、受けたら、たぶん、もちません」
リシアが、膜に手をかざしたまま言った。
グレンの右手の指のあいだで、小さな火がちらちら揺れている。赤というより、黄色に近い火だ。
「おい。今の白いの、何だ。俺の火は、あんな色にならねえ」
グレンは、魔獣から目を離さないまま、低い声で言った。
「あいつは、熱を食う。背中が暗いときだけ、食わない」
「いつ暗くなる」
「吠えたあと。いや、さっきは、吠えそこねたあとか」
「じゃあ、また吠えさせりゃいいんだな」
どうやってだよ、それ。
口には、出さなかった。言ったところで、こいつは聞かない。
「誰だよ……あ、グレンか」
倒れた荷車の陰から、泥まみれのフィンが顔を出した。
「グレンだよ。何か文句あるか」
「ない。あるけど、ない」
フィンはもう、張りかけの糸の端を探していた。指がかじかんで、うまくつまめないらしい。
魔獣の喉の奥に、また赤がたまりはじめた。
さっきと同じなら、三つ数えるあいだに来る。
「……四つ、です」
少し離れたところから、ユノの小さな声がした。俺の数え方は、少しだけ早かったらしい。
一つ。
ラグが、伸ばしていた腕を下ろした。膝が、小さく震えている。冷えた空気の中で、ラグの顔だけが赤かった。下ろした腕は、もう上がりそうにない。
「ラグ。吠えるのを、遅らせたのか」
ラグは、破れた手袋の指先に、一瞬だけ目を落とした。破れ目からのぞく指の腹が、火にかざしたあとみたいに赤い。
二つ。
ラグが、俺とグレンのほうを見ないまま言った。
「……ズレた。だけど、それだけだ。お前らが決めろ」
お読みいただき、ありがとうございました。
無口なラグが、初めて自分から前に出た回でした。そして、懐かしい顔も。
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