第106話 連携の型①
第106話 連携の型①
森のふちの木が、二本、こっちへ向かって倒れた。
その間から、赤い光がのぞいた。
最初は、誰かが焚き火を持って歩いているのかと思った。違った。光は、地面から大人の背丈くらいの高さで、ゆっくり左右に揺れている。背中だ。黒っぽい体の背骨に沿って、割れ目が走っている。その割れ目の奥が、赤く光っていた。
さっき森の奥で沈んだ地面から、こいつが出てきたんだろう。
肩の高さは、馬より上。体の長さは、牛を二頭つなげたくらい。前脚の爪が、平たくて幅が広い。土を掘るための爪だ。歩いたあとの雪が溶けて、湯気の立つ泥になっている。
「家の中へ」
俺が言うより先に、ニアが女の人の腕を取っていた。ほかの連中が、男の子と村の人たちを、近くの家へ押しこんでいく。男の子は、干し肉を握ったまま、戸口でちらっと振り返った。
ボルクが、何も言わずに前へ出た。潰れた家の跡を背にして、雪原の真ん中に立つ。その奥が、村の人を入れた家だ。リシアが、ボルクの左斜め後ろ、三歩のところについた。
俺は、ボルクの右、十五歩ほど後ろに立った。いつもの位置だ。
「指、ちゃんと動くんですか」
リシアが、前を向いたまま言った。
右手の指は、さっき地面に熱を吸われてから、まだ曲がりが悪い。
「左があれば足りる」
「足りるかどうかを、訊いたんじゃありません」
答えないでいるうちに、魔獣が止まった。誰も動かない。白い息だけが、いくつも上がっていた。ボルクは、両手を軽く開いて、足の幅を少しだけ直した。
こっちまで、八十歩くらい。首を低くして、ボルクのほうを向いている。風に乗って、においが来た。焼けた鉄と、掘り返した土のにおいだ。背中の割れ目の光が、息をするみたいに、強くなったり弱くなったりしている。
右手の柵のところで、フィンが杭と荷車のあいだに糸を張っていた。結び目を、二回やり直している。
「寒いと結べないんだよ、これ」
誰も聞いていないのに、柵に向かって文句を言っていた。
「……右の前脚。揺れが、溜まってます」
ボルクの二十歩ほど後ろで、ユノが小さな声で言った。言いながら、手袋の上から指先に息を吹きかけている。寒いのか、ただの癖なのかは、よく知らない。
「三つ数えたら、来ます」
一。
二。
三つ目を数える前に、雪が跳ねた。
一歩目から、もう馬の駆け足だった。湯気が、尾を引く。
びん、と糸が鳴った。
フィンの糸の一本が、空へ跳ねて、残った一本が、前脚に食いこんでいた。巨体が、前へつんのめる。
落ちてきた頭が、何もないはずの宙で、斜めにずれた。リシアの膜だ。
ずれた頭のかわりに、肩がボルクに来た。
鈍い音。全身が石みたいに固まったボルクが、かかとで雪を削って、半歩だけうしろへすべった。そこで止まった。
魔獣の体が、ボルクの横をこすって抜けた。勢いのまま雪原を走って、家の跡の手前で、泥をはね上げて止まる。
「抜けてから、十二歩」
ユノの隣で、リオネルが帳面に書きつけていた。表紙の角が、雪で濡れて丸まっている。
ボルクが、ふうっと息を吐いた。白い息が、魔獣の湯気にまぎれて消えた。
止まった魔獣の脇腹まで、俺から十歩もない。
地面は、熱を吸った。でも、生きた獣の皮なら、違うかもしれない。
六年、止めた獣には、熱した刃を入れてきた。体が、いつもどおり動いた。
右の指では、刃をうまく握れない。腰の解体用の刃は、左手で抜いた。刃に熱を入れる。白くなる手前、赤く光るところまで。踏みこんで、脇腹の皮の継ぎ目に当てた。
赤が、消えた。
当てたところから、刃の赤みが、吸いこまれるように引いていく。刃の先は、皮に浅い線を一本つけただけで止まった。引いた刃は、冬の朝の鉄みたいに冷えている。柄に巻いた革だけが、まだ少し温かかった。
魔獣の背中の割れ目が、ぱっと明るくなった。
……食わせた。
魔獣の頭が、ゆっくり俺のほうへ回った。目は小さくて、濁った黄色だった。
飛びのいた。魔獣の尾が、さっきまで俺がいたところの雪を、ごっそり削っていった。
「お前の刃、今——」
柵のそばで、フィンが言いかけて、やめた。
「……いや、いい」
熱じゃないものなら、どうだ。足もとの泥まじりの雪を、右手でつかんで投げた。冷えた指には、雪の冷たさもほとんど分からない。握りきれなかった雪は、半分も届かずに崩れた。残りが魔獣の鼻先に当たった。魔獣は、まばたきひとつしなかった。
左手の刃を鞘に戻そうとして、一度、鞘口を外した。
リシアは、こっちを見なかった。見ないまま、膜を置く右手を、握って開いた。
「誰も熱を入れるな! こいつ、熱を食う!」
「誰も入れてねえよ!」
フィンが怒鳴り返した。ボルクの肩が、わずかに動く。リシアが、二歩右へ回った。ボルクの真後ろだ。膜を二枚、重ねる気だろう。フィンは、引っこ抜かれかけた杭を足で踏み戻して、糸をもう一本、重ねて張っていた。
「鍋! ねえ、鍋どうすんの!」
家の戸口から、サラが叫んでいた。鍋は、俺の馬の鞍に吊ったまま、馬ごと家の前の杭につないである。……馬は無事だ。鍋のほうは、知らん。
魔獣は、ボルクの脇を大きく回って、雪原の真ん中へゆっくり戻っていった。森のほうへ四十歩ほど離れたところで、こっちへ向き直る。
「……口」
俺の三歩後ろで、ラグが言った。口数の少ない奴が、さっきから魔獣の顔だけを見ている。何のことか訊く前に、魔獣の喉の奥が赤くなった。
口が開く。
吠えた。
音より先に、熱が来た。顔に、焚き火の前に立ったような熱さが当たる。魔獣のまわりの雪が一度にゆるんで溶けて、ボルクの足もとまで、湯気の立つ泥が広がってきた。
吠え終わった魔獣の背中で、割れ目の赤が、一瞬だけ暗くなった。すぐに、元の明るさに戻る。
……今の、何だ。
吠えたあと、だけか。ラグが言った「口」と、関係があるのか。分からない。
ボルクが、足もとの泥をちらっと見下ろした。それから、また前を向いた。家の窓の隙間から、男の子の目が二つのぞいている。
考えをまとめる前に、魔獣が首を低くした。
「……十二歩じゃ——」
リオネルの声が、途中で詰まった。帳面を持つ手が下がっている。家の跡の向こうには、村の人を入れた家がある。
「右の前脚。さっきより速く溜まってます。二つで——」
ユノが言い終わる前に、雪が跳ねた。
一つも、数えさせてもらえなかった。ユノの口が、二つ、の形のまま止まっている。
魔獣の通り道の雪は、もう溶けて泥になっている。泥を蹴る音が、重い。
フィンの糸に、前脚がかかる。今度は、つんのめらなかった。前脚が、二本の糸ごと前へ出る。杭が地面から引っこ抜かれて、荷車が横へ持っていかれた。荷車にしがみついていたフィンも、一緒に雪の上を引きずられる。
「うそだろ、新品だぞ、それ」
雪まみれで起き上がったフィンは、もう次の糸の端を探していた。
リシアが、膜を二枚置いた。一枚目で、鼻先がずれる。リシアの肩が、押し返されたみたいに小さく揺れた。二枚目で、もう少しずれる。それでも、角度は少ししか変わらなかった。
額の端が、ボルクの胸にまともに入った。
さっきより、ずっと重い音がした。押されたボルクのかかとは、魔獣が溶かした泥に、くるぶしの上まで沈んでいた。さっきみたいに、半歩ですべって止まることもできない。硬いままの体が、うしろへ押されていく。足が泥を削って、二本の溝ができる。胸のあたりから湯気が上がって、服の前が焦げかけていた。それでもボルクの顔は変わらない。歯を食いしばってもいない。硬くなったときの、あの何も映さない顔のまま、押されていく。
泥に残った二本の溝が、ボルクの背丈より長くなっていく。半歩で止まれないボルクを、俺は見たことがなかった。
俺は走った。腰に戻した刃の柄を、左手で、つかんだまま。ボルクまで、十五歩。間に合わない。
魔獣が、もう一度、首を押しこんだ。
ボルクの体から、硬さが抜けた。
ボルクが初めて、片膝をつく。
お読みいただき、ありがとうございます。
レンの得意の熱が、まったく通じない相手でした。続きもよろしくお願いします。
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