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第146話 二人の絆と商会


第1章 鏡の前での「決着」


帝都カイエンの夜が明け、柔らかな陽光がカルヴォ公爵邸の寝室に差し込む。

鏡の前に座るイングリッド・カルヴォ公爵令嬢は、微動だにせず自らの顔を映し出していた。


その唇には、昨日と同じ、深く鮮やかな真紅が宿っている。


「……虫、ですのね」


ぽつりと言葉が漏れた。

昨日の夕刻、ポリーヌの口から、そしてアイザ皇后の慈愛に満ちた(しかし容赦のない事実を突きつけた)宣告から、彼女の脳内は一時的に停止していた。


あの忌まわしき、南部の害虫と呼ばれた雪虫。

その乾燥死体を煮詰め、油と混ぜた「体液」を、自分は今まで誇らしげに、そして陶酔するように唇に塗っていたのだ。


「……っ」


一瞬、胃の奥からせり上がるような不快感があった。

彼女は潔癖であり、何より気高い公爵令嬢だ。

虫を顔に塗るなど、かつての彼女であれば卒倒するか、あるいはその毒を盛り込んだ者を即座に断罪していただろう。


だが、彼女は一晩、眠らずに考え抜いた。


思えば紅塗る前の、どこか冴えない、ただの「美しい人形」だった自分。

だが“紅”を纏った後の、周囲の視線を集めた自分。

唇に深紅の線を引いただけだが、それはまるで生まれ変わったような心地にさせ、皇后陛下という帝国の頂点さえも味方に引き込ませた。


「……ふふ。何を迷うことがありますの」


イングリッドの口角が、皮肉げに、しかし力強く上がった。

彼女は自らの思考に、一晩かけて「パッチ」を当てたのだ。

いや、これはアップデートと呼ぶべきものだった。


「最高級の絹も、元を辿れば悍ましき虫が吐き出した糸。 美しい紫の染料も、海の貝を潰して得たもの。……であるならば、この紅が虫から得られたものであるからといって、その価値が損なわれる理由がどこにありますの?」


彼女は指先で赤い唇をなぞった。


「神が、使い捨てられるだけの虫に、これほどまでの魔力を秘めさせた。それを掘り起こし、文化へと昇華させたのはサモン様の智慧。 ならば、それを受け取り、使いこなすのは私の器の問題ですわ」


嫌悪感は、合理性という名の冷徹な刃で切り捨てられた。

美は武器だ。

そして武器の原料が何であろうと、勝てば勝者である。


鏡の中の公爵令嬢は、昨日の動揺が嘘のように、以前よりも鋭く、そして深い輝きをその瞳に宿していた。


「……セットアップ完了、ですわね。サモン様」


彼女は誰に聞かせるでもなくそう呟くと、迷いのない足取りで部屋を後にした。



第2章 ポリーヌの謝罪と「絹の和解」


公爵邸の応接室。

ポリーヌは、処刑台を待つ罪人のような心地で椅子に浅く腰掛けていた。


昨夜、サモンからは「イングリッドなら大丈夫だ」と、気休めにもならない(というか、むしろ他人事のような)言葉を投げかけられたが、ポリーヌの不安は一向に解消されていなかった。


「……イングリッド様、お入りになります」


侍従の声に、ポリーヌの心臓が跳ねた。

ドアが開き、イングリッドが現れる。


その姿を見た瞬間、ポリーヌは勢いよく床に膝をつき、平伏した。


「イングリッド様! 昨日の件、本当に、本当に申し訳ございませんでした! 嘘をつくつもりは……いえ、ありましたが、それはイングリッド様を思ってのことで! どうか、どうかお命だけは……!」


畳みかけるような謝罪。

だが、返ってきたのは、静かに注がれるお茶の音と、穏やかな溜息だった。


「何を言っているの……頭を上げなさい、ポリーヌ。汚れてしまいますわ」


「ひえっ!? も、申し訳ございません!」


慌てて顔を上げたポリーヌの目に飛び込んできたのは、冷酷な怒りではなく、どこか慈愛さえ感じるイングリッドの微笑だった。


「ポリーヌ. 貴女の言いたいことは分かっています。……虫、だったわね」


ポリーヌの肩がビクリと震える。


「ですが、サモン様が仰る『文化』とは、そういうことなのでしょう? 自然の生命を奪い、それを人の英知で磨き上げ、新たな価値を与える。 高価な絹も、元はといえば生命の営み。……それを不浄だと言うのなら、この宮廷にある贅を尽くした品々の大半は、不浄ということになりますわ」


「イングリッド様……」


ポリーヌの目に、じわりと涙が浮かんだ。

イングリッドは、昨日の「白目」の状態から、わずか一晩でその事実を飲み込み、自分なりの哲学へと昇華させていた。

その精神的な強さと、何より自分を許してくれた器の大きさに、ポリーヌは魂が洗われるような思いだった。


「私はこの赤を手放すつもりはありません。 むしろ、この秘密を知る者が少ない今、私たちがなすべきことは、これを盤石なものにすることではありませんか?」


イングリッドが差し出した手を、ポリーヌは震える手で握り返した。

「……はい! イングリッド様! 私、一生、貴女様について参ります!」


二人の絆は、秘密の共有者という、以前よりもさらに深く、逃げ場のない関係性へとアップデートされた。

もはや、ポリーヌがサモンと公爵令嬢の板挟みで胃を壊す日々は(おそらく)終わり、二人一層深い絆で動くフェーズへと入ったのだ。



第3章 ブレア会長への訪問と「合同工房」の構想


「商売の時間ですわよ。ポリーヌ」


和解からわずか数時間後。イングリッドとポリーヌの馬車は、帝都カイエンの商業地区、その中心に堂々と居を構える「グラント商会」の門を潜っていた。


帝都屈指の豪商、ブレア・グラント。

彼は、以前に商売人になりきれず、うじうじしていたポリーヌにサモンが引き上げた(脅迫?)したという経緯もあり、サモンに対しては並々ならぬ敬意――あるいは、底知れぬ恐怖心と利益への期待――を抱いていた。


「……これはこれは、イングリッド様。わざわざ弊会までお越しいただけるとは。そしてポリーヌは先日ぶりだな」


出迎えたブレアは、その恰幅のいい体を深く折り曲げた。

彼の目は、イングリッドの唇に宿る真紅に鋭く反応し、その背後にある巨大な金貨の山を既に幻視していた。


「ブレア会長。 今日はサモン様の意向を伝えに参りました。……独占はせず、協力者を募る。 これを聞いて、貴方はどう思われます?」


ポリーヌが、サモンから預かった「提携案」を机に広げた。

その内容は、あまりにも破格、そしてあまりにも効率的だった。


出資構造の提案。


・カルヴォ公爵家が「信用」と「認可」、転じて生産用の土地(ナベンザ等)を提供する。

・グラント商会が「資金」と、帝国全土に張り巡らされた「流通網」を提供する。

・そしてサモン率いる大森林の渉外部が「製造技術」と「原料供給のノウハウ」を提供する。

・ただし、サモンの権利は何も主張しない。


「……独占を捨て、市場そのものを爆発させる、ということですか」


ブレアは静かにだが、書類を食い入るように見つめた。

恐らくそれだけではないだろう。

穿った見方をすれば、商会の看板を利用した防衛も含まれているのだろう。


サモンという男は、常に自分たちが考える「商売」の枠組みを嘲笑うかのような大きな手を打ってくる。

“紅”を自分たちだけで囲い込むのではなく、周りを巻き込んで供給能力を最大化させ、帝国全土を「紅」の色に染め上げる。

そこらの商人や貴族では見ない先を観ている。


「原料となる『赤い鉱石(建前)』の採取や加工には、人手が必要です。 そこで、帝都カイエンとナベンザの両方に、『合同工房』を設立したいと考えています」


ポリーヌの言葉に、ブレアは大きく頷いた。

「やりましょう。……いえ、ぜひ私にやらせてください。 公爵家の名と大森林の知恵、そして我が商会の金……これで落ちぬ城などありますまい」



第4章 ブレアの提案


商談が佳境に入った頃、ブレアがふと視線を上げ、声を潜めた。


「イングリッド様。一点、私から提案がございます。……これは単なる商いとして終わらせるべきではありません」


「仰りなさい」


「第145話の件、帝都中が噂しております。 皇后陛下が、その紅を『神の使い』と呼んだと。……であれば、この合同工房の設立には、皇室(皇后陛下)にも名を連ねていただくべきです」


イングリッドの眉がピクリと動く。


「……それは、出資を仰ぐということ?」


「いいえ。形だけで構いません。 願わくば土地をお借りできれば、蜜蝋などの収集などにもできましょう。……これが国母のお許しをいただいた『産業』となれば、保守派の教会も、油脂ギルドの職人たちも、一切の文句を言えなくなります。 紅は『帝国の赤』。 それを支える商会と公爵家、保護する王家。……完璧な青写真、だと思われませんか?」


ブレアの提案は、商売という名の戦争において、究極の「盾」を得ることを意味していた。

皇后という最強の広告塔。そして、それを守るための国家という公認。


「……面白いですわね。 さすがブレア会長、帝国でも有数な商会を率いているだけのことはありますわ」


イングリッドは満足げに微笑んだ。

昨日、アイザ皇后が「美しさは倫理をも嫌悪感をも上書きする」と証明した。ならば、その美しさを経済と政治の鎖で縛り上げ、帝国の背台へと据え付ける。


「ポリーヌ、皇后陛下へのお手紙を準備なさい。……『帝国の美を、次代の礎に』。そう添えて」


「はい、イングリッド様!」


帝国の未来を染め上げる巨大な歯車が、音を立てて噛み合った瞬間だった。



第5章 イングリッドの復讐


その日の深夜。

帝都公爵邸の私室で、ポリーヌは疲れ果てながらも、サモンとの遠隔通信を行っていた。

周囲には、ブレアとの商談でまとめられた山のような書類と、新しい工房の完成予想図が散らばっている。


『……へえ、商会の会長もやるね。皇后を巻き込むか。想定以上の速度だよ』


通信の向こう側、サモンの声は相変わらず淡々としていたが、かすかに予測を超えた展開を楽しんでいるような節があった。


「想定以上……? サモン様、私は今日だけで一生分の商談をこなした気分ですわよ。……それと、イングリッド様のことですが」


『ああ、案の定、納得しただろう?』


「納得どころか、さらに鋭さが増しています。……今、隣にいらっしゃいますわ」


ポリーヌが通信機を傾けると、鏡の前で髪を解いていたイングリッドが、ゆっくりとこちらを向いた。


「サモン様。……ずいぶんと私を『試して』いただいたようですけど、お楽しみいただけまして?」


『試したなんて、人聞きの悪いな。 僕はただ、最適な回答を提示しただけだよ』


「ふふ、そういうところですわ。……ですが、いつまでも貴方の掌の上で踊っていると思うのは間違いですわ」


イングリッドが、赤い唇を挑発的に歪める。


「今回、持ち込みなられた『赤』により、私は一つ上の景色を見ることができました。……ですから、次は私が、貴方を驚かせる番ですわ。 私どもがさらに違う色を広げて見せますわ」


『……ハハッ。 それは楽しみだ。 期待しているよ、イングリッド。 3日もあれば僕もそちらに着くし、その時にでもゆっくり話そうか』


サモンの低く愉しげな笑い声が、唐突な爆弾発言を最後に、通信のノイズへと消えた。


しばらくの間、静寂が部屋を支配した。

その沈黙を破ったのは、ポリーヌの、裏返った短い悲鳴だった。


「「……は、えええっ!?」」


二人は、まるで示し合わせたかのように、鏡越しに互いの目を見開いた。


「い、今、サモン様。3日後に『こちらに来る』と仰いませんでしたか!?」


ポリーヌが、縋るような視線をイングリッドに向ける。


「ええ、間違いなく。……あの自由奔放な賢者様が、ついに大森林から腰を上げられたようですわね」


イングリッドは、剥き出しの驚愕を優雅な微笑みの中へと隠し、自らの高鳴る鼓動を鎮めた。


「……ナベンザの競技場建設、あるいは、先ほど決めた合同工房の件でしょうか」

「いいえ、サモン様のことですもの。 きっと私たちの想像も及ばないような『何か』を抱えていらっしゃるに違いないわ」


イングリッドは、夜風に揺れるカーテンを眺めながら、指先で改めて自らの唇に触れた。

帝都にも、あの巨大な競技場の影が落ちようとしている。そしてそれ以上に、サモンという特異点がこの街に現れることで、一体どれほどの変革が引き起こされるのか。


恐ろしさはなかった。あるのは、この赤を纏った今の自分ならば、その荒波さえも乗りこなせるという、確かな高揚感だった。


「……サモン様。貴方が世界を書き換えるというのなら、私はその世界を丸ごとべてみせますわ」


ポリーヌは、そんな彼女の背中を見ながら、そっと胃のあたりをさすった。

(……結局、サモン様が来ても、私だけが一番苦労する運命な気がしするのは気のせい?)


帝都の喧騒が静まり返る中。

二人の女性の思惑が交差し、嵐の到来を告げるかのように……静かに、しかし激しく脈打ち始めていた。


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