第145話 女王の微笑
第1章 宮廷の「赤い沈黙」
帝都カイエン、その中心に鎮座するヴァンクローネ帝国の心臓部――皇宮。
豪奢極まるウォルケン皇帝の執務室に、一つの小さな木箱が届けられていた。
いつの間にか置かれていた木箱だったので、傍付きらによって調べられたが大森林のサモンからのものであるとわかった。
添えられた皮紙には、サモンの丁寧でありながらどこか挑戦的な筆致が残されている。
『ウォルケン陛下へ。これは、帝国の未来を彩る新しい光です。ぜひ、奥方様への贈り物に』
「……妻への贈り物、か」
皇帝ウォルケンは、その小箱を手に取り、怪訝そうに眉を寄せた。
サモンという男は、常に帝国の常識を破壊し、新たな秩序を押し付けてくる。
しかし、彼がもたらす「未知」が、この帝国の停滞を打ち破ってきたことも事実だった。
皇帝はそれ以上深く追及することなく、小箱を侍従に預け、皇后アイザの下へと届けさせた。
翌朝。
皇宮のダイニングルームには、重苦しいまでの静寂が漂っていた。
朝食の席に現れた皇后アイザ――。
その姿を目にした瞬間、給仕の手が止まり、控えていた文官たちは思わず頭を垂れたまま凝固した。
皇后の唇に、これまで宮廷のいかなる宝物庫にも存在しなかった色彩と艶が宿っていた。
深く、生命力に溢れ、吸い込まれるような主張すぎない程度の真紅。
これまでの淡い紅色の油とは次元が違う。
それは、彼女の持つ峻烈な気品を損なうどころか、その内側に秘められた「皇后」としての威厳を、溢れんばかりに引き出していた。
「……アイザ。誰だ、それを作ったのは」
皇帝ウォルケンも食事の手を止め、絞り出すように問うた。
彼の目には、驚愕と、そして男としての本能的な憧憬が入り混じっていた。
「あら、あなたのご友人でしょう? 大森林にいる、あの少し変わった、けれど素晴らしい方」
皇后アイザは、静かに、そしてどこか勝ち誇ったように笑った。
その赤い唇が動くたび、宮廷の空気そのものが震え、周囲の品が書き換えられていく。
帝都の頂点。そこに「深紅」が降臨したという事実は、音もなく宮廷中へと伝播していった。
第2章 社交界の第一感染
数日後、皇后アイザ主催の茶会が催された。
出席者の中には、急ぎナベンザから帝都に到着したイングリッド・カルヴォ公爵令嬢の姿もあった。
並み居る貴族女性たちは、どこか不穏な空気を漂わせていた。
「顔に色を塗るなど……」
「まさか異教の真似事では……」
保守的な教条を重んじる彼女たちにとって、この新しい「色彩」は、自分たちの確固たる世界を侵食する異物に見えていたのだ。
しかし。
皇后アイザとその隣に立つイングリッドが広間に現れた瞬間、それまでの不満は瞬時に凍りついた。
皇后の泰然自若とした王者の赤。
そしてイングリッドの、戦場に立つ騎士のような鋭い赤。
二つの鮮烈な「意思」が並び立ったとき、広間を満たしていた冷ややかな空気は、一転して熱狂的な眩暈へと変貌した。
「……なんて、美しいのかしら」
誰かが思わず呟いた。
その言葉は、広間にいた全ての女性たちの本音を代弁していた。
沈黙を切り裂くように、一人の年配の侯爵夫人が震える声で問いかけた。
「皇后陛下、その……失礼ながら。その御口の色は、一体……?」
イングリッドが一歩前へ出た。彼女の赤い唇が、挑発的に弧を描く。
「奥様。この紅はただの装飾ではありません」
イングリッドの声は、広間にいた者全ての耳を貫いた。
「これは、心に鎧を纏うための『戦化粧』ですわ」
貴婦人たちが目を見開く。イングリッドは続けた。
「女性が強くあることは、そのまま国家の力となるはずです。 強き魂にふさわしい姿……それをこの赤に込められていますのよ」
皇后アイザが、満足そうに深い溜息をついた。
「なるほど。戦化粧ですわね。……ではこれは、帝国の情熱を象徴する『帝国の赤』ですわね」
皇后の一言。
それまで「噂」に過ぎなかった紅は、その瞬間、帝国の正当なる「文化」へと戴冠した。
貴婦人たちの瞳から、疑念が消え、剥き出しの「欲望」が輝き始めた。
第3章 ポリーヌ、秘密防衛戦
華やかな茶会のメイン会場から少し離れた回廊。
宮廷の技術者から呼び出されて随行していたポリーヌにとって、そこは処刑台への階段を上っているような心地だった。
「ポリーヌ殿。この色彩、我々宮廷学者の目を持ってしても、自然界の鉱石や植物から抽出できるものとは到底思えん」
鼻眼鏡をかけた老学者が、執拗にポリーヌに詰め寄る。
「一体、原料は何だ。皇后さまが口にするならば、その正体を明確にする義務がある」
ポリーヌは、顔面を土気色に変えながら、震える手で自分の荷物――雪虫の乾燥袋が入った鞄を抱え直した。
(終わった……。もしここで『虫を煮詰めて作りました』なんて言ってみなさいよ。この華やかな宮廷は一瞬で阿鼻叫喚、私は不敬罪で即日処刑、サモン様は……あの方は平気でしょうけど、私がもたない!)
ポリーヌは、死に物狂いで脳細胞を回転させた。
「そ、それは……その……希少な……ええ、大森林の奥深くでしか採掘されない、伝説の『赤い鉱石』の粉末でして……!」
言葉を吐き出した瞬間に「嘘だ」と自覚できるほどの大嘘だった。
しかし、老学者は「鉱石……やはりマナを帯びた結晶か」と独り言を漏らしながらメモを取る。
その時だった。
ポリーヌの背負った鞄の中で、何かが――
――カサッ。
という、乾いた、しかし確かな「虫の脚」が動く音が響いた。
「ん? 何か聞こえなかったか?」
学者が目を光らせる。
「きゃあああああ!!!」
ポリーヌは、学者が覗き込もうとする寸前に、地面に派手に転がった。
鞄を自分の体で押し潰すようにして、必死に覆い隠す。
(お願い、お願いだから静かにして!! あなたたちはもう乾燥されてるはずでしょ!? 死後硬直の冗談はやめてえええ!!)
鞄の隙間から、ひょっこりと黒い脚が一本出かけていたのを、ポリーヌは驚異的な反射神経で鞄の中へ押し込み、錠をかけた。
ポリーヌの胃の痛みは、早くも限界を突破しようとしていた。
第4章 皇后の器
ポリーヌが廊下でのたうち回っている頃、その不穏な噂――
「紅の正体は虫である」という説は、早くも皇后アイザの耳に届いていた。
誰かがポリーヌの鞄から漏れた異臭や異音を、皇后の側近に告げ口したのだ。
茶会が終わった後、ポリーヌは皇后の私室へと呼び出された。
イングリッドも同席しているが、彼女は何も知らない。
(……サモン様。あなたを恨みます。私はこれから、帝国の皇后陛下に『虫を塗りました』と告白し、首を跳ねられるのですね……)
ポリーヌは、冷たい大理石の床に跪き、全身を戦慄させていた。
皇后アイザは、赤い唇をわずかに緩め、高い椅子からポリーヌを見下ろしていた。
「ポリーヌ。宮廷の者たちが騒がしいわ。『その赤の正体は、南部の忌まわしい雪虫である』と。……ポリーヌ、“紅”は虫なのかしら?」
沈黙。
静寂が、鋭利な刃物のようにポリーヌの首筋を撫でる。
ポリーヌの魂が、喉から這い出そうとしていた。
「そ、それは……」
皇后の、射抜くような視線。
ポリーヌは、嘘をつく気力さえ失い、がっくりと項垂れた。
「……はい。左様に御座います。南部の害虫と呼ばれていた雪虫……それをサモン様が採取し、命の赤を凝縮したものが、その一塗りで御座います」
答えた瞬間、ポリーヌは目を閉じた。騎士が剣を抜く音が聞こえるのを待っていた。
しかし。
聞こえてきたのは、アイザ皇后の、鈴を転がすような笑い声だった。
「虫?」
皇后は、自らの手で、鏡の中の美しい唇をなぞった。
「たかが、そんな小さな生き物が、これほどまでに気高く、美しい色彩を秘めていたというの?」
アイザはゆっくりと立ち上がり、震えるポリーヌの肩に優しく手を置いた。
「それがあれほど美しい赤を生むのなら。その虫は、帝国を導く神の使いに他ならないわ」
その一言で、皇宮に漂っていた全ての議論は終結した。
皇后が虫による「美」を認め、「神の使い」と呼んだ以上、それが何であろうと聖なるものへと昇華される。
ポリーヌは、腰を抜かしたまま、皇后の圧倒的な器の大きさに、ただただ涙を流した。
美しさは、倫理をも、嫌悪感をも、一瞬で上書きしてしまったのだ。
ただ、後ろでイングリッドが白目を剝きかけていたことなど、知る由もなかった。
第5章 文明の歯車
その日の深夜。ポリーヌは憔悴しきった姿で、サモンとの遠隔通信機に向かい合っていた。
『皇后陛下の反応は、極めて論理的だね』
通信の向こう側、サモンの声は、まるで実験データを精査するように冷淡だった。
「論理的……? あ、あんなの、狂信か、それ以上の何かですわ! サモン様、私は今日、三回は死を覚悟しましたのよ! それにイングリッド様は気を失いましたし」
『はははっ、そっか、イングリッドにもバレたか』
「バレたかじゃありませんよ! 次にお会いしたら首を落とされますよ」
『イングリッドなら大丈夫さ、ポリーヌ。 一度手に入れてしまえば、手放すことはしないさ。 おそらく今、彼女は自分と向き合い、折り合いをつけているところさ。彼女の世界を書き換える準備とね』
そして続ける。
『さて、女性の秘めたる願望には火が付いたはずだ。 これからは求める声も次第に大きくなるはずだよ。 安定して提供できるようにしないとね』
「はい、もうすでに私のほうでも手がいっぱいで……フェルナさんにも飛び回ってもらっています」
『まあ、そうなるよね。……じゃあ、この際だから君のいた“グラント商会”だっけ? そこの会長の……』
「ブレア会長ですか?」
『ああ、そのブレア会長にも協力してもらえば?』
サモンの一言にポリーヌは、一瞬思考が固まる。
「よろしいのですか? 製造方法を伝えることになりますが」
『別にかまわないさ。“紅”を独占したいわけでもないしね。 君さえよければ、かまわないよ。 それに他の人が加わればもっと違うものが生まれるかもしれないだろ』
サモンの一言にポリーヌは、目からウロコが落ちた思いだ。
「サモン様がそう言っていただけるのであれば、会長のほうにもご相談させていただきます」
『借りれる手があるのなら借りたほうがいいよ、ポリーヌ』
「ありがとうございます」
こうして、“紅”の製造に向けた希望を見出すことができ、ポリーヌは無限の労働と胃痛から解放されようとしていた。
やがてこれらの流れは、美容から化粧品といった言葉までもが生まれ、概念化され普及していくことになるが、それはまた別の話。
何はともあれ、帝国の女性たちの唇が、時間が経つごとに赤い艶を増す。
それは、もはや誰にも止められない“美”という“文化”の産声だった。




