第144話 深紅の波紋
ちょっと長くなってしまいました。
第1章 深紅の来訪
帝国の新たな要所として開発が進む、ナベンザの地。
その巨大な競技場の建設現場は、連日のように、大地を震わせる喧騒に包まれていた。
数百人の労働者が行き交い、巨大な資材が魔法と人力によって、敷地整備のために運ばれていく。
土埃が舞い、土と汗の臭いが混じり合う広大な空間。
その最前線に、不釣り合いなほどの華やかさと、峻烈な威厳を纏った一団が現れた。
イングリッド・カルヴォ公爵令嬢。
ナベンザの領主代行として、視察を日課とする彼女ではあったが、この日の彼女は、何かが決定的に、そして異様なまでに違っていた。
「……っ、イングリッド様……?」
随行する若い役人が、足元を掬われたかのように言葉を失い、立ち尽くした。
快晴の陽光をその身に浴びたイングリッドの、その唇に――。
見たこともない、鮮烈な「赤」が宿っていた。
それは、これまでの貴族社会で見られたような、高価な植物油による控えめな艶ではない。
大地の奥深くに眠る情熱をそのまま形にしたような、あるいは熟れすぎた果実が弾けた瞬間の輝きを永遠に固定したような、暴力的なまでの「色彩」だった。
「……何か? 排水計画に、不備でも?」
イングリッドは、動揺を隠せない役人を、静かに見通した。
彼女の唇が動くたび、その深紅の色彩が、発せられる言葉に「命令」以上の重みと、抗いがたい魅力を付与していく。
視察の一団が通り過ぎるたび、現場で行きかう女性たちの動きが、波紋が広がるように止まっていった。
資材の管理を任されていた熟練職人の妻、資材を納品に来た商家の娘。
彼女たちは皆、一様に目を見開き、イングリッドの唇に釘付けになった。
「……なんて麗しい唇。生まれて初めて見たわ……」
「まあ……何をお塗りなのかしら」
職人の妻が、泥に汚れた自分の手で、無意識に、カサついた唇に触れた。
彼女たちの知る「色」とは、野に咲く花の儚い色か、あるいは高価な絹織物の染料だ。
自分たちの顔そのものに、これほどまでの「華」を、そして「意思」を宿すことができるなど、想像だにしていなかった。
「ふふ……生まれ変わったようですわ」
イングリッドの声は、土埃を切り裂くように凛として響いた。
その瞬間、ナベンザの競技場予定地に――
いや、帝国全土に向けた「文化の第一感染」が発生した。
美への羨望という名の熱病が、土にまみれた労働者たちの間を、一気に駆け抜けていったのだ。
第2章 爆発する需要
一方、ナベンザから遠く離れた帝都カイエン。
馬車を乗り継ぎ、数日かけて帝都へと運び込まれた「イングリッド公爵令嬢の変貌」という噂は、爆発的な勢いで都市を飲み込んだ。
カイエンの商人組合事務所にある、ポリーヌの執務室は、もはや正常な業務が不可能なほどの阿鼻叫喚に包まれていた。
「ポリーヌ様! 帝都中から問い合わせが殺到しています! 入り口の扉を閉めてください、押しつぶされます!」
「落ち着いて、フェルナ! 窓も閉めて!」
ポリーヌの声は、扉越しに響く怒号と懇願にかき消されそうになっていた。
『イングリッド様が、唇を赤く染めていらした。まるで魔法のようだった』
『あの赤を一塗りすれば、誰でも公爵令嬢のような気品と、若々しさが宿るらしい』
噂は尾ひれを付けて増幅され、商人や退屈を持て余していた貴族の使い、果ては帝都の劇場を彩る奔放な踊り子たちまでが、ポリーヌの元へ殺到したのだ。
これはポリーヌたちも紅を使っていることもあり、すでに噂は農村部の娘たちにも広く伝わっていたためだ。
しかも、ポリーヌはイングリッドの部下。
イングリッドにかなり近しいということは、商人や貴族連中には広く認知されていることから紅の源であると探り当ててきたのだろう。
「紅を扱っているんだろ! 頼むから分けてくれ」
「売ってくれなければ、貴族からの取引を切られる!」
多くの来訪者の中には、組合立ち上げ時に文句を言ってきた商人も混ざっていた。
「あの連中……嗅覚だけは立派ね」
ポリーヌは、机の上に積み上がった、山のような注文書を見つめ、眩暈を覚えた。
サモンの言った通りだった。
「文化」という名の贅沢品が、一度需要として大衆の心に固定されれば、それは「産業」という名の巨大な怪物を動かし始める。
布組合が血眼になるのも無理はない。
これは「身を包む色」から、「顔に纏う色」への市場の拡大、いや、革命なのだ。
だが、まだ販売するほどの体制は出来てはいなかった。
しかし、ポリーヌの表情は晴れなかった。
「フェルナ、サモン様に急ぎで連絡を。原料が……原料が全く足りません」
ー雪虫ー
あの小さな虫から抽出される奇跡の赤の在庫は、帝都カイエンの需要を賄うことすら危うい状態だった。
供給が、膨れ上がる需要の爆食いに、完全に追い越されていた。
第3章 保守派の反発
だが、この熱病にも似た急速な「文化汚染」を、帝国の保守勢力や教会が黙って見ているはずもなかった。
ナベンザの城、アルフォンソ・カルヴォ公爵の執務室にイングリッドは呼ばれた。
部屋に入ると、父アルフォンソ・カルヴォ公爵とその妻(イングリッドの母)、アイリーンが長椅子に腰掛け、その対面にナベンザで高名な司祭、フエルトが座っていた。
父は困り果てた顔をイングリッドに向け、母アイリーンは不機嫌そうにすましている。
ただそのアイリーンの唇にはやはり紅がうっすら引かれていた。
ここ数日、ねだられてアイリーンにも毎日貸していたのだ。
フエルト司祭のほうはというと、紅を塗ったわけではないが、顔がすでに茹で上がっていた。
イングリッドを見るなり、血走った眼を向け、激しい批難の声をぶつける。
「破廉恥である! 淑女が己の顔を赤く染め、公衆の面前で色を売るなど、古き良き帝国の美徳を汚す行為だ、悪魔の誘惑だ!」
彼らにとって、女性が自らの意思で自分を美しく変え、大衆の視線を集めることは、統制された社会の秩序を乱す「不道徳」な行為に他ならなかった。
「イングリッド様! ご説明をいただきたい、なぜそのような「不道徳」な行為をされるのか!」
司祭付の助祭らしき者からも糾弾を浴びせられた。
しかし、イングリッドは動じなかった。彼女は静かに立ち上がり、議事堂の大きな窓の外を指さした。
「不道徳? 司祭様、一体何が不道徳なのでしょうか?」
「なんと民の見本となられる方が、なんと嘆かわしいことを」
「そのような赤いものを唇に塗れば、神の子たる民たちが、そのようなものうつつを抜かし堕落していくことは明白ではないか!」
さらにフエルト司祭は顔を赤くし、指まで刺してボルテージアップだ。
父アルフォンソはというと、さすがに教会相手を無碍にはできないのか、相変わらず困り顔だ。
しかし、母アイリーンは違った。
「司祭様、お言葉を返すようですけれど、”堕落、堕落”と先ほどからおっしゃりますが、私が堕落したとおっしゃりたいの? 夫は「美しい」と喜んでますのに。それが堕落だとおっしゃるの? 夫が喜んで、元気になり、女性も夫の喜びを見て幸せを感じ、それが明日の糧にはなっても害などあり得ないですわ! それにいつ神が唇に色を乗せることを不道徳であるとお告げになったのです!」
これまで我慢していたのだろう。
ついに母アイリーンから魔法の集中砲火のような苛烈な言葉の連弾が火を噴いた。
いかなる時も淑女であれと、いつも諭す母の本気の怒りをイングリッドは初めて見たのだった。
アイリーンの勢いに助祭は押し黙るが、フレイル司祭は引き下がらなかった。
「それこそが堕落の兆しだといっているのだ。夫を喜ばすことが目的だなどと嘆かわしい。そのような心得が民にも広まれば、ナベンザは乱れますぞ!」
フレイル司祭の言葉は、受け取り方によってはアイリーンを娼婦のようであると揶揄したようなものだ。
さすがにこれにはアルフォンソも険しい目つきになる。
「司祭殿、ずいぶん穿った物言いのようだな。我妻の侮辱にも聞こえるのだが?」
険を纏ったアルフォンソの言葉に、一瞬フレイル司祭は止まる。
しかし、迷いを見せずにフレイル司祭は古い話を持ち出した。
「公爵、私は赤い色に魅せられ堕落に落ちようとする民を憂いているのだ。亡国ルセティカのようにな」
亡国ルセティカとは神話並みの言い伝えで、神より与えられた飲み物に溺れ堕落した民たちの国が、破滅に向かうというありきたりな話であった。
飲み物はとても魅力的な“お酒”であるとも言われ、人前で酔いつぶれれば、“ルセティール(ルセティカ人)”と馬鹿にされることがあるほどなじみのある話だ。
「なるほど、我妻や娘が“ルセティール”だというのだな。……司祭の言い分は分かった。司教も同じ考えなのだな」
アルフォンソはそう言うや否や立ち上がり、ドアを指さし、
”出ていけっ!”
公爵らしい威厳に満ちた声で張り上げる。
助祭は飛び上がり、フレイル司祭は剣呑な視線を向け、“フンッ”と鼻息荒げ立ち上がった。
そして不気味な声と共に部屋を出ていった。
「忠告はしたぞ」
イングリッドも言いたいことはあったが、一言も発せずに相手は去ってしまった。
それよりも父や母が怒鳴るのを直接見たことのほうが、衝撃的だったからもしれない。
司祭たちが出ていったあと落ち着いたのか、両親は娘の前で感情を顕わにしたのを後悔しているかのように、照れ笑いを浮かべていた。
第4章 娘の決意
短い時間ではあったが、大きく荒れた執務室内。
落ち着きを取り戻した後、アルフォンソからイングリッドに声を掛けた。
「イングリッド、サモン殿からもらったというその“紅”、司祭のような者から今後も狙われるかもしれん。今後市場に出るのならば手を打たねばならんやもな」
アルフォンソの懸念ももっともである。
まさしく司祭が来たのだから。
「あなたの力で何とかなりませんの?」
アイリーンもイングリッドを寄せてアルフォンソを見つめた。
「そうだな、教会を抑えるのであれば方法はなくはない。何せ教皇は陛下だしな」
そう、ヴァンクローネ帝国の教会は、ウォルケン・ブルフ皇帝が兼ねる。
公爵であるアルフォンソならば知らぬ仲でもない。
そこでイングリッドが手を上げた。
「では、私が謁見し、ご相談に参りますわ」
「まあ、そのほうが陛下も話しやすいだろう。私となれば職務的な話になろうからな。あらかじめサモン殿にも相談してみなさい」
つまりサモンを引き込めと暗示しているのだ。
公爵らしい駆け引き、いや保険だろう。
その日の夜、早速イングリッドは先ほどの話と競技場建設予定地の準備完了の話をサモンに伝えた。
第5章 ポリーヌ地獄
ナベンザでイングリッド一家が仄かな野望を抱いてから数日後、ポリーヌも“紅”の件で忙しくしていた。
ポリーヌは原料確保という過酷な使命のため、帝都カイエンを一時離れ、雪虫の生息域に近いカイエン郊外の極秘工房へと拠点を移していた。
工房内には、香料と、虫を煮詰める特有の異臭が入り混じり、息をするのも躊躇われるような空間が広がっていた。
中央の巨大な釜では、シスターズたちが無言で、大量の雪虫を真紅の液体へと変えていた。
「……いい、心を無にするのよ……」
そう自分に言い聞かせ、ポリーヌは不気味な泡を立てる液体を見つめる。
数百、数千という虫の命が、帝都の女性たちの唇を彩る一滴へと変わっていく――
それはまるで、美の生成現場というよりは、暗黒の儀式のような光景だった。
「ポリーヌ様!! 大変です! イングリッド様が、予定を早めてこちらに向かったと!」
「なんですって!!?」
フェルナの叫びに、ポリーヌの心臓が凍りついた。
この世で最も虫を憎み、そして今、この深紅の紅を最も愛している女性。
彼女にこの「原料」の正体を見られた瞬間、ナベンザの平和は終わり、自分の命(あるいは築き上げた友情)も灰に帰す。
「隠してえええ!! 蒸気を最大限に出して目くらましを! 布で釜と袋を完全に覆って!! 香料を三倍焚くのよ!!」
工房中が煙に包まれ、ポリーヌが泡を食って隠蔽工作をしている最中に、イングリッドが優雅に入室した。
「……まあ。なんという芳しい香り。そして、この幻想的な熱気……」
煙に巻かれ、逆光に照らされた工房。
そこには、修行僧のような面持ちで試験管を振る、汗だくのポリーヌがいた。
「ポリーヌ、この場所からあの素晴らしい色彩が紡がれているのね。……祈りのような、神聖ささえ感じますわ」
「……は、はい。神聖で……ございますわ、ええ……」
ポリーヌは、背後の袋から逃げ出そうとした一匹の虫を、見事な足さばきで潰しながら、引きつった笑みを浮かべた。サモン様、報酬を十倍にしてください。
第6章 サモンの評価
その日の深夜。ポリーヌは疲れ果てた体を椅子に預け、サモンとの遠隔通信機に向かい合っていた。
『需要は想定を上回ったようだね、ポリーヌ。帝都も、じきにナベンザも、この「赤」を求めるようになるよ』
サモンの声は、どこまでも冷徹で、微かな愉悦を秘めていた。
「……ええ。 悲鳴のような要望が絶えません。 商人も、貴族も、庶民も。みんな、目の色が変わっています」
『唇を一塗り染めるだけで、見る目が変わり、その目が自分も変えていく』
サモンは、手元の記録票に「欲望の質量」を書き足していく。
さらに言葉も足していく。
『そういえば、イングリッド嬢から頼まれて、ウォルケンの奥さん宛てに送っておいたから』
その一言を聞いた瞬間――
ポリーヌの思考が、完全に停止した。
「……はい?」
間の抜けた声が、通信機の前でぽつりと落ちる。
『だから、皇后陛下だよ』
サモンは、いつもの調子で言った。
その声音は、まるで「近所にお菓子でも配っておいた」くらいの軽さだった。
ポリーヌの顔色が、見る見るうちに青ざめていく。
「こ、こ、こ……皇后陛下……?」
帝国の頂点に立つ皇帝――
その伴侶。
帝国すべての女性の頂点に立つ存在。
その方に。
その方の、唇に。
「……虫を……?」
震える声が、かろうじて漏れた。
先ほどまでの工房の様子を思い出す。
ポリーヌは両手で顔を覆った。
「……サモン様……」
『うん?』
「もし……もしですよ……?」
震える声で続ける。
「万が一……誰かが……」
ポリーヌはゆっくり言葉を選んだ。
「“この紅は虫から作られている”などという話を……皇后陛下の耳に入れたら……」
数秒の沈黙。
ポリーヌの想像の中では、すでに未来が見えていた。
「私、処刑されません?」
『されないと思うよ』
サモンは、あっさり言った。
「思うって何ですか思うって!」
思わず机を叩く。
「皇后陛下ですよ!? 帝国の皇后ですよ!? そのお方に……虫の体液を……唇に……!」
ポリーヌは顔を覆った。
「……ああ神様……」
深いため息。
「なぜ私が……こんな恐れ多い仕事を……」
通信機の向こうで、サモンは淡々と言った。
『安心するといい』
「何がですか!」
『君が作っているのは、帝国史上初の化粧品だ』
ポリーヌはゆっくり顔を上げた。
『そして今、その最初の使用者は、公爵令嬢と皇后陛下だ』
静かな言葉だった。
だが重さは、尋常ではない。
ポリーヌはしばらく黙った。
そして小さく呟いた。
「……逃げてもいいですか?」
『駄目だね』
即答だった。
ポリーヌは椅子に崩れ落ちた。
「……サモン様……」
『なんだい?』
「もしこの件が宮廷で問題になったら……」
彼女は遠い目をした。
「私、絶対にあなたの名前を出しますから」
『構わないよ』
サモンは、楽しそうに笑った。
『僕もそっちに一度行くから。その頃には、帝国中の女性が紅を塗っているだろうしね』
ポリーヌは天井を見上げた。
「……本当に、恐ろしい人ですわ」
背後の釜では、今日もまた――
帝国の未来を染める深紅が、静かに煮え続けていた。




