第143話 美しい紅には裏がある
第1章 進むの再編
帝都ナベンザ。
かつては帝都の辺境であり、帝国の要所として発展してきたこの場所は今、地図が書き換えられるほどの激動の中にあった。
イングリッドによる領地視察は、快晴の下で行われていた。
「この地図はまさしくこの土地を写し取ったような正確さです、イングリッド様」
随行する役人が、地図の写しを広げて説明する。
視界の先では、あちこちに人だかりができていた。
それは争いの場ではなく、これからの「生活」を決めるための、対話の場だった。
「ここは以前からわしの家で耕してきた場所だ! 水路を引くなら、もう少し北へ寄せてくれ!」
「境界については図面の通りだ。役人さん、この新しい区画ってのは、本当に公平なんだろうな?」
あちこちで、役人と農家が集まり、話し合っている。
サモンからもたらされた精密な測量技術により、かつては曖昧だった土地の境界が明確になった。
それに伴う土地の調整は、農民たちにとっても死活問題だ。
時には激しい声も上がるが、イングリッドはそれらを黙って見つめていた。
「……公平さは、この地の礎なりますわ。 不満はすべて拾い上げてくださいな。 けれど、水路の工事は予定通りに」
イングリッドの声は静かだが、逆らわせぬ威厳に満ちていた。
周囲では、公爵家以下の役人や領兵たちが、写しの地図を片手に、新たな水路の予定ルートを丹念に歩いて確認している。
大地を彫刻し直すような、地道で、しかし力強い「再編」の光景。
イングリッドは、この土地がサモンの知識と、自分たちの行政能力によって、強固な基盤へと生まれ変わろうとしているのを冷静に、しかし確かな手応えとともに実感していた。
第2章 新作のお知らせ
長い視察を終え、夕刻。
ナベンザの館にある自室へと戻ったイングリッドは、服を着替えようと一息ついた。
ふと視線を向けると、机の上に、見慣れぬ形状の小箱が置かれていた。
「……フェアギスさん、これは?」
イングリッドが声を掛けると、何処からともなく声が応えた。
「指令からの届け物です」
「サモン様からの……」
イングリッドは、短く応じ、箱を手に取った。
包みを開けると、中から現れたのはサモン直筆の添え状。
そして小さな一つの筒。
『イングリッド。ぜひ、文化誕生のご体験を。これは、君にさらなる勇気と美しさを与える魔法だ』
「文化誕生……。また、いったい何をお始めになるのかしら」
イングリッドは、少し笑みを浮かべつつその筒を手に取った。
指先に伝わる小さな重み。
蓋を外すと、そこには夕焼けよりも深い、鮮烈な「朱」が静かに収まっていた。
第4章 ポリーヌ危機一髪
イングリッドは銀鏡の前に座った。
公爵令嬢として生きてきた彼女にとって、鏡の中に映る自分の姿は見慣れたものだ。
だが貴族であっても顔に直接何かを塗ることはほとんどない。
たまに唇へ保湿用に植物油を塗ることはあっても、それはあくまで実務的な手入れに過ぎなかった。
だが、説明書に従い、その朱を自らの唇へと滑らせる。
感触は驚くほど滑らかで、それでいてしっかりとした重厚さがあった。
唇へのノリが良く、一筋の赤が引かれただけで、鏡の中の印象が劇的に変わった。
「……まあ!」
これまでの保湿剤とは次元が違う。
強い発色が、イングリッドの持つ凛とした威厳を引き立て、顔立ちに生命力と「華」を付け加えていた。
鏡に映った自分の姿。
それは、令嬢としての自分を損なうものではなく、むしろその誇りを高めるための「装飾」の一種であるかのようだった。
イングリッドは、不覚にもその鏡の中の自分に、言葉を失い、うっとりと見入ってしまう。
「これが文化……」
サモンが言った言葉を、イングリッドは噛み締めた。
まさしく美しくあることは、それだけで人を強くさせる。
この「衝撃」そのものが、新しい時代の予兆に感じられた。
「……フェアギスさん。 ポリーヌへ繋げていただけます?」
イングリッドは、不可視の者に視線も向けずに告げた。
間もなく、ポリーヌの声が部屋に伝わった。
『……イングリッド様? 何か、御用でしょうか』
「ポリーヌですね。 先ほどサモン様より贈り物をいただきましたの。 あなたはご存じ?」
“ゴトッ”
イングリッドの質問と同時にポリーヌの方で何かが落ちる鈍い音がした。
何かアクシデントが起こったのだろう。
オドオドした様子のポリーヌが返事を返してきた。
『は、はい、私にもお届けいただきました』
特に気に留めるわけでもなく、そのままイングリッドは続けた。
「では、もうお試しになったのね。?」
『はい、私も驚きました。……さすがに周りの反応は様々なようですが』
どうやらポリーヌの方は、すでに周りにも披露したようであった。
その反応も人それぞれではあるようだが、若い者の目には特に良い反応が見られたということだった。
「わたくしも今、試してみたところですわ。 この紅、唇へのノリといい、……このような発色の良い唇になるだけで自分ではないみたい。 「文化誕生」という言葉も納得がいきましたわ』
イングリッドは、あえて冷静な口調を保ちながらも、その言葉には隠しきれない熱が宿っていた。
対するポリーヌは、その朱に染まったイングリッドの美しさに想像しながらも――
虫嫌いのイングリッドが、虫の体液を塗っているという事実――
に戦慄していた。
(イングリッド様、そこまで真剣にこの紅のことを……。 ああ、真実は墓場まで持っていかなければ……!!)
『え、ええ……とても、とても素晴らしいものですね。 イングリッド様……! あ、それよりも!競技場の予定地はお決まりになりましたか!?』
「ええ、兄さまにも納得いただき、抑えてありますわ。 あとはサモン様にお伝えして詳しい日時などのおはなしをすすめるだけですわ。 そちらもそろそろでなくて?」
『はい、こちらもすでに拡張区画の一部を転用することとなっています。 まだ運営などの方針で貴族と揉めているみたいですが、そちらは……』
ポリーヌが、強引に競技場へと逸らす。
なぜか必死にアリーナの話を続けるポリーヌ。
イングリッドは「仕事熱心な彼女らしいわ」と微笑みながらも、鏡の中に映る「紅の自分」に、かつてない全能感を覚えていた。




