第142話 深紅の唇と隠された戦慄
第1章 パンドラの小箱
サモンからの、あの耳を疑うような「紅」についての連絡から二日。
帝都ナベンザの組合事務所、ポリーヌの執務机の上には、一つの小さな木箱が置かれていた。
大森林から届けられたそれは、サモンらしい丁寧な梱包が施されている。
だが、ポリーヌにとって、それは美しい贈り物というよりは、開けるのを躊躇われる「パンドラの箱」に近いものだった。
(あの中には……例の、虫を集めて潰したという、あのかたまりが……)
数日前の戦慄が蘇り、ポリーヌの指先が微かに震える。
呼吸を整え、意を決するように箱の紐をほどき、そっと蓋を上げた。
中には、手のひらに収まるほどの、小さな陶器の器。
そしてその隣には、見慣れない形状の、細いつややかな筒が二つ並んでいた。
それと一緒に、馴染み深い文字で書かれた皮紙が添えられている。
『自分、あるいは信頼できる誰かで試してほしい。 使い方は、筒の蓋を外し、そこにある赤い芯を唇に滑らせるだけだ』
ポリーヌはおそるおそる、銀色の意匠が施された小さな筒を手に取った。
蓋を抜くと――。
「……っ」
思わず、息を呑んだ。
そこに現れたのは、これまでの人生で一度も目にしたことのない、鮮烈な「赤」だった。
吸い込まれるような深みを持ち、なおかつ内側から発光しているかのような、圧倒的な生命力。
これが虫の体液を乾燥させたものだという事実を、一瞬で忘れさせるほどの、暴力的なまでの美しさがそこにはあった。
嫌悪感と、本能的な憧憬。
ポリーヌの心の中で、相反する二つの感情が凄まじい勢いでせめぎ合いを始めていた。
第2章 初めての「紅」
執務室の窓を閉め切り、一人の空間を確保したポリーヌは、葛藤の真っ只中にいた。
手元の筒状の紅を見つめては、鏡(銀製の鏡)に向かい、また視線を落とす。
「これを、本当に唇に……?」
そこへ、ノックの音が響いた。
「ポリーヌ様、先日の堆肥の状況、確認いたしました」
入ってきたのは、秘書のフェルナだった。
ポリーヌは慌てて紅を隠そうとしたが、フェルナの鋭い目が、机の上の異様な「赤」を捉えた。
「……それは、何ですか? 見たこともない、綺麗な色……」
フェルナの純粋な称賛に、ポリーヌは少しだけ毒気が抜けた。
彼女はサモンからの依頼を包み隠さず話した。
「虫から採った」という事実を含めて。
「……虫、ですか」
フェルナも一瞬、頬を引きつらせたが、すぐにその視線は紅の輝きに釘付けになった。
「ですが、ポリーヌ様。これほどの色は、王族の儀式でさえ見たことがありません。サモン様が『試せ』とおっしゃるなら、それはきっと……意味があるはずです」
フェルナの力強い言葉に押されるように、ポリーヌは鏡の前に座った。
表面を丁寧に磨き上げられた鏡には、緊張した自分の顔が映っている。
震える指で筒を持ち、その尖端を、自らの下唇にそっと滑らせた。
「……っ、冷たい……いえ、滑らか」
サモン特製の蜜蝋が、体温で溶けて唇に馴染んでいく。
潤いを与え、同時に一筋の鮮やかな線が、ポリーヌの顔の印象を一変させた。
「……あ……」
フェルナが、感嘆の漏らした。
ポリーヌは、鏡の中にいる「見知らぬ自分」を凝視していた。
艶のある、深紅の唇。
それだけで、くすんでいた肌の色が驚くほど白く見え、瞳には意思の強い輝きが宿っている。
かつては「病弱そう」と言われたこともあるポリーヌの顔が、今は力強く、みずみずしい「健康」そのものの華やかさを放っていた。
「……ポリーヌ様、信じられません。まるで、魔法にかかったようですわ」
フェルナもまた、ポリーヌの後ろで、その変貌に圧倒されていた。
第3章 欲望の着火点
翌日、ポリーヌとフェルナは、あえて「紅」を差した状態で組合の施設へと向かった。
自分の唇が赤く染まっているという事実に、ポリーヌは歩くたびに顔を火照らせ、伏せ目がちになる。
対照的に、フェルナはもう一つの筒で唇を彩り、どこか得意げに胸を張って歩いていた。
彼女たちとすれ違う人々は、皆一様に、道端の石像になったかのように足を止めた。
「……おい、あれは……ポリーヌ様か?」
「なんて鮮やかな……。あんな色は、花でも見たことがないぞ」
最初は、不吉な何かではないかと訝しむ者もいた。
教会の古い教理を重んじる者なら、顔を飾ることを「不道徳」と呼んだかもしれない。
だが、その不信感をなぎ払うほどの「美」の説得力が、そこにはあった。
特に、堆肥場で働いていた農村の娘たちの反応は劇的だった。
泥にまみれ、太陽に焼かれた彼女たちの目に、ポリーヌの唇の「赤」が飛び込んでくる。
自分たちが決して手に入れられない別世界の、しかし同時に「今の自分たちが必要としている」光のように映った。
「見て……。あの赤、土の臭いなんて全部消してしまいそうなくらい、綺麗……」
「私も、あんな風になれたら……」
憧れ、という名の欲望。
それは、これまで「自分はこういうものだ」と諦めていた彼女たちの心に、小さな、しかし消えない火を灯した。
美しくなりたい、自分を変えたい。
サモンが予言した、文明を加速させる燃料としての「欲望」が、ナベンザの片隅で確かに着火された瞬間だった。
第4章 サモンの「文化破壊」
その夜の連絡で、サモンは機嫌の良さそうな声を響かせた。
『結果は良さそうだね、ポリーヌ。 鏡に映った自分の顔を見た感想は?』
「……サモン様の見込み通りです」
ポリーヌは苦笑混じりに答えた。
「虫だ、なんだという嫌悪感は、あの一塗りで霧散しました。 近隣の女性たちは、私を見るたびに『その赤をどこで手に入れたのか』と、瞳をギラつかせています」
『それでいい。美しさは階級を溶かし、常識を書き換える。 今まで王侯貴族しか持ち得なかった「鮮やかさ」が庶民の手に渡るとき、文化と社会の仕組みは内側から上書されるんだ』
サモンの声に、冷徹なまでの先見性が混じる。
『さて、次のステップだ。 南部の雪虫回収は順調だが、輸送のコストが痛い。 ナベンザ周辺でも雪虫を探して、小規模な加工拠点を作ってみてほしい。 作り方は簡単だ、マニュアルを送っただろう?』
「……あの工程をやるのですか」
ポリーヌの頬が少しだけ引きつる。
『頼むよ。 それから、ここが重要なんだが――』
サモンの声が、少しだけいたずらっぽく落とされた。
『この紅の「正体」については、当面、イングリッドには秘匿するように。いいかい、絶対にだ』
ポリーヌは息を飲んだ。
ポリーヌは知っている--
イングリッドが、虫という存在をこの世で最も憎んでいることを。
「サモン様……それはあまりにも、酷ではありませんか……?」
『何、ちょっとしたサプライズだよ。 材料の真実を知ったとしても、この価値と魅力を受け入れた時、帝国の新たな文化の誕生なんだ「美容」というね。……思わないかい、ポリーヌ?』
悪魔のような笑みが、言葉越しに見えた気がした。
ポリーヌは、恩人であるサモンのいたずら心と、同じく恩人であり友人でもあるイングリッドの絶叫する未来との板挟みになり、頭を抱えた。
「…………承知いたしました。 ですが、発覚した時の対応は、サモン様、お願いしますよ」
『ははは、その時はその時だ。 ポリーヌ、君ならうまくやれるさ。 産業を育てる喜びと、美しさを広める使命に、今は邁進してほしいな』
ポリーヌは机の上の紅を、愛おしさと恐ろしさが混ざり合った複雑な目で見つめた。
これからこの「赤」が、大陸全体を赤く、熱く染め変えていく。
それはサモンの言った通り、新たな文化の誕生であり、「美容」というものなのであろう。
その代償として、いつか親友の悲鳴が帝都に響き渡ることになるのを予感しながら、ポリーヌは再び紅の蓋を抜いた。




