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26話

 日が傾き、景色が赤みを帯び始めた頃。


 そろそろ夕飯の準備の時間かと頭に過ぎり、あまり長居するのもと遊真達は倉科宅をお暇することにした。


「まだ明るいとはいえ、道中気をつけるのじゃぞ」


「はい、ご馳走様でした」


 玄関口で双子の姉妹に頭を僅かに下げた遊真は、手を振る二人に見送られながらアパートの階下目指して下っていく。一階に辿り着き、エントランスを抜けると先頭を歩いていた流星が立ち止まり、両手を上げて大きく伸びをし始める。


「あー、久しぶりにお腹一杯肉食べたわ。もう晩御飯食べれそうにないわね」


「拙者、焼肉をあれだけ食べたのは初めてでござるよ」


「トシん家って兄弟が多いの? 肉の取り合いなんか慣れていたし」


「家が貧乏だったんじゃないの? どうせいっつも兵糧丸ばっかりガリガリ齧ってるんでしょ? スケベイヌは」


「いや、遊真殿が正解でござる……。惑井殿、兵糧丸はあれはあれで作るのが手間故、日常食べられるものじゃないでござるよ……。まあ、好んで食べる味でもないでござるが」


 そんな無駄話もそこそこに自然解散な雰囲気となり、各々の足先を自宅に向ければ、一人天宮鈴音だけが背を向けた。どうやら彼女だけ、帰宅の方向が異なるようだった。


 遊真は寸瞬だけ考え、即座振り向き行動に移す。


「天宮さん、近くまで送っていくよ」


 声をかけられた品のない焦げ茶の少女は、ぴたりと足を止め最小限の動きで振り返った。その表情はいつもの柔らかな笑み顔だったが、形の良い顎は動きを見せず、是とも否とも答えない。


 流星が驚いていたようだが気にしない。遊真は返事をもらえないまま、しかし構わず天宮の下へと近づいていく。


「行こうか」


 と肩を並べると同時に天宮も一歩を踏み出し、遊真の歩調に合わせて歩みだした。


 駅付近の週末の夕方らしい雑踏の中、様々な雑音だけが耳朶を打つ。行き交う人混みの流れに紛れ、また時に逆らい、暫らく二人に会話がないまま歩を進める。


 何度か声をかけようとしたが中々切欠が得られず、時間ばかりが無駄に経過していく。天宮の自宅は把握していないが、今日徒歩で公園に集合した彼女である。間も無く別れの挨拶を迎えてしまうのは簡単に予想出来ること。


 結局、無言のまま繁華街を抜け、人も疎らな土手の上、川沿いに設けられた舗装道路まで歩みながら隣に並ぶ彼女の端整な横顔を盗み見た。柔らかに笑みを浮かべる天宮だが、相変わらず何を考えているのかわからない。


 そんな中で話を切り出すタイミングを計っていた遊真だったが、


「私に、何か用だった?」


 機を先して天宮に問い掛けられる。そんなに物言いたげな顔をしていたかと気恥ずかしくなるものの、折角話の切欠を得られたのだ。機会は有効利用べきであろう。


「うん、この前助けてもらったお礼、まだしっかりしてなかったから」


「この前のお礼?」


 僅かに首を傾げる天宮。彩り豊かな瞳が疑問を光を携えていた。


「ほら、井中さんのバジリスク事件の時、白い板で守ってくれたじゃない。だからさ、ちゃんとありがとう、って言いたくて」


 遊真の感謝に天宮の瞳が平常の輝きを取り戻し、通常の麗しい笑み顔に戻される。


「気にしなくていい。前にも言ったとおり屋上のお礼だし、それにお陰で私も倉科涼子の私生活を覗き見ることが出来た」


 天宮の発した言葉から、監視の二文字を思い出す。


 未だ正体不明の彼女。しかし今の遊真は、天宮に倉科涼子を害する危険性はないと踏んでいる。そして、それならば一歩踏み込んでみようと意を決して、こうしてやって来たのだ。


「天宮さんって……、何者なの?」


 社台学園校舎屋上で、入学式当日に発した言葉。しかし、今日は違う。あの日のように疑念に囚われて口をついた言葉ではなく、あくまで教えて欲しいと希望の言葉。


 無言になる天宮の姿勢に変化はない。だが、一方の遊真は違っていた。


「確かに知らなくても問題ないかもしれない。でもさ、お互いもっと知り合えたら、もっと協力出来る気がするんだ。折角、同じクラスなったんだしさ。助け合うのもいいんじゃない?」


 遊真の提案に、天宮の足がピタリと止まる。


 突然のことに反応が遅れ、遊真は一歩余分に進んでから慌てて足を止めた。


 振り向いた遊真の眼には、彼女が夕日の朱に染まりながら天を見上げる姿を取り込む。その何やら考え込んでいる立ち姿が異様に不安を掻き立てるが、ややもして天宮は遊真を見据え、変わらぬ笑みでこう告げたのだった。


「葛城君、座って」


「え?」


 聞き返すも、彼女は直角に道を逸れ、土手の斜面にストンと座り込む。


 そして、膝を抱えた彼女の品のないジャージと斜面の摩擦が少なければ、高いところから低いところへ下りゆくのが自然の摂理。そのまま傾斜をズルズルと滑り落ちていく。


「ちょっ、天宮さん?」


「いいから座って」


 自分の身に何が起きているか気付いてないのか、小さくなっていく焦げ茶の背を慌てて追いかける。が、不意に天宮が斜面中腹でピタリと止まれば、


「うわっ!」


 急ぎ土手の斜面を急ぎ下り始めていた遊真は止まれず、追い越し、勢い余って転がり落ちる。


 傾斜の下に広がる河川敷、芝の生い茂る原っぱにて漸く止まれば、大の字になった醜態を天宮に晒しているのに気付く。遊真は羞恥で赤面する自分を取り繕いながら、芝生塗れの全身を払いながらゆっくりと立ち上がった。


 その後、天宮の隣まで斜面を駆け上がり、気を許せばそのまま滑り落ちていきそうな座り心地の不安定さに苛まれながらも、遊真は彼女と肩を並べるように膝を抱えた。


 そうして遊真は「お待たせ」とでも言いたげな視線を送ると、天宮は麗しい笑み顔のまま唐突に話し始める。


「私は、倉科涼子を監視するためここに来ている」


 それは以前も聞いている。それから倉科涼子に何もなければ、彼女もまた何も動かないとも言っていた。遊真としては天宮が監視を続ける目的、そしてその先を知りたかった。


「ただそれは、倉科涼子の安否を気遣う葛城君達とは似ているようで異なる役割」


 と漸く踏み込んだ話に触れようとする天宮。しかし、そこまで聞き、やや不安を覚える。その話しぶりからして、担任を守ろうとする遊真達とは若干ニュアンスが違っていた。


「異なるって、涼子先生を守るためじゃないの?」


 念のため遊真は確認すべく問うのだが、隣の少女の回答は、


「そう。私の役割は倉科涼子の身の安全を確保するための監視ではなく、倉科涼子から世界の秩序を守るため」


 中々に要領の得ないものだった。


「先生から世界の秩序を守るって……。先生は、【混沌なる妖】から世界を守るために戦ってるんだよ? 先生から世界を守る必要なんてないじゃないか」


 天宮の言葉が理解出来ない。守るべきものは同じでも、対峙するべき相手を履き違えている。と、柔らかな笑みを湛える彼女の言い間違いを指摘する遊真だが、


「だから私は、葛城君達とは異なる役割だと伝えた」


 自分の正しさを頑なにする。


 遊真はここに来て、自分は触れてはいけないものに触れてしまった気がしていた。天宮の優しげな笑みの下には、途轍もない秘密が隠されているのではと。


 しかし天宮は後悔の念に囚われつつある遊真に構うことなく、ついに核心へと触れた。


「私は、地上界の秩序を乱さないよう、主の命により倉科涼子を監視している。もし、彼女が主の意向に沿わない行動を起こせば、私はそれを主に報告する義務がある。それにより【ミズノアキラ】の転生体、倉科涼子の存在は主に委ねられ、場合によってはこの地上界より排除される可能性がある」


 天宮の口から珍しく、長々と言葉が紡がれる。その中のさらりと出た排除という不穏当な発言に思わず喉を詰まらされるが、それより遊真の気にかかったのは「主」と単語だった。彼女の指す主とはどうも人物のようなのだが、倉科涼子は勿論、いとも簡単に地上界の命運を左右出来るような偉大な存在らしい。


 スケールが大き過ぎるが故に、なんとなく想像出来うる対象が限定されるが、突拍子もなさ過ぎてやはり口にするのは躊躇われる。


 そんな存在に従う天宮鈴音とは一体何者なのか。彼女の正体を訊ねることにより、遠回しに特定しようと試みるが、


「もしかして、天宮さんって……」


 その先を言い淀む遊真に、天宮は表情を変えることなく告げる。


「私は天上界に住まう主より使わされた僕。貴方達の間では天の使いと呼ばれている」


 そして彼女は右掌を側頭部に翳すと、彼女の頭上、拳一つ分上空に淡く輝くリングが浮かび上がる。それはまさしく「天使の輪」だった。遊真は驚きを隠せず、まじまじと隣に佇む少女を凝視してしまうが、彼女は気にする様子もなくいつもの穏やかな笑みを湛えていた。


 彼女の頭上に輝く天使の輪は、良く目を凝らせば曲線でなく十二辺程の直線で形成された多角形で、厚みを待たず柔らかな光を放つその様子は、バジリスクの反撃から遊真の身を守った輝白色プレートを思い出させた。


 天空の宮に住まう住人が地上界に送り込んだ鈴である彼女は、異変があれば音を奏で主に知らせる。それが天宮鈴音の名を与えられた天の使い、つまりは天使たる彼女の役割らしい。


 政府の忍者である歳蔵がどんなに調べても、天宮の背景にいかなる組織も感じさせなかったのも当然であろう。なにせ相手は地上界に存在しないのだから。


 そして、ふと気付く。もしかして、【ミズノアキラ】が現世に転生したのは天宮の主が関わっているのではと。それに対する回答は、天宮の頷きでもって返された。


「古来より、英雄と呼ばれた人物達は混乱した時代を収めるべく送り込んだ主の尖兵。そのため、英雄達は主に与えられた常人とは掛け離れた大きな力をもって地上に降り立つ。しかし、英雄達は世俗に塗れて育つため、中には主の意向に沿わない行動をとる者も現われる。それを監視するのが私達、天の使いの役割」


 それが今回の倉科涼子であり、天宮鈴音なのだと言う。


 だが、一つ解せないところがある。


 何故、天宮の主は遠回りにしか介入しないのか。


 確かに力は貸してくれているのだろうが、えらく間接的なのだ。地上界の秩序を守るというなら、天宮の主が直接手を差し伸べてくれてもいいのではないか。


 天宮はそんな遊真の疑問に、変わらぬ笑みを浮かべながらも淡々と答える。


「古くは地上界の住人の願いに応じ、主が直接手を下し解決していた時代もある。しかし、地上界の欲深き民はそれを己個人の力と勘違いし、やがて主の加護を傘に権力を振りかざし始めた。主は自身の力を利用されるのを嫌い、以来天上界の住人は地上界に直接手を差し伸べることを禁止された」


 だから地上界の生命の一つを代行者として仕立て上げ、送り込むらしい。


 俄かには信じられない話だが、全て鵜呑みにして総合すると恐ろしい答えが導き出される。


 送り込んだ代行者が天宮の主の御眼鏡に適わなければ排除される、それは即ち、地上界が【混沌なる妖】に対抗する最終手段を失うことに繋がってしまう。


 そんな遊真の思考を先読みしたのか、


「今の地上界が倉科涼子に歪みを生じさせ、秩序を乱すような社会であるなら全て無に帰さしても良い、と主は判断されている。現状、倉科涼子は主の意に即しているため静観され、今後の倉科涼子の行動に、つまりは地上界の社会理念に委ねられている」


 のだと天宮は言う。


 そう、担任は主に転生者として選ばれたが故、命と共に地上界全土の命運を背負わされているのだ。倉科涼子の心持ち一つで、地上界の先行きが左右されてしまうとも言える。


 幸い倉科涼子にその意思はなく、今のところ将来の見通しは明るい。


 だからこそ、遊真は何故か口にせずにはいられなかった。


「ねえ、天宮さん。先生が悪い人間じゃないって判ったんだったら、せめて天宮さんの力で先生がさ、【ミズノアキラ】の秘術を使っても助かるようには出来ないのかな……」


 まだ知り合って間もない担任のために。それは腹一杯の焼肉に恩義を感じているわけでもなく、将来死地へ赴く彼女をただ同情しているだけでもない。


 その過酷な運命を受け入れ、それでも尚、微笑んでいられる倉科涼子という人物を知り過ぎてしまった故に、天宮の主に白羽の矢を立てられ過剰な力を与えられた彼女が、あまりにも不憫に思えて仕方が無かったのだ。


 死せる運命だけを背負わされては報われないにも程がある。


 ささやかな望みに喜びを見出す担任の顔が酷く印象的で、どうにも忘れそうにない。


 天宮にどれほどの力があるかはわからない。彼女にどれだけの権限を持たされているかわからない。それでも遊真は縋らずにはいられなかった。


 そんな遊真の願いは、


「無理。【ミズノアキラ】の秘術は【ミズノアキラ】たる彼女の魔力が必要不可欠で、どうしても彼女の命と引き換えになる」


 ただ平温に突き放された。


 遊真はただ天宮、もしくは彼女の主の力に縋ったのだが、隣に座る少女はあくまで非干渉を貫く。取り付く島もないとはこのことだろう。


「いや、そうじゃなくって。……じゃあ例えばさ、その秘術をみんなで補って先生の負担を減らせば――」


 思いが伝わらないもどかしさに声を荒げたくなる遊真だったが、ここでこの少女に大声を張り上げても意味は無い。それを理解したからこそ何時訪れるやもしれぬ、未来の担任が助かる道を模索するのだが。


 それを遮るように、天宮は近く斜面に転がる空き缶の一つを人差し指で指し示した。


「葛城君の術を行使する力、魔力の量があの空き缶だったとして、倉科涼子の魔力はどのぐらいか、わかる?」


 誰かが投げ捨てたであろう錆の浮いた空き缶は、自販機でよく見かける無糖珈琲のモノ。片手で握れるほどの缶を遊真に例え、天宮は倉科涼子との比較材料とした。


 遊真は倉科涼子の魔術を目の当たりにしている。また歳蔵からおよそ人の領域を遥かに凌いでいるとも聞いていた。となれば尋常でないのは目に見えており、遊真を引き合いに出すには間違っているような量。恐らく桁違い、単位違いの分量だと予想出来る。


「千本、ぐらいかな?」


 根拠のある数字ではなかった。遊真はただ漠然と、多めに表現したつもりだった。


 天宮は答えず、空き缶を指していた右腕をすっとずらし、人差し指を突き付ける対象の変更した。その指先を辿れば緩やかな流れの河川が目に映る。


「川?」


 対岸までおよそ十数メートルといったところか。水深までは良くわからないが視界に収められる範囲の流域と仮定しても、なるほど缶珈琲千本では全く足りてないだろう。


 改めて倉科涼子の潜在能力を思い知るのだが、しかしその後明かした天宮の回答は遊真の想像を絶するものだった。


「いいえ、その川の先」


「えっ? もっと下流までってこと?」


「下流の先」


「……海?」


「そう、倉科涼子の魔力は地上界全ての海水の量に相当する。だから倉科涼子の代わりを務めるなど誰にも出来ず、また補助に就いたところで倉科涼子の負担を減らすには至らない」


 遊真は飛び抜けて優秀な守部ではない。潜在的な能力で言えば、もっと素質をもった守部が他にいるだろう。それにしても缶珈琲と比較したらリッターサイズのペットボトルが精々。共に太平洋に浮いてしまえばゴミであり、地球上の海水量に微々たる影響も及ぼさない。


 そんな守部が何人集まったところで、倉科涼子の命運に僅かな可能性すら与えられない、と彼女は言ってるのだ。


 己の無力に打ちひしがれる。言葉を失う、とは正に今の遊真を指しているのだろう。


 遊真一人がそこまで思い詰める必要もないのだが、曲りなりにも守部の一人としてこの地を守ってきた矜持がそうさせているのかもしれない。


「……涼子先生は、どうしても助からないの? 死ぬためだけに生まれてきたなんてあんまりじゃないか」


 懇願にも似た遊真の呟き。それでも主の使いたる天宮に一縷の望みを託さずにはいられなかった。


 だが目にしたのは天宮の無情なる頷き。更には耳を疑うような言葉を吐き出す。


「それが現世に生まれた【ミズノアキラ】の転生体、倉科涼子の役割であり運命。彼女は来るべき日のためだけに存在している。そのため倉科の血は予備が用意されている」


「……予備ってなんだよ」


 天宮の台詞に瞬間、頭に血が上る。


 しかし、隣に座る天使は怒りを露にする遊真などお構いなしに、淡々と続け、


「倉科涼子の双子の妹。仮に倉科涼子が子を生さず失われようとも、彼女の妹が代わりに倉科の血を途絶えさせることはなく後世に。彼女もまたそれだけのために生を受けた存在で――」


「やめろよっ!」


 遂に遊真は声を荒げた。


「人間をモノみたいに言うなよ! もういいっ!」


 立ち上がり、未だ膝を抱え川面の流れを観察する天宮を見下ろし思いの丈を浴びせると、そのまま足を取られながらも傾斜を駆け上がり、振り返ることなく自宅へと足を向けた。


 アスファルトを力任せに踏み締め、苛立つ感情を推進力へと換えていく。


 人を人とも思わない天宮の言葉は、仲の良い姉妹だけでなく人類そのものまで馬鹿にされたようだった。


 天宮の主により仕組まれた運命は人類如きに抗うこと叶わず、そして天宮達天上界の住人も出来ることはしてやったと言わんばかりに、それ以上の介入をしようとしない。


 悔しかった。そんな彼等に縋る自分が。何も出来ない自分が。


 全力で駆け抜ける遊真の脳裏に、缶ビールを掲げた時の倉科涼子の笑みが過ぎる。


 その後交わした約束が守られるためには、もう運命の日が訪れないことを祈るしかない。


 少しでもいい。災厄の日の訪れが一日でも伸びて欲しいと願う遊真。


 ――しかし、その願いは叶えられなかった。

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