27話
月曜日。
一昨日の天宮とのこともあり、気分の晴れなかった遊真は昨日を自宅で無駄にしながら、今日という日の朝を迎えていた。
彼女の言葉に苛立ったのは事実。客観的に考えれば、地上界が倉科涼子の力無くしていずれ終焉の時を迎えるらしい現状では、救いの一手を与えられているだけでも幸運なのかもしれない。天宮鈴音のいう主が何のために地上界を守ろうとしているかは定かではないが、その方法に対して遊真が文句を言うのも筋が違うだろう。
ただ、もう少し違うやり方もあったのではないか。それが倉科涼子でなくても良かったのではないか。と考えるのだが、結局は他人の力を当てにしているに過ぎず、また、結局誰かが犠牲にならなければならないのは変わらない。結局、遣る瀬無い想いばかりを募らせるという堂々巡りを繰り返し、とうとう自分を納得させれないまま今に至る。
覚醒しきらない頭のまま登校準備をし、天宮とは今日一日顔を合わせない方がよさそうだなどと、ぼんやり考えていた、
――そんな時、それは突然訪れた。
「なんだ……、これ?」
重く圧し掛かるような不快な気配が纏わり付き、息苦しく、吐き気まで催す。
どこか身に覚えのある唾棄すべき感覚。それをもっと濃縮したような、とまで考え行き着く。
「これは……、【混沌なる妖】だ……」
だが、今、身を突く気配は遊真の知る【混沌なる妖】のモノとは、明らかに禍々しさが違っていた。
過去対峙した【混沌なる妖】の気配を肌を撫でる初冬の冷気とするなら、雪、いや氷の中に直接閉じ込められているような、凍り付くような寒さだけで無く手足を縛られていると錯覚するほどの質量すら感じさせていたのだ。
階下でも何やら騒がしくしているところから、この途方もない規模の悪寒に珠操師の一族である家族達も気付いたのであろう。
傍らに置かれた制服の上着を無造作に掴み、自室を飛び出して階段を下る。
そして居間に集まる家族に何があったのかと問いかけようとしたその時、葛城家屋敷にインターホンのチャイムの音が鳴り響いた。
玄関に最も近いのは居間に踏み込もうとしていた遊真だったのもあり、この非常時に誰だと思いながらも、突然の来客に対応するのだが、
「天宮、さん?」
玄関を開けたそこには、天使こと天宮鈴音の普段と変わらない優しげな笑みがあった。遊真としては一昨日のこともあり険のある表情で迎え撃ち、一歩退いて構えてしまうが、対する彼女は気にも留めず、
「ついてきて」
とだけ告げ、くるりと向きを変えた。
何をしようというのかと訝しみながら、社台学園の制服を着込む登校スタイルの彼女の背中を見つめていると、彼女は首だけ僅かに捩り、
「早く行かないと、倉科涼子ともう会えなくなるかもしれない」
と遊真を促す。
そこまで耳にし、漸く来るべき日が今日であることを知る。
突然、打ち明けられ、目の前の天使と行動を共にするのを嫌悪するものの、彼女の言葉が本当だとすれば遊真に考えている余地はない。
事実、見上げる空は晴れやかとは程遠く、どんよりと暗く厚い雲に覆われており、更には雲の切れ間から薄気味悪い赤紫色の濁った光が漏れている。今、雨ではない何か得体の知れないモノが降り注がんとしているのは明らかで、遊真が家を飛び出す理由に十分なり得た。
寸瞬、父親に現状を伝えるべきかと躊躇うが、既に天宮の背は遠く離れており、このままでは見失うだろうと判断。靴を爪先に引っ掛け、玄関を閉めることすら煩わしく飛び出した。
街中で不安げに空を見上げる人々の間を縫うようにして、遊真は只管走り抜けるのだが、どういうわけか歩いているだけの天使の背中に追いつけない。それでも見失わぬよう懸命に追い掛け辿り着いた先は、社台学園からも程近く、平日の朝という時間には人の出入りがほぼないであろう場所。
そこは遊真が初めて倉科涼子と出会った自然豊かな森だった。
只でさえ赤暗い空の下。森の中は何時にも増して暗くなり、見通しの悪さが遂に木々の陰から天宮の後ろ姿を見失わせていた。
とはいえ、ここまで来て引き返すわけにもいかず、意を決して森へと踏み込む。禍々しい気配はより一層濃度を増して遊真の肌に粘りつき、鳥肌ばかりを無闇に誘う。そんな不快感ばかりが募る中を歩いては、何が起きても過敏に反応してしまう。
不自然に静かな森の中。がさり、と僅かに草の根を掻き分けるような音が耳に届く。
即座、足を止め、息を殺して辺りを見回す。
ふと、目の前の草むら越しに何かの気配を感じ取る。忌々しい空気の中では漠然としたものだが、確かに何か存在を感知した。
「天宮さん?」
逸れた自分を探しに戻った天宮かと声を投げ掛けてみたのだが、遊真の声に反応を示し草むらを掻き分け現れたのは、社台学園の制服を着た天使ではなく、一頭の獰猛な【混沌なる妖】だった。
「うわっ!」
驚きの声を上げ、咄嗟に腰を落とす。
それが功を奏したのか、出会い頭に振り下ろされた一撃は幸運にも遊真の髪の毛数本を薙いだだけに留まった。そして転がるように距離を空け、漸く体勢を立て直した遊真の瞳に【混沌なる妖】のおぞましい姿が映り込んだ。
外見はヒグマが近いだろう。しかし、その体躯はあまりにも巨大で大型重機にも匹敵し、四足歩行にも関わらず遊真が見上げてしまうほどだった。
先程、偶然避けた一撃は丸太のように太い前足から繰り出されたようで、鋭い爪がすぐ脇の樹木を力任せにへし折っていた。避けられなければ遊真の身がそうなっていたと想像させるに容易く、息を飲んだ遊真の脳には【狂気なる暴獣】という名が導き出され、圧倒的な危機に陥っている事を理解させた。
相変わらずところ構わず染み出て現れる。そんな悪態をつきたくもなる中、今は危険な状況を脱するべく思索を巡らすのだが。
血走った双眸から理性の欠片も感じさせない【暴獣】は、口元から涎を溢れさせ、獲物である遊真へと隙を見せることなく近づき、遊真も寄られまいと後ずさるのだが、歩幅による違いか徐々に詰められ、更なる窮地へと追い込まれる。
拙い。そう思うまでに距離を縮められた時、【暴獣】が徐に後ろ足二本で立ち上がる。只でさえ巨躯、更に前足と後ろ足の間にはムササビのような皮膜があるのも手伝い、遊真は覆い被されるような錯覚に囚われた。
逃げ道は後ろのみ、と考えたところで「ドン」と背中に固いものがぶち当たる。後ろ手に触れば樹木の幹の冷たさを感じ取り、遊真は更なる苦境の中に立たされたことを実感した。
刹那、ポケットに手を差し入れ、唯一抗う手段である水晶球を取り出そうとするも、同時に【暴獣】が下腹部までも震えさせる咆哮を放ち、遊真の首を刈り取らんと前足が振り下ろされる。
間に合わない。そう判断した遊真は頭を下げて身を低くすることで辛うじて一撃をかわし、バキバキと乾いた音を立てて倒れる樹木の裏側へと周り込む。そうして自分の胴回りほどもある幹が易々とへし折られていく過程に戦慄した。
恥も外見もかなぐり捨て、【暴獣】の凶悪な追撃から転がるように逃げ回るが、それによりこの状況を打破するための水晶球が取り出せないことに焦りが募る。しかし掠めただけでも身体の一部を失いそうな暴挙に襲われている現状、準備が整えられても術を行使する時間が稼げないのは明白だった。
そして闇雲に逃げ回っていても事態が好転する可能性は限りなく少なく、それどころか、
「ぐ、がっ!」
無理やり身体を捻り、何度目かの死を擦り付けるべく薙ぎ払われた一撃をかわすが、突如、不幸に見舞われてしまう。露出した木の根に足を取られ、もんどおりを打って転倒してしまったのだ。
胸を強か打ち付け、呼吸すらままならない遊真に、無防備な背中へと降り注ぐ剛爪を防ぐ手立ては残されていない。
万事休す。絶体絶命に瀕し、遊真は死を悟った。




