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辺境観測士、鑑定AIで魔術を最適化する~今日もデータ片手に、幼馴染とまったり研究生活~  作者: hiyoko


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 溝の底の、日の当たらない側にだけ、砂がまだ夜の湿りを残していた。そこに、小さな手のひらを押しつけたような跡が並んでいる。指の先には細い爪の痕まで刻まれていて、跡と跡の間を、何かを引きずった一本の筋が途切れずに繋いでいた。

 岸の上に膝をついたミレイが、その筋の先を目で追っていく。


ミレイ「尾を引いた跡です。歩幅からして、体長は……犬くらいあります」

リオル「犬くらいの……鼠?」

ミレイ「ええ、鼠です。ほら、爪の先までこんなに残っていて、まだ乾いてもいません」


 ミレイが小屋の戸を叩いたのは、今朝の夜明けだった。昨日の夕方に南の街道の護衛から戻り、ギルドに残しておいた言付けを受付で受け取ったのだという。頼んだのは、石工たちが入る前に水路沿いから集落までを歩いて、危ないものを見ておく一日の見回りだった。ノエルが戸口で日当の袋を差し出すと、ミレイは伸ばしかけた手を、袋の手前で止めた。


ミレイ「……先払い、ですか? 普通は終わってからだと、ご自分も依頼を受けていたのですから、ご存じでしょう」

リオル「終わったら、そのまま町へ帰れるほうがいいと思って。うちまで戻ると遠回りでしょ」


 ミレイは小さく息をついたが、その口の端はほんの少しだけ持ち上がっていた。差し出された袋を手のひらでそっと押し返し、ノエルにしまうよう目で促す。


ミレイ「仕事が終わったらねぎらいにお茶の一杯でもいただけませんか? その時で良いですよ」

リオル「なるほど、雇い主としてそれくらいの甲斐性は見せないとね。ぜひごちそうさせてもらうよ」


 溝の底から目を上げたミレイが立ち上がり、四人はまた水路沿いを集落のほうへ歩きだした。跡は集落へ近づくほど数を増し、底から岸へ上がる所では、草が踏み倒されて細い道になっていた。


 水路が集落へ入っていく手前で、平地が一枚の広場のように開けている。草は膝より低く、ところどころで土が丸く剥き出しになっていた。その先、集落のいちばん外れの一軒だけが、壁ごと内へ崩れて、腰ほどの高さの石の山になっている。山の裾には黒い粒のような糞が散らばり、石の間に挟まった古い梁の端は、白い木肌が出るまで齧り取られていた。風が向こうから吹くたびに、湿った藁と獣の小便が混ざったような匂いが、鼻の奥を刺してくる。

 ミレイが片手を横へ出して、三人の足を止めた。


ミレイ「あの崩れた家です。糞も齧り跡も、まだ新しい。今も、中にいます」


 石の隙間で、何かが動いた。尖った鼻先が一度だけ外を覗いて、すぐに引っ込む。


アイン「隙間から見えたのは、二頭。奥は、ここからだと見えない」


 リオルは、崩れた家と水路の間を見比べた。足跡はあの石の山から溝の底へ下りて、上流へ向かっている。上流には、ゲルトが下見をした崩れが三つあった。


リオル「石工さんたちが底で石を抱えてる時に、あれが溝を通ってきたら……」

ミレイ「脚を噛まれます。底では、上流か下流へしか逃げられません」

リオル「なら、今いる分は今日のうちに片づけたい。人を入れる前に」

ミレイ「そうしましょう。ただ、今日片づけても、工事に入る朝には底をもう一度見ておいたほうがいいです」

ノエル「あの石の中へ、入りますか?」

ミレイ「やめておきましょう。中ではノエルさんの刀が振れませんし、何頭いるか分からないまま囲まれます」


 ミレイは足元の平地を見回した。それから、水路の縁から集落の壁までの、草の低い一帯を指さす。


ミレイ「戦うなら、ここです。足元に穴も転がった石もありませんし、左右とも見通せます。溝から上がってくるものも、縁を越える前に見えます」


 ミレイは溝の縁へ寄って拳ほどの石を二つ拾い、一つを手の中で軽く弾ませた。

 ノエルは刀を抜いて、リオルの前へ歩いていった。十歩ほど先で止まり、右へ半歩ずれる。振り返らずに、肩越しに声だけが届いた。


ノエル「リオくん。先頭は、わたしが受けます。待っていたら、横へ散られますから」

リオル「うん。援護はノエルの動きに合わせるよ」


 前を向いたまま、ノエルの頭が一度だけ小さく縦に揺れた。

 溝の縁まで下がったミレイが、アインを手招きした。


ミレイ「アインさんは、リオルさんの後ろにいてください。私はこの縁に立ちます。ここからなら、底も、アインさんの横も見えます」

アイン「分かった。ここから動かない」


 アインがリオルの背中の半歩後ろへ移るのを見届けて、ミレイは腕を引いた。

 放られた石は草の上を高く越えて、さっき鼻先が覗いた隙間の縁で跳ね、奥へ転がり込んだ。かつん、かつん、と石の中を音が下りていく。

 一拍おいて、甲高い鳴き声が石の中で幾重にも重なった。石と石の間を、爪の擦れる音が奥から手前へ寄ってくる。ミレイは二つ目の石を握ったまま、腕を下ろした。十歩先で、ノエルの踵が草の中からわずかに浮いた。


 最初に飛び出してきた一頭は、思っていたより低く、速かった。泥で固まった灰茶の毛が背を覆い、肩から尻まで、ほとんど地面に張りつくように平たい。体と同じほど長い尾には毛がなく、薄桃色の肌が草の上でしなった。開いた口の先には、黄ばんだ前歯が二本、鑿のように突き出している。その後ろから次々に続いて、最後の一頭が石の山を跳び越えた。


ミレイ「五頭。溝には向かっていません」


 ノエルが出た。

 先頭が跳ぶために後ろ脚を溜めた、その間合いへ自分から入っていく。刀身が下から斜めに走り、先頭の鼠は跳びかけた姿勢のまま草の上へ転がった。

 残りの群れは、ノエルへ届く前に、左右へ割れた。一頭だけが右へ。あとは左へ、互いの間を空けながら外へ大きく膨らんでいく。ノエルを避けて、その後ろへ回り込もうとする動きに見えた。

 リオルが掌の前に組んだ魔術はブルームニードル。手を離れる時はいつもの針と同じ一本で、決めた所まで飛んでから散る針に組み替わる。左へ膨らんでいく群れは、走る一頭ごとに狙いを合わせるより、その通り道のまわりへまとめて針を撒くほうが当てやすい。試射では三本だった先を、両手の指でも足りないほどに増やす。その分、一本ずつは試した時よりさらに細くなる。向きも開く場所も、撃つ前に決めておく。リオルはそれをノエルの数歩先へ置き、鼠たちが走り込んでくる草地の幅ごと、細い針で覆うことにした。

 ノエルの刀が、右の一頭へ流れた。刃先が右へ振り抜かれ、左の肘が体へ引き寄せられる。

 左脇に、一本分の隙間が空いた。


リオル「大地の欠片よ、穿て」


 詠唱は、いつもの針と変わらない。一本の針がノエルの左肘の外を抜け、その先で、灰色の線が細かな雨のように扇へ開いた。

 ざざっ、と草地が一斉に鳴る。細い針の群れが、鼠たちの足元を地面ごと叩いた。土が細かく跳ね、千切れた草の葉が舞い上がる。先を走っていた一頭は前脚をまとめてすくわれ、草を巻き込んで転がった。その外の一頭は、鼻先の地面が一面ささくれ立ったのに怯んで足を止める。いちばん外の一頭だけが、散った針の端に背の毛を裂かれながら、そのまま外へ走り抜けていった。揃って膨らんでいた群れの線が、そこで崩れた。

 リオルは、自分の口の端が上がっているのに気づいた。

 右の一頭を斬り伏せたノエルは、振り抜いた勢いのまま体を回して、左へ踏み込んだ。転がった一頭も、足を止めた一頭も、その踏み込みから逃げる間はなかった。刀身が二度、低く閃いて、鳴き声が二つ途切れる。


ミレイ「一頭、抜けます。アインさんのほうへ」


 背の毛を裂かれた一頭が、ノエルの踏み込みの外を大きく回って、こちらへ向かってくる。ミレイが溝の縁を離れて、アインの前へナイフを構えて立った。

 一頭なら、散らす必要はない。リオルは掌を、草を分けてくる灰茶の背へ向け直した。今度撃つのは、開かない、いつもの針だった。


リオル「大地の欠片よ、穿て」


 針は一本のまま飛んで、跳ぶ直前の胸へ根元近くまで沈んだ。鼠はミレイの数歩手前で一度だけ脚を掻き、横倒しになる。

 ミレイの目は、もう足元の鼠を見ていなかった。


ミレイ「崩れた壁の奥から、まだ出ます。三頭」


 ノエルは、すでに崩れた家のほうへ間を詰めていた。その進路が、わずかに右へ寄る。石の山の裾から新しい鼻先が三つ覗き、互いを押しのけるようにして外へ這い出してくる。

 リオルはもう一度ブルームニードルを組んだ。開く場所だけを、ノエルの左の先にある壁の裾の出口へ移す。


リオル「大地の欠片よ、穿て」


 ノエルの左を抜けた針が、石の山の手前で散った。細い針が出口の周りの石ごと叩き、白い粉と小石の欠片が煙のように跳ね上がる。這い出したばかりの三頭は、その粉の中で鳴きながら足を縺れさせた。

 そこへ、ノエルの刀が届いた。三つの鳴き声は、ほとんど続けざまに途切れた。


 最後の鳴き声が消えると、ミレイはアインの前を離れ、溝の底を覗いてから草の上へ出てきた。倒れた鼠の数を確かめて、石の山の手前で足を止める。ノエルは刀を構えたまま、リオルと石の山の間へ位置を移していた。

 ミレイが、握ったままだった二つ目の石を最初と同じ隙間へ放り込む。奥で石の転がる音がしばらく続き、その後には、爪の音も鳴き声も返ってこなかった。


ミレイ「もう出てきませんね。奥まで空かどうかは分かりませんが、ひとまずは大丈夫でしょう」

リオル「崩れた石をどけるのは、やめておこう。あの梁、端が白くなるまで齧られてるし、上の石はほとんどあれに乗ってるように見える。下手に触りたくない」

ミレイ「同感です。……残っていたら、そのうち自分から出てきます」


 ミレイはナイフを鞘へ収めた。それを見て、ノエルもようやく刀を下ろし、刃の血を布で拭いながら、細い針の突き立った草地と倒れた鼠の間を抜けて戻ってくる。


ノエル「第二波の鼠は、わたしが着く前にもう三頭とも足が止まっていましたね」

リオル「これだけ散らすと、一撃で仕留めるのは難しいんだ。でも、ノエルが斬り込むまでの隙なら、それで十分かなって」

ノエル「当たらなくても、止まっていれば斬れます」

ミレイ「今日の見回りは、ここまでにしましょう。底は、工事に入る朝にもう一度見ます」

リオル「その朝の分も、改めて頼むよ。……それで、約束のお茶は、うちで淹れたのでいいかな」

ミレイ「ええ。そのつもりで、お願いしましたから」

ノエル「では、戻ったらすぐにお湯を沸かしますね」


 小屋へ帰り着いたのは、日が西の稜線へ傾きかけた頃だった。低くなった光が戸口から斜めに差し込み、卓の上に窓枠の影を長く伸ばしている。ノエルが竈に火を入れると、薪の爆ぜる音に少し遅れて、鍋の底で湯の鳴る音が混じりはじめた。ミレイは戸口に近い椅子に腰を下ろし、ナイフの鞘にこびりついた乾いた泥を、指の腹で落としていた。アインはその隣で、ミレイの指先から剥がれていく泥の欠片を目で追っている。

 湯気の立つ杯が四つ卓に並ぶと、ノエルは今朝の袋を、ミレイの杯の横へ置いた。

 ミレイは杯を両手で包んで、湯気の向こうで一口含んだ。それから袋を引き寄せて口を開け、中を確かめてから、帳面の受け取りの欄に名前を書いた。


ミレイ「確かに、受け取りました」

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