057
溝の底で、ひょろりと背の高い男が腰を折っていた。片手にゲルトの見積もりを広げ、もう片方の人差し指で、底に転がった縁石に白墨で付けた丸を押さえている。旅用の外套は裾が乾いた泥で固まり、腰に下げた分厚い帳面は紐で幾重にも巻かれて、頁の間から紙片の端がのぞいていた。薄く曇った空は影を落とさず、溝の壁も底の砂も、同じ白っぽい灰色に均されている。
査察官「割れてるのは、この一つ。ここも見積もりと合ってますな」
爪で紙の端に小さく傷をつけてから、査察官は次の崩れのほうへ顎を向けた。
水路の修復費を行政塔へ願い出た件で、査察の者が行く――使いがそう告げていったのが四日前。当の査察官は今朝、まだ暗いうちにファルドを発ち、朝の半ばに小屋の戸を叩いた。ノエルが湯を沸かしかけたところへ「現場はどっちです」と聞かれ、鍋を竈から下ろして、そのまま四人でここまで歩いてきた。道標の分かれ目からここまで、査察官は足も口も一度も休めなかった。
査察官「行きだけで、朝の半分が消えましたよ。ゲルトの『往復で半日』ってのは、嘘じゃありませんな。荷車はあの分かれ目までで、そこから先は背負ってこの坂か。運び賃が別に立ててあるわけだ」
三つ目の崩れまで見終えると、査察官は見積もりを畳み、岸を振り仰いだ。ゲルトが上り下りに使った、石組みが段になって残っている所だった。そこへ足を掛けかけて、片膝を手で押さえる。
査察官「若い頃はこんな溝、手も使わずに上がったもんですがね。……どうも」
リオルが差し出した手を素直に借りて、査察官は岸へ上がった。外套の泥を払いもせず、そのまま帳面の紐を解きはじめる。
査察官「石のほうは、ゲルトの書いたとおりですな。あの男の見積もりは、値切る所がない」
査察官は炭筆の先で、岸から集落のほうをぐるりと指した。屋根のない家々の低い石壁が、曇り空の下で同じような高さに並んでいる。
査察官「ここを直して、水が水受けまで来たとする。で、そのあと、ここで何を始めるんです?」
リオル「町から職人さんに通ってもらって、ここを少しずつ直していきたいんです。今のままだと、作業に使う水まで小屋から担いでくることになる。最初に、ここで水を汲めるようにしたくて」
査察官「通いの職人ね。町じゃ、ロウディアは何を蒔いても育たない土地で通ってる。人を通わせて直したとして、その先に何があるんです?見込みも書かずに銀貨百、とは、私は報告に書けませんよ」
返事を待つあいだ、査察官は炭筆を指に挟んだまま、帳面の白い頁を一枚めくって指で押さえていた。
ノエルが肩の革袋を下ろして、栓を抜いた。
ノエル「よろしければ、どうぞ。小屋から運んできた水です」
査察官「や、こりゃありがたい」
袋を傾けて喉を鳴らすと、査察官は口を手の甲で拭い、手の中の袋を軽く揺すった。
査察官「工事のあいだも、飲む分はこうして運ぶんで?」
ノエル「はい。井戸の水は、飲めるかどうかまだ分からないので」
リオルは鞄の口に手を入れた。指先が、布でくるんだ硬いものに触れる。今朝、戸棚の上の段から下ろして鞄へ入れてきた小瓶だった。
布を解くと、硝子の内で豆が小さく鳴った。
リオル「穫れたものなら、少しだけあります。この前、領地で初めて穫れた緑豆です」
査察官の眉が上がった。差し出された小瓶を受け取り、曇り空にかざして、底から肩までを眺め回す。瓶の八分目まで詰まった豆は粒が揃い、乾いて薄く褐色を帯びていた。査察官が軽く振ると、硬い音がする。リオルの隣で、アインの顔がその音のほうへ動いた。
査察官「どれだけ穫れたんです?」
リオル「莢で籠一つ。剥いたら、椀に山盛りで三杯でした。これはそのうちの一杯で、次に蒔く分です」
査察官「三杯」
小瓶を目の高さに上げたまま、査察官は言われた数を口の中で繰り返した。それから栓を抜いて一粒つまみ出し、掌の上で転がす。
査察官「中まで詰まってるか見たいんでね。一粒、割らせてもらっても?」
リオルが答えるより先に、低いところから声がした。
アイン「それは、蒔く分」
査察官の指が、一粒をつまんだまま止まった。目だけが下へ動いて、三つ編みを左右に垂らした子を見つける。灰色の瞳は瞬きもせず、指につままれた一粒を見ていた。
査察官「……こりゃ、失礼。お嬢さんの畑の豆でしたか」
アイン「三人の畑」
リオル「アインです。うちで預かってる子で」
査察官は一粒を瓶の口へ戻し、栓をきっちり押し込んだ。小瓶をリオルの手へ返しながら、ついでのように尋ねる。
査察官「念のため、その畑を見せてもらえますか?豆だけなら、ファルドの市でも買えるんでね」
リオル「はい。小屋へ戻る途中に寄れます」
査察官「なら、寄っていきましょう。日のあるうちに街道へ出られれば構いません」
緑豆の区画は、観測施設のある丘をひとつ越えた向こう側にある。
収穫を終えた株は、抜かずにそのまま残してあった。下葉から黄ばんで縮れ、莢をもいだ後の細い柄が、茎の節ごとに短く突き出している。摘み残した遅い莢が二つ三つ、褐色に乾いたまま風に揺れていた。株の根元の土は湿り気を含んで黒ずみ、区画の縁から外へ目を移すと、斜面の土は白茶けた痩せた色に変わる。踵で踏めば、乾いた皮のような表面がぱりりと割れた。
査察官は区画の縁に立ったまま、株の列から外の斜面へ、またその逆へと、ゆっくり首を巡らせた。それからしゃがみ込んで、まず区画の内の土をひと掴みすくった。指を開いても、土はゆるく固まったまま掌に残っている。その土を払い、今度は縁の外へ手を伸ばすと、白茶けた土は指の間からさらさらとこぼれ落ちていった。
査察官「なんで、ここだけなんです?」
リオルは、丘の稜線へ目をやった。
リオル「ここの土がどうしてこんなに痩せたのか、丘の向こうで調べてるんです。そこで分かったことを試せたのが、まだこの区画だけで」
査察官「水路の先の、あの家の辺りは?」
リオル「まだ手を付けていません。水路を直しても、あそこがすぐ畑になるわけじゃない。穫れたのもこの一回だけで、次も同じだけ穫れるかは、蒔いてみないと」
査察官は土を払い落とした手で炭筆を取り、帳面に何かを書きつけると、鼻から短く息を抜いて頁をめくった。挟んであったゲルトの見積もりを抜き出し、膝の上で広げる。
水路の崩れが三箇所と、水受けの角。ゲルトの見込みで二十日ほどの仕事で、家の項目はその紙のどこにもない。
査察官「すぐ畑にならない所に、家だけ建てても仕方ない。見積もりに家が一軒も入ってないのは、そういうわけですか」
リオル「はい。しばらくは、町から通って作業ができれば十分です」
そこから先の問いは、段取りのことばかりだった。荷運びは町で二人か三人、飲み水はその人たちに朝いちばんの荷として担いでもらう。見張りはリオルとノエルで立ち、工事の日が決まったら、ミレイに水路の見回りを改めて頼む。査察官が見積もりの余白を炭筆の尻で突くたび、リオルは短く答え、ノエルが水袋の数と置き場所を言い添えた。
査察官「見積もりに水増しはなし、実ったのもこの目で見ました。願い出に偽りはない、と代官には上げときます。決めるのは向こうですがね」
リオル「はい」
査察官「出るとしても、お金をそちらへ渡すわけじゃありません。職人への払いは、塔から直接やります。そちらは作業の日付を帳面につけておいてください。払いと突き合わせて合わなかったら、今度は帳簿を見に、私がまたあの坂を上ってきますよ」
帳面を閉じて紐を巻きつけながら、査察官は区画の内側へもう一度だけ目をやった。抜き残した株の間で、摘み残しの莢が乾いた音を立てた。
査察官「それと、次に穫れたら、量を知らせてください。椀で何杯、で構いませんよ。一回きりの実りかどうか、こっちも知っておきたいんでね」
返事を聞く前に、査察官はもう斜面を下り始めていた。小屋の前でノエルの汲んだ水を一杯だけ飲み、来た道を戻っていく。外套の裾が丘の向こうへ消えるまで、腰の帳面から紙片がはみ出して揺れていた。
行政塔の使いが小屋へ来たのは、それから数日後の昼だった。願い出の件で窓口へ、とだけ言い置いて、使いの若者は来た道をすぐに引き返していった。
翌朝、三人で塔の窓口に立つと、袖を紐で括った例の書記が、帳簿の下から封をした書面を一枚抜き出した。
書記「代官の認可です」
封を切ると、短い文面が並んでいた。旧集落の水路三箇所と水受けに限り、見積もりを上限として認める。払い方と精算の条件は、豆の区画で査察官が言ったとおりの順に書かれている。末尾にはリオルの知らない署名があり、その下に塔の印章が押してあった。
リオルは文面を二度読んだ。上限の額は、ゲルトの見積もりの合計そのままだった。
書記「職人への払いは、こちらから直接いたします。控えに、領主の署名を」
差し出された控えの欄に、リオルは名前を書いた。書記はその控えを帳簿の頁の間へ挟み込み、認可の書面のほうをリオルの手元へ戻した。
書記「それと、査察の者から言付けを預かっています」
書記は帳簿の端に挟んだ小さな紙片へ目を落とした。
書記「『蒔く分の豆を割らせろなんて、無理を言ってすまなかった。お嬢さんにそう伝えてくれ』だそうです」
アイン「次は、食べていい分も持っていく」
書記は何の話か分からないという顔で瞬きをして、それから紙片を帳簿の間へ戻した。
認可の書面は紙一枚きりだった。指で挟むと、割った封蝋の縁がまだ硬く引っかかった。塔の階段を下りながら、リオルはそれを折らずに両手で持ち、胸の前から離さない。
ノエル「鞄に入れておきましょうか?」
リオル「ううん、いい。今日は僕が持っていたいんだ」
塔を出たその足で、三人は職人街へ向かった。
路地へ一歩入ると、鑿を打つ音が、あちこちの軒先から重なって聞こえてくる。どの石屋の前も地面は細かな石の粉で白く、三人の靴の跡がくっきりと残った。積み上げた切り石の間には、削りかけの窓枠や、文字を彫りかけた墓石が立てかけてある。ゲルトの仕事場は路地のいちばん奥で、壁の代わりに古い石を積み上げた小さな庭だった。その真ん中で、ゲルトは膝ほどの高さの石に鑿を当て、こちらへ背を向けていた。
振り向きもせず、声だけが鑿の音の合間に飛んできた。
ゲルト「金の話は、ついたのか?」
リオル「はい。代官の認可が下りました。見積もりの額が上限です」
リオルが書面を差し出すと、ゲルトは鑿を石の上に置き、粉だらけの手を前掛けで拭ってから受け取った。太い指が、文面を上から順に辿っていく。
ゲルト「上限付きか。越えた分は、あんたの持ち出しだな」
リオル「越えそうなときは、先に一声かけてもらえますか?相談して決めたいので」
ゲルト「払いは?」
リオル「塔から直接、ゲルトさんへ払われます。それで、今日は正式にお願いしに来ました」
ゲルトは書面を畳んで、リオルの手へ返した。
ゲルト「相方に話をつけてくる。手の空く日が分かったら、言付ける」
リオル「日が決まったら、ミレイさんに水路の見回りを頼んでおきます」
ゲルト「荷運びは?」
リオル「ギルドで探します。水を担いでもらうのも、同じ人たちに」
ゲルト「ならいい」
ゲルトは立ち上がり、庭の隅の石壁へ歩いていった。壁に打った木の釘に、梃子と、布で巻いた鑿の束が掛かっている。下見の日に背負ってきた道具だった。ゲルトはそれを一つずつ外し、戸口の脇の台へ並べていく。
ゲルト「持っていくもんは、先に揃えとく」
道具を並べ終えると、ゲルトは削りかけの石の前へ戻り、また鑿を当てた。




