053
卓の上に紙を広げ、リオルはミレイの地図から道筋と修復箇所を写していた。七日間の踏査は昨日で終わり、描いた本人は今日から二日、ギルドで受けた別の依頼に出ている。明後日の井戸の調査だけは、一日分の仕事として改めて頼んであった。石工に見せるなら、街道から道標の分かれ目、集落へ入る道、水受けと井戸、水路の崩れた三箇所が写っていれば足りる。道の脇には、雨の後は地面が緩む、とだけ書き添えた。
リオルは水路の崩れを順に見た。ミレイの話では、縁の石が底へ落ちて流れを塞いでいる。落ちた石をそのまま積み直せるのか、割れていて新しい石が要るのか。どこから手を付けるのか。水受けの角の緩んだ石は、はめ直すだけで済むのか。紙の上でいくら眺めても答えは出てこない。石を積んだことが、リオルにはなかった。
リオル「ノエル。直すのは水受けと、水路の三箇所になりそうかな。ただ、落ちた石がそのまま使えるのか、どこから始めるのかも分からないし、工数だって見当もつかない。先に、石を積める人に現地を見てもらう」
ノエル「石工さんを町から呼ぶんですね」
リオル「そういうこと」
ノエルは戸棚から帳面を出して、卓の向かいで開いた。指で二つの数字を押さえ、残る額を確かめる。
ノエル「明後日の井戸の件でミレイさんへ払う一日分と、次に町で買う分。それを除けた残りが、いまの蓄えです」
リオル「下見くらいなら、今日の毛皮が売れれば頼めると思う。でも工事は一人じゃ済まないよね。それが何日も。道具と作業員、それから見張りも要る。手元にある分を全部使えば一度は動かせても、その後の暮らしや、次に直す分がなくなる」
ノエル「一箇所を直して、そこで止まってしまっては困りますね」
ノエルは残った数字の下へ指を置き、しばらく黙っていた。
ノエル「……行政塔に、相談はできないんでしょうか。領地の水路を直す費用なら、話を聞いてもらえる先があるのではと思って」
リオルは、写した紙の水路を目で辿った。動くとすれば公金だ。出るとしても、何に使うかは縛られる。時間もかかる。
リオル「領主が直すものです、で終わるかもしれない。でも、どこがどう崩れていて、いくら要るかまで揃えて持っていけば、話は聞いてもらえると思う。困ってますって言うだけじゃ、向こうも判断のしようがないから」
ノエル「では、先に石工さんですね」
リオル「うん。今日は毛皮を売るついでに、石工さんの相場と、下見に来てもらえるかを聞く。その足で行政塔に寄って、何を揃えれば話を聞いてもらえるかも聞いてくる。お金が出るかどうかは、その先だ」
ノエルは帳面を閉じて、鞄へ入れた。それから戸口をくぐって小屋の外へ出ると、軒下に干した毛皮を四枚、留め紐から外していく。毛を内側へ巻いて縄でくくると、乾いた縁が手の中で小さく軋んだ。
街道の半分を過ぎた頃から、風は向かい風に変わった。城壁より先に、北の丘の上の塔が見えてくる。四角い石の塔で窓は少なく、屋根の下に鐘が一つ吊られている。門をくぐる時はいつも横目に見るだけだった建物が、今日は三人の行き先だった。市場では風で日除けの布が畳まれ、露店の品は箱の蓋を閉じられたまま並んでいる。ノエルはパン屋の前で一度足を緩め、板に書かれた値を読んでから、また歩幅を戻した。
ガンザック商会の荷受けの口は、表の店とは反対側の路地にあった。開いた扉の奥で麻袋の山が天井近くまで積まれ、壁際には魔石を入れる小箱が段になって並んでいる。土間の真ん中に据えられた大きな秤の皿が、風の入るたびに低く軋んだ。乾いた麻と革の脂と魔石の粉の匂いが混ざって、扉から離れるほど濃くなる。奥の帳場から、算盤の玉を弾く音だけが途切れずに聞こえていた。
店員は毛皮を一枚ずつ広げ、毛の根元へ指を入れてから、縁の反りを親指で押した。
店員「縁が反っていますが、毛は抜けていません。四枚で、銀貨十二枚になります」
リオル「はい、それで」
銀貨が十二枚、秤の皿の脇へ積まれる。並の宿なら十二泊。三人が町で食べ物を買って暮らすなら、十日ほどの額だ。革袋の口を締めてから、リオルは店員へ向き直った。
リオル「あの、つかぬことを聞きますけど。石を積める職人さんを雇う時の日当って、この町だといくらくらいですか? それと、遠い現場まで来てくれる石工さんに、心当たりはありませんか」
店員「石工ですか。……職人街との取引は、頭が直に見ておりますので。少々お待ちを」
店員は奥へ引っ込んだ。算盤の音が止み、代わりに重い足音が近づいてくる。麻袋の間の通路から出てきたのは、灰色まじりの髪を撫でつけた、見覚えのある背の低い体つきだった。
バルム「リオル卿。石工と、遠い現場の話だと聞いたよ。詳しく話を聞かせてもらえるかね」
リオル「お忙しいのに、すみません。毛皮は本当に売りに来ただけなんですけど……その、ついでに聞きたいことがあって」
バルム「もちろん大歓迎だ。フィルウルフの毛皮が四枚、あの土地で狩れたのかね?」
リオル「水路の脇の割れ岩で、四体。水路が獣の道になっていました」
バルム「……獣の道か」
バルムは麻袋の一つに片肘を載せ、リオルの鞄へ目を向けた。写した紙を出すと、懐から金縁の丸眼鏡が出てきて、鼻の上へ載る。
バルム「ほう。……直したいのは、この三箇所と、この水受けか?」
リオル「はい。水受けの砂を出すのと、水路の崩れを積み直すのと。壁と屋根は、後です」
バルム「崩れた石は、底に落ちているだけか。割れて使い物にならないのか?」
リオル「落ちているだけだと聞いています。僕はまだ底へ下りていないので、割れているかは分かりません」
バルム「そこは大きいぞ。割れていれば、石を切り出して運び直すことになる。石を運ぶなら荷車だ。……あの道は、荷車が入るか?」
リオル「街道から道標の分かれ目までは、たぶん。その先は草に埋もれていて、荷車が通れる幅かは確かめていません」
バルムは道標から集落までを指で辿り、それから水路へ目を戻した。
バルム「荷車が入らないなら、道具も石も担ぐ人手が別に要る。運び賃は先に見ておくことだ。石積みのできる者なら、職人街に幾人かいるよ。町なかの仕事で、日に銀貨三枚。遠い現場は、往復の分を乗せてくる。底が獣の道なら見張りも要るだろうが、それは石工の勘定じゃない」
銀貨三枚。今日の十二枚で下見は頼める。けれど工事に入れば、二人分の日当だけで一日六枚。そこへ担ぎ手と見張りの賃金、往復の費用も加わる。ノエルが鞄から帳面を出して、三枚、と書き付けるのが横目に見えた。
バルム「職人を呼ぶなら、飲み水も要るよ」
リオル「井戸はありますが、飲めるかはまだ確かめていません。泊まる場所もないので通いで来てもらって、水を運ぶ分も見積もりに入れてもらいます」
バルム「通いで日に何刻働けるかは、ここで数えても出ない。道の具合と往復の時間は、職人本人に歩かせて確かめさせることだ」
バルムは眼鏡を外さなかった。紙の上の水路の曲がりを、指の背で軽く叩く。
バルム「一人紹介しよう。現場を見て、見積もりを出せる石工だ。ただし下見も一日の仕事だから、日当と往復の分は払ってもらう。額と日取りを先に聞いて、それで良ければ正式に頼むといい」
リオル「見に来てもらえるなら、それが一番助かります」
バルム「石が割れているかどうかで、資材の値が丸ごと変わる。新しい石や荷運びが要るなら、うちで手配できる。下見の結果は、私にも聞かせてくれ」
リオル「はい。分かり次第、お伝えします」
バルムはそこで眼鏡を外し、懐へ戻した。麻袋から肘を上げると、帳場の方へ半歩だけ体を向ける。
バルム「石工には今日中に話しておく。下見に来られる日と、その日の料金は、こちらから言付ける」
リオル「ありがとうございます」
バルムは短く笑って、算盤の音の方へ戻っていった。店員が扉の脇で一礼する。路地へ出ると、風はまだ向かいから吹いていて、北の丘の塔が路地の切れ目に立っていた。
行政塔への坂は、市場の石畳より段が高く、上るほど町の音が下へ沈んだ。塔の手前に長屋のような兵舎が横に伸び、開いた戸口から革具の油と鉄の匂いが流れてくる。立て掛けられた槍の柄が風に鳴り、番の兵は三人を一瞥して、戸口の内へ顎を振った。塔の中は石の廊下で、外の風がどこかの窓で細く鳴り続けている。廊下の突き当たりの広間には腰ほどの高さの窓口が三つ並び、その奥で袖を紐で括った書記が帳簿へ何かを書き込んでいた。待つ者は、誰もいない。
リオルは真ん中の窓口の前に立ち、帳簿の頁がめくられるのを待った。アインは窓口の板に顎が届かず、脇へ回って、書記の羽根ペンの先を見上げている。
リオル「ロウディアの領主、リオル・アルトレインです。領内の水路を直すのに、町から石工を雇いたいんです。下見は自分たちで頼みます。その見積もりをもとに、本工事の費用について支援を申請できますか」
書記「ロウディアの。……復旧、ですか?」
書記の手が、帳簿を閉じる途中で止まった。物差しを頁へ挟み、顔を上げる。
書記「領地の内の工事は、領主の裁量です。費用の支援となると、願い出は出せますが、決めるのは代官です」
リオル「出すには、何が要りますか」
書記「場所と範囲の分かる図。職人の名と印の入った見積もりで、日当と資材と運び賃は分けて書いたもの。それに領主の署名です。揃えば審査に回ります。書面だけでは決めませんので、査察の者を現地へ出します。……そこまでの道は、安全に行けますか?」
リオル「道は、調べてあります。危ない所も、図に書いてあります」
鞄から写した紙を出して、窓口の板へ置く。書記は紙を自分の方へ回さず、そのままの向きで目を走らせた。道標から集落までの道、水路の曲がり、崩れた箇所。
書記「これは、誰が?」
リオル「ミレイという斥候に、七日間の踏査として頼みました。ギルドの請負で、控えもギルドにあります」
書記「……ギルドの請負で」
書記は道標から集落までの線を、もう一度目で辿った。
書記「工事の間、現場の安全は?」
リオル「水路の底は獣の通り道です。作業の間は、見張りが要ります。何人で、いくらかかるかは、石工さんの下見と現場の様子を見てから、願い出に分けて書きます」
書記「決まっていないことは、決まっていないと書いてください。それから、支払いのたびに受け取りを残すこと。査察の者は、そこも見ます」
リオル「はい。受け取りは、帳面と一緒に残します」
書記「それがいいでしょう。……見積もりを出す職人は、決まっていますか?」
リオル「ガンザック商会の紹介で、石工の方に現地を見てもらう話をしてきました。額と日取りは、これから聞きます」
羽根ペンが紙の上で止まり、それから短く走った。書記は自分の帳簿の隅へ、何かを書き付ける。ロウディア、水路。それだけの文字に見えた。
書記「……壁は、まだ残っていましたか? あの集落の」
リオル「屋根はありません。低い石壁が、何枚か残っています」
書記「……そうですか」
書記は頷いて、それ以上は聞かなかった。物差しを挟んだ帳簿を手元へ戻し、次の頁を開く。
塔を出ると、風は坂の上の方が強かった。兵舎の槍の柄がまだ鳴っている。リオルは写した紙を鞄へ戻し、紐を締めた。
ノエル「あの書記の方、集落をご存じでしたね」
リオル「うん。壁のこと、聞かれると思ってなかった」
坂の下で、市場の日除けが一枚、風に負けて音を立てた。リオルは、まだ会っていない石工のことを考えていた。見積もりを出しに来る人だ。それでも、水路の底へ下りる前に、道標の先を歩き、残った壁を目にする。
書面が通れば、次は査察の人が同じ道を歩くのだろう。
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