051
踏査で最初に見つけたのは、丘の向こうの湧水だった。
ミレイはそこまで、アインを連れて歩いた。道中で何度か後ろを振り返り、アインの足の運びを見たきり、何も言わなかった。湧水は岩の根元から音もなく染み出して、崩れかけた石の桝に溜まっている。リオルの《鑑定》は、飲める水だが量は少ない、と返した。
その日から、ノエルが用意する昼食が一人分増えることとなった。ミレイは包みを受け取ると桝の縁に腰を下ろし、開く前に一度だけ下流へ耳を向ける。歩く日なので塩を強めにしてあります、とノエルが言い添えると、ミレイは短く頷いて、干し肉から先に口へ運んだ。帰り道、ミレイは前を向いたまま、明日は水路の見える所までご一緒に、とアインへ告げた。
湧水の先で見つけた古い水路は、灰色の平地へ向けて下る、腰ほどの深さの石組みだった。脇に古い道の分かれ目があり、文字の擦れた道標が一本、傾いて立っている。石組みを下流へ辿ると、尾根の裾で縦に割れた大きな岩に行き当たり、その日はそこで引き返した。
毎夕、小屋の壁の地図には線が継ぎ足される。線の止まる先へ日付と小さな丸が書かれてから、灰茶のコートは暮れかけた街道へ消えていく。割れ岩だけは、丸ではなく二重丸で描かれた。
割れ岩が地図へ加わった翌朝、ミレイはアインに、今日は割れ岩の先の曲がりまでご一緒に、と言った。
薄曇りの日は、どこにも影を作らなかった。石組みの継ぎ目には白っぽい地衣が張りつき、割れ目から立った枯れ草が、風の通るたびに乾いた音で鳴る。平地の灰色と石の灰色は、目を凝らさないと境が見分けにくい。
右手には水路が、その向こうに平地がどこまでも開け、左手には低い尾根が水路に沿って走っている。ミレイは底には下りず、岸の上を歩いた。四人は縦に並び、その二番目にアインがいる。
継ぎ目のたびに、岸の石は少しずつ浮いていた。ミレイが渡った石を、アインが同じように踏む。編み上げ靴の下で砂が鳴った。前を行く灰茶のコートの裾からは、同じ石の上でも、その音が一度も上がっていない。
アイン「ミレイは、どうして足音がしないの?」
ミレイ「砂の乗っていない所を選んでいます。踵からではなく、指の付け根から下ろして、乗せてから重さを移します」
アイン「じゃあ、見て覚える」
アインは前を向いたまま、ミレイの踵が落ちる位置を目で追い始めた。次の継ぎ目でも、砂は鳴った。その次も鳴った。ミレイは振り返らなかった。ただ、それからは踏む石を選ぶ間が、心なしか長くなった。
三番目のリオルは、二人の会話より、足元の石組みのほうへ気を取られている。歩きながら《鑑定》を向けると、石は上面をわずかに内側へ傾けて据えてあった。流れが縁を削らないための工夫だろう。何百年も前にここを掘った誰かは、水がどう暴れるかを知っていた。
傾きの角度を近くで確かめたくなって、リオルは岸の縁へ足を寄せた。
ミレイ「底には下りないでください」
リオル「石を見るだけです。すぐ上がります」
ミレイ「底に入ると、縁より低いものが見えなくなります。獣は低く寄ってきますから、顔が縁に出た時には、跳ばれる距離です」
リオルは足を戻した。溝の縁で、枯れ草がまた鳴った。
最後尾のノエルは、時おり後ろを振り返るほかは、黙って歩幅を合わせている。
継ぎ目をもうひとつ渡ったところで、ミレイの足が止まった。上げかけた踵が宙に残り、頭がわずかに下流へ傾く。リオルの耳には、風と枯れ草の音しか入ってこなかった。
ミレイ「足音です。下流から、複数。割れ岩へ。ノエルさんは最後に」
アインが岸を蹴った。編み上げ靴の底が石の上で短く鳴り、二本のおさげが跳ねる。リオルもその背中を追って走り出した。
振り向くと、ミレイはまだ元の場所に立っていた。一拍。それから、足音のない早足が追いついてくる。最後尾のノエルは、柄に手をかけたまま、後ろ向きに下がっていた。
走るリオルの耳にも、ようやく届いた。乾いた底を叩く爪の音が、ひとつではない。重なって、間を詰めてくる。
割れ岩は、近くで見ると人の背丈の二倍ほどあった。真ん中を縦に走る裂け目は大人ひとりが横向きで入れる幅で、奥へ行くほど狭まっている。いちばん奥は拳ふたつ分ほどの穴になって岩の裏へ抜け、その向こうに裏の斜面の根元が小さく覗いていた。
岩の右半分は腰の高さで段になっていて、そこへ乗れば、すぐ下を通る水路の底まで見下ろせる。背後には草の生えない斜面が急に立ち上がり、獣が駆け下りられる角度ではない。ただ、岩と斜面の根元の間には人ひとり分の通り道が裏へ回り込んでいて、左は尾根の裾へ、右は水路の縁へ抜けていた。
岩肌は薄曇りの下でも乾いてざらつき、手をかけると細かな砂が指の間へ落ちる。正面だけが、下流の灰色へ向かって開けていた。
ミレイ「ノエルさんは正面をお願いします。リオルさんは段の上へ、水路を見ていてください。アインさんは裂け目の奥に。私は左右を見ます」
言い終わるより先に、アインが裂け目へ身体を横にして滑り込んだ。リオルは段へ這い上がる。ノエルは岩の正面へ二歩出て刀を抜き、抜き放ったあとの刀身が一度だけ細くしなった。最後にミレイが裂け目の口へ立ち、腰のナイフを抜いて、半身を左の通り道へ向ける。
段の上からは、水路の底が一本の溝になって下流へ伸びている。その溝の中を、白いものが四つ、低く流れてきた。フィルウルフの毛並みは以前見た時と同じで、この乾いた土地では雪のように目立つ。先頭の一体は肩が高く、尾を下げたまま速度を落とさない。残りの三体はその後ろで間隔を開け、まだ一列の形を保っている。
風が変わり、獣の匂いが岩まで届いた。岩まで三十メートルほどのところで、列が割れる。三体が縁へ跳び上がり、そのうち一体は左へ、尾根の裾を回り込んでいく。正面に残ったのは二体。もう一体は溝の中に残ったまま、白い背中が石組みの陰へ沈んだ。
ミレイ「一体は底のままです。一体は左から、岩の裏へ回ります。正面は二体、先頭が大きい。止まったら、跳びます」
ノエル「はい」
リオルは掌を前へ出した。
リオル「炎よ、姿を現せ」
掌の内で火が結ばれる。こめかみの奥に、圧縮の度合いと先端の歪みが数字で並び始めた。中心を熱く。球面を均す。火は矢の形へ締まっていく。
正面の大きい一体が、切っ先のぎりぎり届かない距離で足を止めた。腰が沈む。跳ぶ前の姿勢だった。
ノエルは、その沈む間を待たなかった。半歩、前へ出る。それだけで間合いは埋まり、刀は下から上へ抜けていた。
白い喉の下を刃が通り、獣の跳躍は始まる前に終わる。刀身は止まらず、そのまま身体の向きを変える動きへ流れていった。
二体目が、その流れの外側から跳んだ。ノエルの右、刀の届く手前の一瞬。
矢は、その一瞬より先に放たれていた。岩の段の上から、真っすぐに。火は空中の白い胴を捉え、勢いごと地面へ叩き落とす。
落ちた獣は一度だけ土を掻き、動かなくなった。焦げた毛の匂いが、風に乗って岩へ戻ってくる。
残りは二体。正面には、もういない。
左へ回った一体は、岩の裏にいる。段の上のリオルから見えるのは岩の左の角までと、その手前に立つノエルの背中だった。獣がいるのは角の向こう、ノエルの背中側になる。
見えるとすれば、奥の穴に目を当てているアインだけだ。ただ、その穴は岩の裏へしか開いていない。獣は見えても、正面のノエルがどこに立っているかは、アインには分からない。
リオルは掌を下ろし、問いの形を組む。対象はアイン。照会は、岩の左手へ回った一体の位置と動き。
《鑑定応答》
・対象:アイン
・照会:岩の左手へ回った一体
・位置:岩の裏、斜面の根元。奥の穴から尾根側へ四歩
・動き:伏せて止まっている。前脚に力が入り始めた
・情報源:アインの観測
穴から尾根側へ四歩なら、岩の左の角のすぐ裏だ。リオルはその一点を、段の下に見えるノエルの背中へ重ねる。正面に立つノエルから見れば、左後ろへ、およそ六歩。
《追加入力》
・伝達依頼:ノエルの左後ろ六歩、伏せている。次に跳ぶ
・宛先:ノエル
裂け目の中から、抑揚のない声が上がった。
アイン「ノエル。左後ろ、六歩。伏せてる。次に跳ぶ」
《実行結果》
・伝達依頼:完了。アインからノエルへ口頭
ノエルは振り向かなかった。刀を持つ手だけが身体の左側へ回り、踵が半歩、岩のほうへ寄る。
白い影が岩の裏から跳んだ。その先には、もう刃があった。空中で身体をひねった獣の首を、しなった刀身が斜めに抜けていく。落ちた音は、ひとつだけだった。
ミレイ「四体目は水路の底です。岩の右下、石組みの陰にいます」
リオルは掌を右下へ向けた。
リオル「炎よ、姿を現せ」
火が結ばれ、数字が並ぶ。段の下の溝に、白い背中が戻ってきていた。両側の石組みの間を低く、こちらへ向かって進んでくる。溝の中では、横へ逃げる場所がない。
継ぎ目の陰から、獣が顔を上げた。
矢は、溝に沿って走った。曲がる必要のない一直線で、白い胸へ届く。獣は石組みの壁へ肩を打ちつけ、底で一度だけ跳ねて、それきり動かなかった。
風の音が戻ってきた。
ミレイはすぐには動かなかった。ナイフを下げたまま、頭をまた傾ける。枯れ草の音。石の上を流れる風。数えるほどの間を置いて、ようやく肩の力が抜けた。
ミレイ「五体目の足音はありません。終わりです」
ノエルが刀を拭った。腰から出した布は、台所の布巾と同じ畳み方をしてある。刃を収めてから、真っ先に岩の段を見上げ、それから裂け目のほうへ声をかけた。
ノエル「アインちゃん、出てきて大丈夫ですよ」
裂け目から、二本のおさげが先に出てきた。アインは岩の裏の斜面を一度見上げ、それから倒れた四体の白を順に目で数える。数え終えると、ノエルの顔を見た。
アイン「ノエル。わたしの声、届いてた?」
ノエル「ええ、はっきりと。歩数も、ぴったりでした」
アイン「届くように、言った。……リオルの火も、届いてた。最初の《火弾》、記録の中でいちばん曲がらなかった」
リオル「そう? ……段の上だと、足元が揺れなかったからかな」
ノエルが革袋の水を、リオル、アイン、ミレイの順に回した。ミレイは受け取る前に、もう一度だけ下流へ耳を向けてから、口をつけた。
水路の縁で、ミレイは腰の記録板を外した。炭筆を紐から抜き、板と一緒に、アインのほうへ差し出す。
ミレイ「アインさん。板と炭をお願いします。四体がどこから来たか、足跡を見て描いてください。私は少し先を見てきます」
アイン「分かった。足跡は、四つとも見る」
ミレイは頷きもせず、岸を下流へ歩き出した。足音は、やはりしない。
アインは板を抱えて、まず正面の二体の倒れた場所へ、次に岩の裏へ、最後に水路の縁へと回った。しゃがむたびにおさげが土へ触れそうになり、それを片手で押さえながら、灰色の瞳が地面を辿る。
リオルとノエルは、その間に毛皮を剥ぐ支度をした。四枚は重いが、置いていく理由もない。
アイン「四つとも、底を歩いてきてる。岩の手前で三つが縁に上がって、そこで分かれた。一つは、底のまま」
リオル「じゃあ、四体とも底が道だったんだ。……獣の道になってるなら、崩れてない所が、あの先まで続いてるのかもしれない」
ノエル「集落の跡は、水路の先でしたよね」
リオル「うん。湧水から集落へ、水を引いた跡だと思う。底を辿れば、道も一緒に見つかるかもしれない」
アインは答えず、板の上へ炭を置いた。割れ岩の二重丸から水路の線を下流へ伸ばし、その線から、短い筋を三本、岩の手前で枝分かれさせる。線の止まった先に、今日の日付。その隣に、小さな丸をひとつ。
ほどなく、下流からミレイが戻ってきた。板を覗き込み、線の先の日付で、目が一度止まる。何も直さなかった。
ミレイ「底の石組みは、次の曲がりまで崩れていません。そこまで、線を足してください」
アイン「うん」
炭が、丸のさらに先へ短く伸びた。ミレイは板を受け取らなかった。
ミレイ「板は、夕方の報告まで持っていてください。今日の報告は、アインさんの線から始めます」
アイン「分かった。落とさない」
ミレイ「今日は、ここまでにします。荷が増えましたので」
ノエルが岩の段に布を広げ、人数分の包みを並べた。ミレイは下流へ顔を向けたまま、手探りでいちばん近い包みを取って開いた。
帰り道は、ミレイが先に立った。来た時と同じ岸の上を、同じ歩幅で行く。ノエルの背には毛皮の包みが二つ、リオルの背にも二つ。アインは板を胸の前で抱え、炭が擦れないよう、線のある面を内側へ向けていた。
丘をひとつ越える手前で、ミレイが振り向かずに言った。
ミレイ「明日は、夜明け前に出ます。この丸の先を、残りの日でできるだけ伸ばしておきたいので」
リオル「分かりました。竈の火は、もっと早く入れておきます」
アイン「わたしは、板を持って待つ」
ミレイの返事はなかった。ただ、アインが岸の石を跨ぐ間、前を行く足が止まって待った。
契約の残りは、三日だった。
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