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緑豆の初収穫から、三日が経った。卓の上では依頼の文が二度書き直され、今朝ようやく折り畳まれた。水のある場所、昔の集落の跡、通れる道と、近寄らないほうがいい場所。調べてほしいことを紙に並べてみると、場所の名前も目印も書けない行ばかりが残った。自分たちがどれだけ畑と装置のまわりしか歩いていなかったか、埋まらない空白でよく分かった。
リオル「行こうか。昼までに着けば、今日のうちに話せると思うんだ」
ノエル「受けていただけるとよいのですけどね。ミレイさんも、お仕事の途中かもしれませんし」
リオル「そこは分からないかな。ただ、頼むならミレイさんだと思う。報告の正確さは折り紙付きだし、前にご一緒した狩りでも、道の選び方が確かだったから」
ノエル「ええ。あの方の報告書は、半年経ったいまも何度も読み返していますものね」
アイン「わたしは、今日が初対面。挨拶は、決めてある」
リオル「そうなの?」
アイン「名前を言って、頭を下げる。アデリナの時と、同じ形」
ノエル「ふふ。きっと、それで十分ですよ」
鞄には依頼文と、紐で括った半年前の報告書の束。戸締まりを確かめて、三人は街道へ出た。
昼前のファルドの門は、荷車の列で詰まっていた。車輪と石畳の間で砂が鳴り、日除けの下から呼び込みの声が重なって届く。アインはもう、音のひとつひとつへ顔を向けなかった。ノエルの袖も摘ままず、二本のおさげを揺らして、人の流れの切れ目を選んで歩いていく。二度目の町は、初めての町より近い場所にあるらしかった。
冒険者ギルドの中は、夜に来た半年前とは別の建物のようだった。高窓から差す昼の光が床板の傷を白く浮かせ、掲示板のまわりにだけ人が固まっている。奥の酒場からは煮込みの匂いが流れ、皿の音と笑い声が半々に混ざっていた。昼の依頼はあらかた出払ったあとらしく、受付の前は空いている。帳場では羽根ペンの走る音が、喧騒の下で乾いた拍子を刻んでいた。
短い髪の受付嬢は、リオルの顔を見ると帳面をめくる手を止めた。
受付嬢「ロウディアの。お久しぶりですね。今日はご依頼ですか」
リオル「はい。指名の依頼って、できますか。ミレイ・カルナさんに」
受付嬢「ミレイさんですか。指名でしたら、まずお受けになると思いますよ。実入りの確かなお仕事を選んで受ける方ですから。ちょうど今日は、納品の報告で昼の鐘の頃にいらっしゃるはずですが……お待ちになりますか」
リオル「じゃあ、待たせてもらおうかな」
空いた卓をひとつ借りて、三人は鐘を待った。ノエルが水を三つもらってくる間、アインは椅子から掲示板を遠目に眺め、貼り紙の数を数えていた。討伐、護衛、採集。読み上げる声は小さく、数える指だけが順に折られていく。
昼の鐘が鳴り終わらないうちに、扉が開いた。
灰茶のロングコート。左右に低く結った黒髪が、外の光を背に青みを帯びる。ミレイは半年前と同じ姿で、同じように、足音を立てずに入ってきた。それだけで、手前の卓の話し声が一段低くなる。視線が幾つか扉へ向き、すぐ手元の皿へ戻った。若い冒険者がひとり、挨拶でもするように腰を浮かせかけ、向かいの男に袖を引かれて座り直す。袖を引いた男は笑いながらも、腰紐に下げた小さな護符を親指で二度撫でた。
冒険者「……昼から縁起でもないな」
別の冒険者「命拾いの達人だからな。拾うのは自分の命だけだが」
続きは奥の酒場で重なった皿の音に紛れて、どの卓のものかも分からなくなった。ノエルの指が卓の上で一度止まり、そのまま静かに水の杯へ戻る。アインが、リオルの袖の近くで声を低くした。
アイン「あの人の通る道だけ、空いてる」
リオル「……そうだね」
それ以上は、誰も続けなかった。ミレイはまっすぐ受付へ進み、布に包んだ何かと記録板を渡す。二言三言のやり取りの後、受付嬢がこちらの卓を手のひらで示した。振り向いたミレイの目が、リオル、ノエルと移って、最後に銀髪のおさげで止まる。歩み寄る間も、やはり足音はしなかった。
ミレイ「お久しぶりです。ご指名と伺いました」
リオル「急にすみません。座ってもらえますか。仕事の話なんです」
ミレイが腰を下ろすより先に、アインが椅子から立った。決めてきた通りの形で、頭を下げる。
アイン「アイン。ロウディアで、二人に預かられてる。観測の手伝いをしてる」
ミレイ「ミレイ・カルナです。よろしくお願いします」
記憶にあるままの、抑えた声だった。ミレイは向かいに掛け、卓の上の紙束へ一度だけ目を走らせてから、リオルを見る。
リオル「読んでもらうより、先に話すほうが早いと思うので。――ロウディアで、水のある場所と、昔の集落の跡と、通れる道を調べてほしいんです。歩いて回って、地図と報告にしてもらう仕事です」
ミレイ「まず、どこまで調べればよいでしょうか」
リオル「僕たちの小屋を起点に、歩いて回れるところから。近寄らないほうがいい場所も、分かる範囲で印を付けてもらえたら」
ミレイ「期間は、どのくらいをお考えですか」
リオル「七日間で。範囲は前の採集より広いし、歩いていない場所の危険も分からないから、報酬はその分を上乗せした条件で考えています。詳しくは書式の時に、受付を通して」
ミレイ「報告は、以前と同じく毎日でよろしいでしょうか」
リオル「日の暮れまでに小屋へ寄ってもらえると助かるかな。遠出する日は、前の日に言っておいてもらえれば」
ミレイ「魔物について、いま分かっていることはありますか」
リオル「僕たちが歩いた範囲だと、フィルウルフを何度か見かけた程度です。ただ、歩いていない場所のほうが広いから、そこは正直、分からないと思う」
ミレイはひとつ答えを聞くたびに頷いた。最後に、紐で括られた束の上で視線を止める。
ミレイ「……それは」
リオル「ミレイさんの報告書です。半年前の。今度の依頼を考えるのに、読み返していたんです」
瞬きが、一度だけ遅れた。束の端にはめくった癖がつき、括り紐は少し毛羽立っている。
ミレイ「……まだ、使ってくださっていたんですね」
ノエル「ええ。変化を確かめるたびに、何度も読み返していますよ」
ミレイ「……それで、あの緑豆は、どうなりましたか。私が運んでいた、あの区画の」
尋ねる声は期限や報酬の問いと同じ調子で、ただ順番だけが、仕事の条件より後ろへ回されていた。
リオル「三日前に、初めて収穫できました。空の莢がほとんどない、いい豆でした」
ミレイ「……あの土地で、ですか」
リオル「はい。まだ一度きりだから、大きなことは言えないんですけど。最初の変化に気づけたのは、ミレイさんの十日分の記録が揃っていたからだと思います」
ミレイ「記録がお役に立てたのでしたら、幸いです」
ミレイは紙束をもう一度見たあと、杯の水を一口含んだ。卓へ戻してから、あらためて背筋を伸ばす。
ミレイ「同行する日について、ひとつ確認してもよろしいでしょうか。現地で通る道は、私が決める形で構いませんか」
リオル「はい。僕たちは依頼人としてついていくので、安全と、通る経路の判断は、全部ミレイさんに任せたいんです」
ミレイは一拍だけ黙り、それから頷いた。
ミレイ「分かりました。その条件でお受けします」
ミレイ「アインさんも、七日間ずっと同行なさいますか」
リオル「毎日ではありません。小屋の周りと、近い範囲なら、一緒に歩く日もあると思います」
アイン「わたしは、どこまで歩いていい?」
ミレイ「一度、一緒に歩いてみましょう。それから決めます」
アイン「分かった。いつも通りに、歩く」
ミレイの目元が、わずかに緩んだように見えた。すぐにいつもの観察の目へ戻り、話は手続きへ移る。受付嬢が呼ばれ、指名依頼の書式が卓へ広げられた。範囲、期限、報酬、同行の日の扱い、報告の形。リオルが書き入れるそばからミレイが読み、受付嬢が判を押していく。滞りは、どこにもなかった。
受付嬢「では、これで成立です。ミレイさん、開始はいつに」
ミレイ「明日の朝から始めます。初日は、まず水場の当たりを付けます。……場所は分かります。採集で通っていた、あの区画の近くでしょう」
リオル「はい、あの区画から丘をひとつ挟んだ先です。夜明けには竈に火を入れているので、いつ来てもらっても」
ミレイ「では、夜明けに伺います」
立ち上がったミレイは、受付嬢と三人へ順に一礼した。それから、卓の紙束へもう一度だけ目をやる。
ミレイ「報告書の書式は、前と同じで構いませんか」
リオル「はい。あれが一番読みやすいので」
ミレイ「では、同じ紙を用意しておきます」
言い終えると、ミレイは午後の光の中へ出ていった。人の間を縫うコートの背はすぐに見えなくなり、最後まで、足音は聞こえないままだった。手前の卓の話し声が、元の高さへ戻っていく。
帰り支度をしながら、アインが戸口のほうを見たまま言った。
アイン「ミレイ、豆のことを覚えてた」
リオル「……そうだね。十日も、毎日運んでくれた豆だからね」
ノエル「では、帰りましょうか。今夜のうちに、報告を受ける卓を片付けてしまいましょう。地図を張る板も要りますね」
アイン「壁の、窓の横が空いてる」
リオル「じゃあ、そこを地図の場所にしよう」
門を出ると、街道の先に、灰色の領地の方角が霞んでいた。まだ誰の足でも測られていない水場と、名前しか残っていない集落の跡が、あの霞の下のどこかにある。リオルは鞄の中の、判の乾ききらない依頼書を確かめて、歩幅を伸ばした。
翌朝は、約束の通りに始まった。竈の火が落ち着いた頃、戸を叩く音より先に、窓の外に灰茶のコートが立っていた。挨拶は短く、ミレイはまず畑のほうへ足を向けた。緑豆の区画の前で立ち止まり、莢を一つ、指の背で持ち上げる。
ミレイ「……色が、戻っていますね。運んでいた頃の株より、葉の艶がいい」
リオル「はい。三日前の収穫の分は、もう籠の中です」
ミレイ「はい、確認できました。では、地図から始めます」
言葉の通り、ミレイはそれ以上畑に留まらなかった。小屋に入ると、窓の横の板に張られた大きな紙の前に立つ。まだ何も描かれていない、空の地図だった。
ミレイ「まず、小屋を起点にします」
炭筆が紙の中央より少し下に、小さな四角を描く。小屋。そこから畑と観測装置の位置が印になり、採集の区画へ通じる道が、迷いのない一本の線で引かれていった。ノエルが半年前の報告書を開いて日付を読み上げ、アインは線の伸びる先を、瞬きも忘れて追っている。
アイン「その先は?」
ミレイ「ここから先は、今日歩いてから書き足します」
線は丘の記号をひとつ越えたところで、ふつりと止まった。ミレイは炭筆を紙から離すと、線の止まった先の余白へ、今日の日付と小さな丸をひとつ書き入れる。
ミレイ「今日は、この先を見に行きます」
アイン「この先」
アインが同じ場所を指の先で押さえ、炭が少しだけ、指に移った。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
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