049
日暮れの緑豆区画に、乾いた小さな音が続いていた。畝の間にしゃがみ込んだアインが、褐色に変わり始めた莢をひとつ、耳の高さで振っている。夕方の風はもう涼しく、葉の青い匂いへ、干し草に似た乾いた匂いが混ざり始めていた。
アイン「音が変わった。振ると、中で豆が動く」
リオル「どれ。……ほんとだ。実が締まって、殻から離れ始めてるんだと思う」
ノエル「色も変わりましたね。端の二列は、緑より褐色のほうが多いくらいです」
アイン「乾いた音の莢と、まだ湿った音の莢がある。聞き分けられる」
リオル「じゃあ、頃合いってことだね」
アイン「明日の朝なら、莢はもっと乾く。摘むなら、朝」
リオル「うん、それでいこう」
継ぎ石を据えてから、十日あまりになる。石はその間ひびひとつ入れず、熱も持たないまま、装置から戻る還流魔力の一部を朝も夜も畑へ渡し続けた。アインは夕方の散歩のたびにこの区画へ寄り、新しい靴を慣らしながら、葉の色と莢のふくらみを見て帰った。花が落ち、細い莢が伸び、殻の内に豆の粒が透けるようになるまで、その日課は一日も欠けなかった。ノエルは籠の底を編み直して、摘む日を待っていた。長年痩せた土の上で足踏みしていた豆が、ようやく実りの手前まで来た。それが、この十日あまりの確かな変化だった。
ノエル「では明日は、収穫ですね」
リオル「うん。それと、二手に分かれようと思う。僕は壁際で、石の様子を見てくるよ。十日も働き通しだったから、一度ちゃんと見ておきたいんだ」
ノエル「でしたら、摘むのはわたしとアインちゃんで。お昼までに終わらせて、畑で三人で食べましょうか」
アイン「摘んでいい莢は、音で選ぶ。わたしが決める」
リオル「うん、頼りにしてるよ」
収穫の朝、観測施設の石壁は、まだ夜の冷たさを残していた。斜めに差す光が壁の上のほうだけを白くして、根元の草は影の中に色を沈めている。風は弱く、土の匂いばかりで、丘の向こうの畑の青い匂いはここまで届かない。継ぎ石の溝を走る淡い光は、真昼に見るより濃く、薄暗がりの中で糸の形がはっきり分かった。歩くたび、リオルの足音だけが壁に当たって薄く返ってくる。
リオルは石の前に膝をつき、順に見ていった。窪みの縁にも溝の底にも、ひびはない。手の甲を寄せても、朝の冷たさが返るだけで熱もない。指先で溝をなぞると、乾いた石肌がざらりと引っかかった。《鑑定》を短く向けると、石から畑へ渡る還流魔力の流れは、今朝も途切れず続いている。据えた朝と、何も変わらない手応えだった。膝の土を払って立ち上がり、腰の帳面を抜く。
帳面に書き付けて、顔を上げる。丘の稜線の向こうに、畑は見えない。今ごろ莢の音を選んでいるはずの、あの指先を思った。進んでいるだろうか。それとも莢が思ったより多くて、昼までに終わらないだろうか。
気づけば、その疑問は声になる前に、いつもの形へ畳まれていた。半年のあいだ、数えきれないほど繰り返した形。対象へ意識を向け、問いを立て、答えを待つ――《鑑定》の形だ。違うのは向けた先だけで、それは土でも石でもなく、丘の向こうにいるアインだった。対象はアイン。照会は、緑豆の収穫の進み具合。
問いが形に結ばれた途端、手応えが静かに立ち上がった。石に置きかけていた手が、止まる。短い間が空いた。ここからは見えない畝の間で、アインは摘む手を止めて、声でノエルへ尋ねているのだろう。やがて、見慣れた形が胸の内へ降りてきた。
《鑑定応答》
・対象:アイン
・照会:緑豆の収穫作業
・進捗:籠の三分の一
・完了見込み:昼まで
・情報源:進捗はアインの観測/完了見込みはノエルの返答
・備考:昼食同席希望
見出しの並ぶ書式そのものは、いつも通りだ。土でも石でも、《鑑定》は今もこの形で答えを返してくる。初めてなのは、対象の欄に載った名前のほうだった。離れたアインへ問いを向け、アインの観測とノエルの声の返答が、ひとつの応答に整理されて届く。リオルは一行ずつ読み直した。進捗はアインが莢の音で数えた分、完了見込みはノエルの声。畝の間で摘む手を止め、律儀に聞き取ってから組み立てたのだと分かる。
最後の一行で、目が留まった。頭の中では、摘みかけの莢を片手に握ったアインが、表情ひとつ変えずにこの一行を付け足している。(アイン)と、名前まできちんと添えて。稜線を見たまま、リオルの口元が緩んだ。
なら、こちらも返事をしないわけにはいかない。点検が済み次第そちらへ向かうと、ノエルにも伝えておきたかった。リオルはもう一度問いの形を組み、今度は依頼を載せる。
《追加入力》
・伝達依頼:石の点検後、畑へ合流。昼は三人で
・宛先:ノエル
指を折って数えるほどの間を置いて、二つ目の書式が続いた。
《実行結果》
・伝達依頼:完了(アインよりノエルへ口頭で伝達済み)
それきり、続きはない。問いを手放すと、《鑑定》はいつものように静かに終わって、あとにはただ、こめかみの奥に静けさが残った。会話と呼ぶには、あまりに素っ気ない書式だった。それでも備考のひと欄が目の裏に残っていて、帳面の隅に描き足された小さな落書きのように、何度でも浮かんでくる。
点検の続きへ戻ろうとして、リオルは帳面の同じ行を二度なぞっていることに気づいた。書き終えると、道具をまとめる手がいつもより早い。丘へ向かう足も、上りだというのに緩まなかった。
丘を越えると、風の音に乾いた殻の音が重なり始めた。緑と灰色の境の内側で、ノエルの手が莢から莢へ渡っていく。摘み取るたび、ぷつりと茎の切れる音がして、籠の底で殻同士が軽く鳴った。青い匂いの中に、干し藁に似た匂いが漂っている。日はすでに高く、屈むたびに二本のおさげが地面へ触れそうに揺れていた。
先に気づいたのはアインだった。立ち上がり、畝の間をまっすぐ駆けてくる。左手に莢がひとつ、握られている。
アイン「これ。今日いちばん大きい。リオルに渡したかった」
リオル「ありがとう。……うん、よく育ったね」
アイン「音も、いちばんいい」
アインが耳の横で莢を振ってみせると、中で豆が硬く鳴った。受け取って指の腹でなぞれば、殻の上からでも粒の並びが辿れるほど、隙間なく詰まっている。ついこの間まで灰色に乾いていた土から、この重さが穫れた。籠を抱え直したノエルが、畝の向こうから笑いかける。
ノエル「おつかれさまです。それにしても、驚きましたよ。アインちゃんったら、摘む手を急に止めて、丘のほうを向くんですもの。何かと思えば、真面目なお顔で『リオルから、照会。昼までに終わるか、教えて』ですって」
リオル「ごめんごめん、つい気になっちゃって。……残りは僕も摘むよ」
残りの畝は、三人で摘んだ。リオルが手を伸ばした莢へ、横からアインの指が先に触れる。
アイン「それは、まだ。音が濁ってる」
《鑑定》を向けかけた意識を、リオルは引っ込めた。昨日から莢を振り、朝を待っていたアインに、今日は選ぶ役を任せたのだ。
リオル「……あ。ごめん。どれならいい?」
アインは隣の莢を耳元で一度振ってから、リオルの指先へ差し出した。
アイン「これは、いい」
リオル「うん。じゃあ、これを摘もう」
ノエル「ふふ。ではリオくんは、アインちゃんが選んだ莢を摘む係ですね。そちらの列が終わりましたら、籠をお願いします」
リオル「うん、任せて」
昼を回る頃、籠はひとつ、莢で満ちた。畑の縁で軽く昼を済ませ、午後は小屋の前に筵を広げて、三人で莢を剥いた。殻を割るたび、小さな緑の豆が椀の中へ転がり落ちる。
リオル「……空の莢が、ほとんどないね。どれも、思ったより丸く詰まってる」
ノエル「ええ。荒れていた頃を思うと、同じ畑とは思えませんね」
リオル「石が渡してる還流魔力の分、かな。一度の収穫じゃ、まだ何とも言えないけど……この調子なら、ほかの場所も変えていけるのかもしれない」
アインの手元では、割り終えた殻が小さな山になっている。集まった豆は、椀に山盛りで三杯。領地と呼ばれてきた灰色の土地の、これが最初の実りだった。
アイン「剥いた殻は、どうする?」
リオル「どうだろう。土に戻すのがいいのかな」
ノエル「乾かせば、竈の焚き付けにもなりますよ」
アイン「じゃあ、半分ずつ」
ノエル「それでは、今夜の分と、しばらくの食卓の分。それから、次に蒔く分は先に取り分けましょうね」
リオル「うん。人を呼べる量には、まだ遠いけど……この土地が返してくれた、最初の食べ物だと思う」
アイン「三杯のうち、一杯は種。残りが、食べる分。……減らないうちに、早く食べたい」
日が落ちる頃、小屋の中は豆を茹でる匂いで満ちていた。鍋の湯がやわらかく鳴り、蓋の隙間から抜けた湯気が、窓の内側をうっすら曇らせている。卓には皿が三枚と、塩の壺と、昼の残りのパン。竈の前のノエルが木の匙で豆をひと粒掬い、固さを見てから鍋を下ろした。
ノエル「初採れは、アインちゃんのお皿からです。お約束でしたから」
アイン「覚えてる。畑で、ノエルが言った」
湯気の立つ豆が、アインの皿へ最初に盛られた。リオルの皿、自分の皿と続き、ノエルは三枚が揃ってから席に着く。リオルが匙を取るのを見て、それから自分の匙へ手を伸ばした。
ノエル「アインちゃん、熱いですから、少しずつですよ」
アイン「息を、吹きかける。覚えてる」
アインは豆をひと粒、匙に載せ、湯気へ短く息を吹きかけてから口へ運んだ。噛む。動きが止まる。灰色の瞳が皿の上へ落ち、それから鍋のほうへ、ゆっくり往復した。
アイン「……おいしい」
リオル「よかった」
アイン「あたたかい、とも、あまい、とも違う。うまく分けられない。……でも、この言葉がいちばん近いと思う」
リオル「僕も、いただこうかな」
ひと匙運んで、リオルの眉が上がる。
リオル「……うん、おいしい。茹でて塩を振っただけなのに、味が濃い気がする。この土で、この味が出るんだね」
ノエル「ええ、よく実りましたね。おかわりも、ありますよ」
それを聞いたアインの匙が、少し早くなる。ひと粒ずつ確かめていた運びがふた粒、三粒とまとまり、皿の上の湯気が薄れていった。皿が空くと、アインは両手で持ち上げて、まっすぐ差し出す。ノエルの匙が鍋の中で一拍止まり、それから、山になるまで掬われた。
アイン「……また食べたい。明日も」
ノエル「ふふ。では明日の朝は、豆のスープにしましょうか」
アイン「うん。朝が、楽しみ」
リオルは笑いを噛み殺しそこねて、皿へ俯いた。ノエルは何も言わず、アインの皿の隣へパンをひと切れ足す。窓の外はもう暗く、鍋の湯気だけが灯りの中で白く立ちのぼっていた。
食後の卓で、リオルは帳面を開いた。空になった皿を寄せて、日付の並んだ頁を広げる。
リオル「次の届け先のことなんだけど。畑の次は、水場か、昔の集落の跡がいいと思ってる」
ノエル「どちらも、ここからは遠いですね。道がいまどうなっているのかも、分かりませんし」
リオル「うん。装置と畑を見ながら、僕たちだけで領地中を歩き回るのは無理があるかな。水のある場所と、通れる道と、近寄らないほうがいい場所。それを広く歩いて調べてくれる人が要ると思うんだ」
リオルは席を立ち、戸棚の奥から紐で括った紙の束を出してきた。日付ごとに揃えられ、角のひとつも折れていない。卓へ置くと、ノエルが首を伸ばして、一番上の日付を覗き込んだ。
ノエル「ミレイさんの報告ですね」
リオル「うん。前の仕事も、最後まできっちりやってくれたからね。畑の外のことも、ミレイさんなら頼めると思う」
ノエル「ええ。ご一緒した時も、頼りになる方でしたから。依頼のかたちは、前と同じ期限付きがよいでしょうね。文は、今夜のうちに考えてしまいましょうか」
リオル「うん。まずは水場と道を、歩ける範囲で。近いうちにファルドへ出て、ギルドへ頼んでみよう。受けてもらえるかは、分からないけど」
アイン「ミレイ。名前は、わたしの記録にある。会うのは、初めて。……楽しみ、かもしれない」
卓の隅には、次に蒔く分の豆を移した小瓶が置かれている。アインがそれを持ち上げ、耳の横で小さく振った。乾いた豆が、硝子の内で軽く鳴る。
アイン「次の豆の音。蒔いたら、増える」
ノエル「ええ。今度は、もっとたくさんの音になるのではないでしょうか」
灰色の領地が初めて返してきた食べ物の隣で、リオルは依頼の下書きへ筆を進める。書き出しの一行は、もう決まっていた。
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