048
荷車の音を最初に拾ったのは、卓を拭いていたアインだった。布を持つ手が止まり、顔だけが戸口へ向く。灰色の土地を渡ってくる車輪は、石を噛むたびに硬く軋んだ。この土地へ、荷を運んでくる音は珍しい。
アイン「車輪の音。一台。人は一人。音が重いから、荷が積んである」
リオル「届け物かな。あの木箱、アデリナさんからかもしれない」
戸口の外で荷車が止まった。引いてきたのは日に焼けた若い配達人で、首筋に汗の筋を残したまま、学士棟からの荷物だと告げた。荷台には小さな木箱が麻縄で括られ、その上に油紙の包みが載っている。男は縄を解く手を動かしながら、小屋の向こうへ広がる灰色の土地を一度だけ長く眺めたが、何も言わなかった。
配達人「アデリナ先生からのお預かりものです。割れ物より丁寧に運べ、と」
リオル「ありがとう。ここまで運んでもらって助かったよ」
リオルが木箱を受け取る。小箱の大きさから想像したより重く、受け止めた両腕がわずかに下がった。
ノエルが椀に水を汲んで差し出す。
ノエル「井戸の水ですけれど、よく冷えていますよ」
配達人「助かります。暗くなる前に、町へ戻りますので」
リオル「道の途中、荷台の揺れは大きくなかった?」
配達人「街道はまだ平らでした。ここへ入ってからの方が、よほど気を遣いましたよ」
男は水を飲み干し、軽くなった荷車を引いて街道の方へ戻っていった。車輪の音が聞こえなくなるまで、アインは戸口で耳を澄ませていた。
アイン「行った。車輪の音、来た時より軽い」
リオル「……さて、まずは先生の書き付けを読もうか」
油紙の包みには、紐で綴じた薄い写しと、見慣れた癖のある字の書き付けが入っていた。リオルは書き付けを開き、声に出して読む。
――収蔵庫に残っていた畑用の継ぎ石は、この一石だけだった。台帳には「南の畑組、水分けに使用」とある。壊せば代わりはない。幸い、君たちの装置が返す還流魔力は少量だと聞いているから、試すにはちょうどいい。ひびが入るか、石が熱を持ったら、すぐに外すこと。置き方は昔のままでいい。窪んだ受け面を魔力の来る側へ、溝の先を送りたい方角へ。昔の石が、君たちの装置から戻る還流魔力を受け取るかどうかは、流してみるまで誰にも言えないよ。
ノエル「それにしても、早いですね。ご相談してから、まだ幾日も経っていませんのに」
リオル「畑用の記録から当たるって言ってたから、見当が早くついたんだと思う。……それでも、残っていたのは一石だけ、か」
ノエル「壊せば代わりがない、と書いてありましたね。石の熱を確かめる役は、わたしが引き受けますね」
リオル「うん、頼むよ。僕は流れの方を見ているから、石に何かあったら、すぐ知らせてほしい」
アイン「わかった。ひびの音がしたら、すぐ言う」
木箱の蓋を外すと、藁の中に灰色の石が横たわっていた。両の掌に載るほどの大きさで、角はどれも川原の石のように丸い。片面は浅い椀のように窪み、反対の縁へ抜ける一本の溝が刻まれている。溝の内側は長年撫でられたように滑らかで、細かな筋が窪みの底から溝口へ、流れの向きをなぞっていた。持ち上げると見た目より重く、日の当たらない場所にいた冷たさが、指へゆっくり移ってくる。
アイン「触ってもいい?」
リオル「いいよ。両手で、落とさないようにね」
アインは両手で石を受け取り、膝の上へ載せて、溝の内側を指の腹でゆっくりなぞった。
アイン「冷たい。溝の中、つるつるしてる。……窪みで受けて、溝で渡す。水の樋と同じ形」
リオル「うん。だから、今日確かめることは一つだけ。昔の畑で使われたこの石が、装置から土地へ戻ってくる還流魔力も受け取ってくれるかどうか。受け取ってくれたら、戻る魔力の一部を緑豆の畑へ先に回せる。豆が育てば、食べ物になる。……そこまで繋がるかは、この石次第かな」
写しの方は、昔の畑組が残した帳面だった。拙い字の行を目で拾いながら、リオルは頁を早めに繰っていく。石を置いた畑では実りが増え、そのぶん隣の畑では減った。雨の日は、畑の変化が雨によるものか、石によるものかを見分けられなかったらしい。
リオル「帳面にある通り、石を置く前と後で畑を比べればいい。今日は雨もないし、違いを見分けやすいと思う」
アイン「なら、日が高いうちに置きたい。早く行こう」
ノエル「では、支度をしてしまいますね。土を包む布と、日付を書く筆。……お昼は、畑で食べられるようにしましょうか」
緑豆の区画は、街道を外れて灰色の地面を歩いた先にある。昼前の日は高く、露はとうに引いて、乾いた土が足の下で薄く鳴った。近づくにつれ、埃っぽい空気へ青い匂いが混ざり始める。膝の高さに揃った緑豆の葉が日を受け、風が通るたびに裏の白い面をひるがえした。緑と灰色の境は相変わらずまっすぐで、その線の内と外とでは、風の音まで違って聞こえる。
道の途中、木箱を抱え直すリオルへ、アインが両手を差し出していた。
アイン「箱、わたしも持てる」
リオル「気持ちだけもらっておくよ。落としたら、代わりがないからね」
アイン「じゃあ、先を歩く。道の石をどけておく」
ノエル「リオくん、腕は平気ですか。つらくなったら、籠と紐で背負う手もありますからね」
リオル「大丈夫。あと少しだし、このまま運ぶよ」
先を行くアインが、ときどき屈んでは、拳ほどの石を道の脇へ転がしていく。
区画の前で、ノエルはシャベルの刃に結んだままの紐で深さを確かめ、区画の中の土をひと匙、白布へ載せた。同じ深さと量で、境の外からももうひと包み。
ノエル「深さも量も、前にこの区画を調べた時と同じにしてあります。雨が降っていないことも、書いておきますね」
リオル「ありがとう。じゃあ、石を置く前の状態を記録しよう。アイン、いつも通り別々に見て、後で合わせよう」
アイン「うん。リオルの答えは先に聞かない」
白布を挟んで、二人は別々に《鑑定》を向けた。リオルの内側へ、湿りを残す土と、乾いて軽い土の感触が順に返ってくる。
アイン「区画の中の土は、入ってくる魔力をゆっくり受けて、留めてる。屑魔石を撒いた後の《鑑定》の記録と、同じ状態が続いてる。境の外の土は、今も魔力を強く吸って、ほとんど残さない。苗の色も、記録の頃から崩れてない」
リオル「僕の方も同じ向きだった。これで置く前の状態は記録できた。……次は、石の番だね」
昼を少し回った頃、三人は丘を越えて観測施設の裏手へ着いた。日はほとんど真上から照りつけ、石壁の影は根元に細く残るだけで、壁面は手をかざすだけで溜めた熱が分かる。壁際のまばらな草が、風のたびに乾いた音を立てた。床際の管が壁の内で途切れていた場所は、内側で数えた歩幅のとおり、前に土を採った跡のすぐ脇にある。リオルは木箱を下ろし、まず石を置かないまま、その場所へ《鑑定》を向けた。
リオル「還流魔力の流れは前と同じだと思う。壁からこっち側へ、薄く広がってる。……うん、置こう。アイン、溝の先はどっちへ向ければいい?」
アイン「緑豆の区画は、あの丘の右の肩の向こう。ここまで歩いた道のりは全部覚えてる。溝の先は、あそこへ向ける」
ノエルが先に石へ手のひらを当て、日なたの温度だけを確かめて離した。
ノエル「今は、日に温められたぶんだけですね。これより熱くなったら、外しますからね」
リオル「うん。その時は迷わないでいこう」
リオルは両手で石を下ろした。窪んだ受け面を壁へ、溝の先を丘の肩へ。乾いた地面に石の重みが沈み、小さく揺すって据わりを決める。
しばらくは、何も起きなかった。風が草を鳴らし、三人分の影が石の上に落ちて止まっている。
ノエル「変化はありますか?」
リオル「まだない。もう少し待ってみよう」
アイン「窪みの底。今、光った」
その言葉の先で、窪みの底から溝口へ、糸のような淡い光がすっと走った。刻まれた筋を一本ずつ順にたどり、縁で途切れ、また窪みの底から走り直す。昼の光の下でも、見失わないほどはっきりと。
アイン「受けた。装置から戻ってきた還流魔力が、窪みへ入って、溝の先へ出ていってる」
リオル「……動いた。古い継ぎ石でも、今の装置が返す魔力を受けられるんだ」
声が、思ったより高く出た。リオルは石から目を離せない。
ノエル「次は、緑豆の畑まで届いているか確かめましょう」
リオル「そうだね。ここも見続けたいから、二手に分かれよう。僕は装置から戻る還流魔力の全体と、石を通らずに壁際へ広がる分を見る。アインは、ノエルと区画へ行って、あの畑へ届く魔力を見てくれる?」
アイン「うん。今日のわたしの観測と、今朝の設置前の記録と、昔の記録は、分けて伝える」
ノエルが荷を分け、水の革袋と昼の包みを籠へ移した。
リオル「壁際の流れが落ち着くまで見たら、僕も畑へ行くよ」
ノエル「では、畑で待っていますね。リオくんが来たら、三人でお昼にしましょう」
二人の足音が丘の向こうへ消えると、壁際には風と草の音だけが残った。リオルは石の脇へ腰を下ろし、《鑑定》を向け続けた。装置から土地へ戻ってくる還流魔力の総量は、石を置く前と変わらない。増えてもいないし、減ってもいない。変わったのは配り方だった。窪みへ入って溝の先へ渡っていく分が生まれ、そのぶん、石を通らずに壁際の土へ広がる魔力は細くなっている。
足元の草へ、目が落ちる。前にここの土を調べた時、入ってきた魔力を留め始めていた土だ。これからしばらく、この壁際へ届く還流魔力は減る。緑豆の畑だけでなく、減った側の変化も同じように記録しておく必要がある。
壁際へ広がる還流魔力が一定の細さで落ち着くのを見届け、リオルは丘を越えた。緑の境の手前まで来ると、敷布の上へ昼の包みを並べていたノエルが手を振り、アインが先に立ち上がる。
ノエル「おつかれさまです。ずっと日なたでしたでしょう、お顔が少し焼けていますよ」
リオル「日陰がなくてね。……それで、そっちはどうだった?」
アイン「報告する。この区画へ入ってくる魔力は、今朝、石を置く前より増えてる。向きは、施設のある丘の方角から。屑魔石を撒いた頃の記録にも、今朝の観測にも、この向きの流れはなかった。今日、新しく増えた」
リオル「こっちも言うね。装置から戻る還流魔力の総量は、変わってなかった。そのかわり、壁際へ広がる分は細くなってた。つまり、魔力を増やしたんじゃなくて、分けたんだ。昔の帳面と同じだね」
ノエルは帳面を開き、二人の言葉を左右の頁へ書き分けていく。
ノエル「では、あの石は本当に、還流魔力の届け先を選べる石だったのですね」
リオル「うん。ただ、今日分かったのはそこまでかな。この畑の豆が収穫まで育つか、石がこのまま働き続けるかは、これから何日も見ないと分からない」
アイン「葉の色は、まだ変わってない。魔力が届き始めた。それだけ」
ノエルが昼の包みを開き、持ってきたパンを三人に分けた。リオルは礼を言って頬張り、畑の緑と丘の肩とを交互に眺める。
リオル「待たせちゃったね。二人とも、お腹すいたでしょ」
ノエル「大丈夫ですよ。アインちゃんは、待っている間もずっと畑を見ていました。お水を渡しても、目は畑に向いたままで」
アイン「増えた瞬間が分かった。急に来たんじゃない。少しずつ、太くなった」
リオル「……いいなあ、それ。僕は減っていく側を見てたから、畑の方も見たかったな」
午後の日が傾き切る前に、三人はもう一度壁際へ戻った。最後に、確かめておくことが残っている。
リオル「石を外したら、還流魔力の配り方が元へ戻るかどうか。それが分かれば、今日は終わりにしよう」
ノエル「戻るのを確かめた後は、もう一度置くのですよね」
リオル「うん。元へ戻るのを確かめたら、また置くよ。今夜からは、この石にも働いてもらうんだ」
ノエルが石へ手を当てる。置く前と同じ、日なたの温もりだけで、ひび割れもない。その頷きを受けて、リオルは両手で石を持ち上げた。溝を走っていた淡い光が、窪みの底から順に細って消えていく。
アイン「溝の先へ渡っていた還流魔力が、止まった。壁際へ広がる流れは、置く前の太さへ戻ってる」
リオル「僕の《鑑定》でも同じだ。外せば、配り方は置く前へ戻る。……少なくとも今日のところは、置くのも外すのも、僕たちの手で決められるってわけだ」
ノエル「ひびも熱もありませんでしたし、石も初日としては上々ですね」
リオルはもう一度、窪みを壁へ、溝の先を丘の肩へ向けて石を据えた。今度は、据わりを確かめる手が長い。小石を三つ拾って根元へ噛ませ、揺すっても動かないのを見てから、ようやく指を離す。淡い光が、また窪みの底から走り出した。
アイン「……行った」
ノエル「ええ。あの丘の向こうへ、ですね」
淡い光が幾度も溝を走る。その先にある丘の肩を、三人はしばらく眺めていた。
帰り道は、緑豆の区画の脇を通った。午後の日はまだ高く、葉の裏の白が波のように返っている。あの葉の下の土へ、目に見えない還流魔力が、いまこの時も細く届いている。そう思うだけで、リオルの歩幅は自然と大きくなった。
リオル「灰色ばかりだったこの領地に、魔力の行き先を選べる場所が、今日、一つできたんだ。豆が採れたら、ここは食べ物のある土地になる。食べ物があれば……次は、人を呼べると思うんだ」
ノエル「人が増えたら、この畑ひとつでは足りなくなりますね」
リオル「うん。その時はまた、次の届け先をみんなで選べばいい」
アインが足を止め、緑豆の葉を一枚、裏から支えるように持ち上げた。
アイン「人が来る前に豆が採れたら、わたしも食べてみたい。この畑の豆の味は、まだ記録にない」
ノエル「ふふ。では、初採れの豆は、まずアインちゃんのお皿に載せましょうね」
まっすぐな緑と灰色の境を風が渡り、緑豆の葉先が、灰色の土へ触れそうに揺れた。
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