046
戸口に腰を下ろしたアインの足へ、ノエルが厚手の布を巻いていた。布の上から柔らかな革を重ね、細い紐で足首に結んでいく。靴と呼ぶには簡素だったが、石や小枝を踏むくらいなら防げそうだった。
ノエル「きつくありませんか?」
アイン「指は動く。痛くない。歩けると思う」
ノエル「途中で擦れるようなら、すぐ教えてくださいね」
アイン「分かった」
アインは両足を床につけ、立ち上がった。その場で二歩進み、踵を返す。灰白色の裾が足元で揺れた。
リオル「歩きにくくない?」
アイン「少し歩きにくい。でも、歩ける」
ノエル「外は小屋の中より歩きにくいです。疲れたら、私が背負いますから」
アインは扉を見た。朝の光が、板戸の隙間から細く差し込んでいる。
アイン「自分で歩きたい」
リオル「うん。じゃあ、ゆっくり行こうか」
リオルが扉を開けると、アインは眩しそうに目を細めた。片手を額にかざし、開いた戸口の前で一度立ち止まる。風に持ち上げられた銀色の髪が頬へかかっても、すぐには払わなかった。
リオル「眩しい?」
アイン「光が強い。瞳が調整してる。もう少しで慣れる」
やがて手を下ろし、右足を外へ出した。革越しに草を踏むと、足元へ目を落とす。次の一歩は、さっきより迷いがなかった。
アイン「空気が動いてる。小屋の中より冷たい。魔力も、同じ濃さじゃない」
ノエル「外では、場所によって風も日当たりも違いますからね」
アイン「それと似てる。でも、同じではない。歩くと変わる」
アインは丘へ続く道を見上げた。リオルたちにとっては何度も往復した道だった。けれど、彼女は道端の草が揺れるたびに目を向け、雲が日を隠せば足を止めかけた。遺跡までの道のりは、いつもの倍近くかかった。
丘を一つ越えたところで、ノエルが足を止めた。
ノエル「アインちゃん、右足だけ歩幅が狭くなっています。痛くありませんか? 擦れていませんか?」
アインは自分の足元を見てから、右の踵を少し浮かせた。
アイン「右だけ、紐の下の圧力が増えてる。痛くはない。でも、歩くたびに擦れてる」
ノエル「では、痛くなる前に直しましょう」
ノエルは道端の平たい石へアインを座らせ、結び目を外した。中の布が半幅ほどずれている。巻き直す間、アインはその手元をじっと見ていた。
アイン「ノエルは、わたしが言う前に分かった」
ノエル「歩き方が先ほどと変わりましたから。ですが、どんな具合かまでは、アインちゃんに教えてもらわないと分かりません」
アイン「次は、擦れた時に言う」
リオル「うん。その方が僕たちも安心できるかな」
巻き直した足で地面を二度踏み、アインは自分から歩き出した。薄い革が土を踏む音は頼りなかったが、足取りにはもう、戸口で見せたためらいがなかった。
観測施設へ入る頃には、朝の光は高い窓から真っ直ぐ差し込んでいた。積もった塵の上に三人分の影が並び、台座の間を進むにつれて短くなっていく。戸口の外で鳴いていた鳥の声は、奥へ進むうちに聞こえなくなった。広間では、壁を巡る管が淡く明滅していた。床際の一本だけが、ほかとは逆の順に光を送っている。
アイン「あれが、土地へ還っている管?」
リオル「うん。まず受け皿を見て、それからあの管を見よう。両方が安定していたら、外の土も調べたいと思う」
ノエル「はい。どこかで異常が出たら、そこで私が止めますからね」
リオル「うん、それでいこう」
三人は中央の台座へ向かった。新しく据えた受け皿には、欠けも焼けた跡も見当たらない。リオルは古い受け皿の側に手を置き、アインは新しい方へ回った。
リオル「アインは、新しい方を《鑑定》してくれる? 僕は古い方を見るから」
アイン「うん。今の距離でも接続はある。でも、リオルの《鑑定》はわたしに流れてこない」
リオル「じゃあ、同じ答えを探そうとしないで、自分が見えたものを教えてくれる?」
アイン「分かった」
二人はほとんど同時に受け皿へ意識を向けた。リオルの内側へ、流量と揺らぎが順に積み上がる。接続直後より大きく増えてはいない。だが、減ってもいなかった。器へかかる負荷も、記録した範囲に収まっている。
先に顔を上げたのはアインだった。
アイン「新しい器に変形はない。熱も、前の記録の範囲。流れは続いてる」
リオル「僕の方も同じだ。還る量は増えてないけど、落ちてもいない。古い器への負担も、接続した時より増えてないと思う」
ノエル「では、まず一つ目は大丈夫ですね」
ノエルが帳面へ書き込み、受け皿の縁に手を近づけた。触れずにしばらく待ってから、表面へ指先を当てる。
ノエル「手で触れても、前に記録した時と同じくらいの温度です。異臭もありません」
リオル「うん。次へ進んでよさそうかな」
アイン「続けられる」
床際の管へ移ると、ノエルは前回の記録を開いた。短い印が、等間隔に並んでいる。管が明るくなるたびに指で印を追い、最後まで来ると小さく頷いた。
広間の端まで進んだアインが、管の前で足を止めた。リオルの頭の奥でも、彼女へ続く感触が細くなる。それでも、途切れてはいない。
アイン「リオルとの接続は、台座の前より弱い。でも、わたしの体と魔力に異常はない。《鑑定》も使える」
リオル「無理にこっちへ近づかなくても大丈夫?」
アイン「大丈夫。結果は、声で伝えられる」
ノエル「それなら、私が二人の間に立ちます。声が聞き取りにくければ、すぐ近くへ戻ってくださいね」
ノエル「前に数えた時と、ほとんど同じ速さです」
リオル「途中で弱くなる感じもないね」
アイン「流れる向きも変わっていない。ここから壁の外へ向かってる」
リオル「外まで追えそう?」
アイン「管そのものは、壁の先では見えない。外の土を見れば、戻った魔力があるかは分かる。地下で同じ管に繋がっているかは、土だけでは決められない」
リオル「うん。それなら十分だと思う。戻ったものが外にあるかだけ見よう」
施設の外へ回ると、日を受けた石壁が白っぽく乾いていた。壁の根元には背の低い草がまばらに張りつき、その先は灰色の地面が続いている。アインは広間との明るさの差に目を細めたが、今度は手をかざさずに瞼を開いた。風が銀色の髪を持ち上げると、頬にかかった一房だけを自分で耳へ押しやる。
床際の管が壁へ消えていた場所を、内側で数えた歩幅から探す。ノエルは帳面を開き、以前この周辺の土を調べた時の頁へ細い指を置いた。
ノエル「前と比べるのでしたら、採る場所と深さは揃えたいですね」
リオル「うん。今日は広さを測るんじゃなくて、土地へ戻ったものがあるかだけ見よう」
アイン「一つでいい?」
リオル「一つでいいと思う。見つからなければ、分からなかったと記録する。見つかっても、どこまで届いたかは決めない」
アイン「何を見ればいいか、分かった」
ノエルはシャベルの刃に紐を結び、帳面に残された深さより先へ入らないよう目印を作った。壁際の土は表面こそ固かったが、その下では刃が小さく沈む。掬い上げた分を白い布へ載せ、混ざっていた細い根と小石を分けていく。
ノエル「量も、以前と同じくらいです。雨は三日ありませんでしたから、その点も書いておきますね」
リオル「ありがとう。僕とアインで、先に別々に見ようか」
アイン「うん。リオルの答えは受け取らない。自分で見る」
リオルは布の右端へ指を置き、アインは反対側へしゃがんだ。土は乾いて軽く、指先で押すと細かな粒が爪の脇へ入り込む。《鑑定》を向けると、まだ満たされていない土地が魔力を取り込もうとする強さと、その中に残っているごく細い流れが、別々の感触として返ってきた。
先に口を開きそうになったリオルへ、ノエルが掌を向けた。
ノエル「リオくんは少しだけ待ってください。アインちゃんから聞いてもよいでしょうか?」
アイン「この土は、今も魔力を強く吸ってる。でも、入ったものが全部なくなってはいない。以前この周辺で調べた記録より、土の中に残ってる量が多い」
ノエル「どちらから入っているかも分かりますか?」
アイン「施設の側から、土地へ向かう流れがある。ただ、この土だけでは、地下であの管に繋がっているかまでは決められない」
ノエルはそのまま帳面へ書き込み、今度はリオルを見た。
リオル「僕もほとんど同じかな。前みたいに、触れた魔力をすぐ全部吸い込んでしまう土じゃない。少しだけど、中に留まってる」
ノエル「天気や採り方の違いだけで、そう見えている可能性はありますか?」
リオル「それだけとは考えにくいと思う。でも、一度で原因まで決めるのは早いかな」
アイン「今の観測で言えるのは、施設から土地へ向かう流れがあることと、土に残る魔力が以前より増えたこと。届く広さと、回復にかかる時間は分からない」
アインは言い終えると、布の上の土から指を離した。灰色の瞳が帳面と土の間を一度だけ往復し、頁に記された日付の上で止まる。
リオル「うん。それなら、今日知りたかったことには答えが出たと思う。還った魔力は、器の中を巡ってるだけじゃない。土地が受け取ってる」
ノエル「ですが、領地が戻ったと呼ぶには、まだほんの一部なんですよね」
リオル「そうだね。長い間に失った量を考えると、これだけで暮らしがすぐ戻るとは言えないかな」
口にしてから、リオルは広がる灰色の地面へ目を向けた。風に押された草が壁際で揺れている。その一本一本に違いを探しても、目で分かる変化はまだない。それでも、何も届いていない土地と、わずかでも受け取り始めた土地は同じではなかった。
ノエルは採った土の半分を小さな紙包みへ移し、日付と場所を書いた。残りを穴へ戻して平らに均すと、シャベルについた土を布で拭う。
ノエル「次に調べる時は、この包みとも比べられますね」
リオル「うん。次も、今日と同じ順番で見ようか」
アイン「土を採る前に、紐を結ぶ」
ノエルは返事の代わりに、シャベルの紐を解かず、そのまま鞄の脇へ収めた。
アインは立ち上がろうとして、右足を一度浮かせた。朝に巻き直した布はずれていない。それでも、ここまで歩いた疲れは隠せないらしく、立った後もしばらく石壁へ指先を添えていた。
ノエル「アインちゃん、足はどうですか?」
アイン「擦れてはいない。脚の力が減ってる。帰りは、来た時より遅くなる」
リオル「《鑑定》の方は?」
アイン「まだ使える。でも、今日見るものはもう見た」
リオル「うん。使えることと、今使う必要があることは別かな。今日はここまでにしよう」
アイン「分かった」
ノエルが紙包みと帳面を鞄へ収める。リオルはアインの歩幅に合わせられるよう、帰り道の先へ目をやった。丘を越えるまでに休めそうな石は、来る時に一つ見つけてある。
歩き出す前、アインは乾いた壁の向こうを振り返った。管の光は外から見えない。地面にも、まだ緑は増えていない。
アイン「届いてる。でも、少ない」
リオル「うん。だから次は、この少ないものをどう使うか考えないといけないんだと思う」
ノエルが紙包みを鞄へ収めると、アインはそれを見届けてから乾いた土地へ目を戻した。片手に収まる土が教えたのは、戻る道が土地へ開いていることと、その道を通るものがまだ少ないことだけだった。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
面白い・先が気になると思っていただけたら、ブックマーク・ポイント・リアクション等応援してもらえると励みになります!
次回は8月25日(火)21:00に投稿予定です。




