045
夜明け前の研究小屋は、いつもより静かだった。竈に残った熾火が、闇の底で小さく爆ぜている。窓枠の隙間から忍び込む冷気が、床板の上を這うように広がっていた。誰かの寝息が、いつもの一つではなく二つ重なって聞こえる。リオルは薄目を開け、その数をもう一度数え直した。
戸棚の脇、木箱に毛布を重ねただけの寝床で、アインは体を丸めて眠っていた。銀色の髪が、頬にかかったまま乱れている。呼吸のたびに、毛布の縁がわずかに上下していた。リオルは体を起こしかけて、軋む椅子の音に気づき、途中で止めた。
その拍子に、腹の鳴る音が響いた。リオルのものではない。
アイン「……お腹が、鳴った」
毛布の下から、くぐもった声がする。アインはゆっくりと瞼を持ち上げ、自分の腹のあたりに手を当てた。
アイン「体の熱と魔力が、少し減ってる。補う必要がある」
リオル「お腹が鳴ったなら、たぶん空腹だよ。痛くはない?」
リオルは椅子を鳴らさないよう立ち上がり、アインの傍にしゃがんだ。灰色の瞳が、寝起きでまだ焦点を探すように揺れている。
アイン「痛くない。内側が、空いている感じ」
リオル「うん。それが空腹の感じだよ」
アイン「これが、空腹」
リオル「何か食べれば落ち着くはず。起きられそう?」
アイン「起きられる」
台所の方から、木の椀を重ねる音が聞こえた。ノエルはとうに起きていたらしく、竈に薪をくべ直しながら、こちらへ視線を寄越す。
ノエル「おはようございます。お腹の音、聞こえましたよ」
アイン「……聞こえた?」
ノエル「はい、しっかりと。育ち盛りの合図みたいなものですから、心配いりません」
ノエルはそう言うと、鍋に水を張り、竈の火にかけた。手つきに迷いがない。まるで、朝食の支度が一人分増えることなど、ずっと前から決まっていたかのようだった。
リオル「アイン、食べられそう?」
アイン「喉も胃も問題ない。食べられると思う。試したい」
ノエル「では、まずは軽いものから始めましょうか?」
リオル「……そうだね。アイン、何かあったら、すぐ言ってね」
アイン「分かった」
その答えに、リオルは肩の力が抜けるのを感じた。
外はまだ薄闇に沈んでいた。リオルは水甕を抱えて戸口を出る。丘の稜線が、群青と灰色の境目でわずかに滲んでいた。遠くの林で、鳥が一羽、二羽と鳴き交わしている。井戸の水面に、まだ星の名残がひとつ、揺れて映っていた。
小屋に戻ると、竈の火に照らされたアインが、木箱の上で椀を両手に包んでいた。
ノエル「熱いかもしれませんから、端から少しずつどうぞ」
アイン「熱い?」
ノエル「はい。息を吹きかけると、少し冷めますよ」
アインは椀に息を吹きかけ、まねるようにノエルの口元を見つめた。それから匙を口に運ぶ。粥が舌に触れた瞬間、灰色の瞳がわずかに見開かれた。
アイン「……温かい。それと、甘い」
リオル「熱かった?」
アイン「ううん。ちょうどいい」
リオル「蜂蜜、入れたんだ?」
ノエル「はい。初めてですから、少しだけ甘くしてみました」
アインは椀の中身をじっと覗き込み、また匙を運んだ。二口目、三口目と続けるうちに、口の端についた粥の粒を、指先でぬぐって舐め取る。行儀とは呼べない仕草だったが、ノエルは咎めず、布巾を差し出しただけだった。
リオル「どう? もっと欲しい?」
アイン「もう少し、ほしい」
リオル「うん。もう少しよそってもらおうか」
その様子を見ながら、リオルの中に、うまく言葉にならない感触が広がっていた。目の前で、声だけだったアインが匙を運び、味を試し、また運ぶ。その繰り返しをノエルと並んで見守っていることが、まだ少し信じられなかった。
ノエル「リオくん、楽しそうですね」
リオル「……そうかな。自分では、よく分からないけど」
ノエルは答える代わりに、柔らかく目を細めた。
言われて、リオルは自分の頬に軽く手をやった。特に熱くも赤くもない。ただ、いつもより口元が緩んでいる気はした。
粥の椀が空になった頃、アインの瞼が、ふとまた重たげに落ちかけた。匙を持つ手が、椀の縁に軽くぶつかって止まる。
アイン「……眠い」
リオル「もう眠い?」
ノエル「初めてのことばかりでしたから、疲れたのかもしれませんね」
リオルはアインの隣にしゃがみ、その手を取った。その時、こめかみの奥に、細い道筋が一瞬だけ形を結ぶような感覚があった。痛みも熱もない。嫌な感じはしなかった。
試しにその道筋へ意識を向けると、魔術を使う時とよく似た手応えが返ってきた。体内の魔力が、繋いだ手へ向かって集まりかける。まだ流れ出してはいない。リオルはそこで意識を離した。
リオル「……今、手を繋いだところに、道みたいな感覚が開いた」
アイン「わたしにも分かる。リオルから、わたしへ向かう接続」
リオル「そのまま道筋に意識を預けようとしたら、魔術を使う時と同じ手応えがした。たぶん、魔力を渡せる」
アイン「まだ、何も流れていない。熱は食べる前より戻ってる。魔力も足りてる。今は補わなくていい」
二人は顔を見合わせた。どちらの目にも、答えの代わりに戸惑いだけが浮かんでいた。
ノエル「勝手に吸い取られたわけではないんですね?」
リオル「うん。経路が開きかけただけみたいだ。眠気と関係があるかも、まだ分からない」
アインは手を握られたまま、こくりと船を漕ぎ始めていた。ノエルが素早く木箱の位置を整え、毛布を掛け直す。眠りに落ちる直前、アインの唇が小さく動いた。
アイン「リオルの手、温かい」
ノエル「しばらく、このまま寝かせておきましょうか?」
リオル「うん……そうだね」
それだけ言うと、寝息が規則正しくなった。リオルは握っていた手を、名残惜しく開く。指先に残っていた冷たさは、いつのまにか消えていた。
ノエルはしばらくその寝顔を見つめ、それから窓の外へ目を向けた。丘へ続く道は、朝になれば人が通ることもある。
ノエル「今のうちに、決めておきたいことがあります」
リオル「アインのこと?」
ノエル「はい。誰かが訪ねてきたとき、どうお話しするかです」
リオル「……まだ決めてない。当面は、預かってる子供ってことにしておく、くらいしか」
ノエル「では、ひとまずそうしましょう。詳しい話は、必要になってから二人で合わせればいいと思います」
昼が近くなる頃、アインは自分から目を覚ました。今度は腹の音も鳴らず、瞼を開けるなり、椀を持つ真似をして周りを見回している。
アイン「また、お腹が空いた」
ノエル「今度は、パンにしましょうか。硬さを見ながら」
リオル「うん、それがいいと思う」
昼の食事を終えると、アインは自分の両手を交互に見比べ、それから机の上に置かれた記録紙の束へ視線を移した。
アイン「これは、リオルの仕事?」
リオル「うん。観測の記録。……アインも、見てみる?」
アイン「見る」
差し出された紙を、アインは指先でなぞった。文字を読んでいるのか、感触を確かめているのか、その境目が曖昧なほど、動きはゆっくりだった。
アイン「これは、覚えている」
リオル「え……全部?」
アイン「全部。《鑑定》で聞いた答え」
ノエル「それは……すごいことですね」
リオルは記録紙をめくる手を止めた。今の一言が、ただの記憶なのか、それとも別の何かなのか、確かめずにいられなかった。
リオル「じゃあ試しに聞いてもいい? 半年前、井戸水を調べた時、底の方から汲んだ瓶に何が混じってた?」
アインは目を閉じ、それから短く答えた。
アイン「鉄分。飲用に問題のない量。上の方から汲んだ二本にはなかった」
リオル「……合ってる。水も瓶も、もう残ってないのに」
ノエルが帳面を抱えたまま、二人のやり取りに耳を傾けていた。
ノエル「アインちゃんが覚えているなら、記録紙を探す手間が、ずいぶん省けそうですね」
リオル「うん……でも」
リオルは記録紙を束ね直しながら、言葉を選んだ。
リオル「覚えてるなら、記録を比べることもできるのかな。試してみようか?」
問いかけを聞いていたノエルが戸棚を開け、よく似た布包みを二つ持ってきた。ほどいた中には、同じ色と形の乾燥薬草が入っている。
ノエル「どちらも同じ日に干したものです。こちらは竈に近い棚、こちらは外壁側の棚に置いていました。乾き方に違いはありますか?」
アインは二つの包みに片手ずつ触れ、目を閉じた。
アイン「外壁側の方は、水分が多い。葉の内側に変色が始まってる。でも、薬効成分はまだ変わっていない」
リオル「僕の《鑑定》も同じだ。薬効はまだ落ちてない」
ノエル「見た目は同じでも、中では差が出ているんですね」
アイン「分かる。前に調べた薬草の記録とも比べられる」
アインは外壁側に置かれていた包みへ、もう一度指を添えた。
アイン「同じ棚で、雨の翌日に水分が増えた記録が二件ある。湿った原因までは決められない。でも、これは先に使って、残りは棚の内側へ移した方がいい」
ノエル「置き場所まで伝えたから、前の記録と繋がったんですね」
アイン「うん。ノエルの知っていることを、今の《鑑定》と記録に繋げた」
ノエルは外壁側の包みに小さな木札を結び、もう一方を戸棚の奥へ戻した。
リオル「僕たちが持ってる情報も、アインに渡せば一緒に調べられるんだ」
アイン「うん。でも、観測にも記録にも、二人の話にもないことは分からない」
ノエル「それなら、これから一緒に見ていけますね」
アイン「分かることを、増やしたい」
リオル「うん。三人で増やしていこう」
アインはノエルの方へ小さく頷いた。灰色の瞳は、次に見るものを待つように机の上を移った。
午後の光が、窓越しに机の端まで届く頃、リオルは記録紙の隅に走り書きした数字を指でなぞった。先日の本番接続以来、見に行けないままになっている数字だった。
リオル「そういえば……あの管、まだ見に行けてない」
ノエル「床際で逆向きに脈打っていた、あの管のことですか?」
リオル「うん。安定して還り続けてるのか、範囲が変わってるのか。どっちも、まだ分からないままだった」
ノエルは帳面を開き、日付を確かめた。
ノエル「アインちゃんのことで、少し後回しになっていましたね」
リオル「うん。でも、どっちも大事だから」
アインが、二人の話に顔を上げた。
アイン「その管、わたしも見たい」
リオル「……見に行くの、まだ早いかな。外に出るのも初めてだし」
ノエル「近くまでご一緒するくらいなら、大丈夫だと思いますよ。私たちがついていますから」
アインは記録紙から指を離し、リオルの顔をじっと見た。答えを急かすでもなく、ただ待っている目だった。
リオル「……分かった。まずは安定してるかどうか、確かめよう。範囲の方は、その次でいいと思う」
ノエル「順番、決まりましたね」
リオル「うん。明日、三人で見に行こう」
アイン「三人で」
言ってしまってから、リオルは自分の口にした「三人で」という言葉に、少しだけ驚いた。これまでずっと、二人と数えるのが当たり前だった場所に、もう一人が自然に加わっている。
窓の外では、傾き始めた光が、丘の稜線をゆっくりと橙に染めていた。アインは記録紙を胸元に抱えたまま、まだ知らない明日の匂いを探すように、鼻先を小さく動かしている。誰も答えを持たない問いが、また一つ、静かに積み上がった。だがその重さは、これまでとは少しだけ違って感じられた。
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次回は8月22日(金)21:00に投稿予定です。




