044
紙をめくる、乾いた音が続いていた。窓の外では、丘を渡る風が板戸をかすかに鳴らしている。椅子の脚が軋む音が、その合間に一度だけ混じった。
研究小屋の机には、この数か月分の観測記録が高く積み上げられている。紙の束は日を追うごとに厚みを増し、今ではリオルの肘を置く場所さえ狭くしていた。その山の一番下、最初期の記録紙まで指を伸ばし、表面のざらつきを確かめながら一枚ずつめくっていく。角が丸くなり、インクの色も少し褪せている。同じ問いに、同じ答えが返っていた頃の記録だった。今となっては素っ気なく見えるくらい、短い数字の並びが行儀よく続いているだけの紙だった。
ノエル「そんな古いものまで引っ張り出して、どうしたんですか?」
ノエルは針を持つ手を止めないまま、繕いかけの上着の袖口に視線を落として尋ねた。
リオル「んー……なんとなく。最近、答えが来るまでの間が、前より少し長くなってる気がしてて。だったら一番最初の頃と比べたらどうなるかなって」
ノエル「比べてみて、何か分かりましたか?」
リオル「うーん、あんまり。ただ……こんなに素っ気ない答えだったんだな、って。今のとは、ずいぶん違う」
リオルは記録紙を束ね直し、机の端へ寄せた。窓の外はもう傾きかけた光で、埃の粒が斜めに差し込む筋の中を、ゆっくりと漂っている。乾いた紙とインクの匂いに、薬草を煮出したあとの、かすかに苦い香りが混じっていた。
こめかみの奥に、鈍い熱がある。ここ数日、ずっと続いている感触だった。朝に薄れ、夕方にまた戻ってくる。その繰り返しにも、いつのまにか慣れてしまっていた。慣れてしまえば気にならない程度の熱――そのはずだったが、今日は少し違う。熱の芯が、いつもよりわずかに深いところにある気がした。頭の表面ではなく、もっと奥、言葉にしづらい場所で何かが小さく息づいているような、そんな感触だった。
ノエル「……また、痛みますか?」
ノエルが顔を上げる。針を持つ手が止まっていた。
リオル「うん、少し。でも、いつもと同じくらいかな」
ノエル「無理はしないでくださいね。今日はもう、その辺りで切り上げても」
リオル「……もう少しだけ」
リオルは記録紙の一番古い一枚を、もう一度手に取った。指先が紙の端をなぞる。答えが単純だった頃、こめかみが熱を持つことなど一度もなかった。それが今は、当たり前になっている。ふいに、視界の端が揺れた。文字ではない。光でもない。輪郭を持たない何かが、紙束の向こう側でたゆたっている――そんな感触だった。
リオル「……あれ」
ノエル「どうかしましたか?」
リオルは記録紙を置き、目を細めた。答えを求めたわけではなかった。それでも、頭の奥で何かが、静かに動き出す気配があった。
ノエルは繕いかけの上着を置き、腰を浮かせかけた。
ノエル「様子が、いつもと違います。今日はここまでにして――」
リオル「……ノエル、待って」
リオルは片手を軽く上げ、ノエルを制した。いつもなら、自分から声をかけるより先に、確かめる。今日はその手順を、自分から外していた。
リオル「止めなくて、いい。たぶん、大丈夫だから」
ノエル「たぶん、では――」
リオル「……離れなくて、いいよ。傍にいて」
ノエルは腰を浮かせたまま、それでも動かずにいた。持ち上げかけた上着を、そっと膝の上に戻す。指先だけが、まだ落ち着かない様子で、針の先を何度も握り直していた。
頭の奥の熱が、脈打つように強くなっていく。ずいぶん前――遺跡の地下で、ゴーレムの残骸を前に膝をついていたときと、よく似た感触だった。あの時も呼吸が荒く、両手がかすかに震えていて、頭の内側にはずっと鈍い痛みがあった。その痛みの奥に、何か別のものがいる気配があった。今こうして机の前に座っているだけなのに、あの時と同じ体温の下がり方、同じ耳鳴りに似た静けさが、指の先まで広がっていく。名前を、思い出したわけではなかった。考えるより先に、言葉が口をついて出ていた。
リオル「……アイン」
言ってしまってから、リオルは自分の声に驚いた。
室内が、しんと静まり返る。板戸を鳴らしていたはずの風の音さえ、今は聞こえなかった。机の上の紙束も、ノエルの手にした針も、その場に置かれたまま動かない。時間だけが、薄い膜を一枚隔てた向こう側で流れているように見えた。
頭の中に、いつもの四文字が浮かぶ。
《鑑定応答》
だが、続くはずの箇条書きは、今日は現れなかった。ラベルもなく、注釈もなく、ただ二文字だけが、頭の中に浮かんでいた。
はい
リオルは息を止めた。文字を読み間違えたのかと思い、もう一度目を凝らす。文字は変わらなかった。
ノエル「……リオくん?」
ノエルが、椅子の上で身を乗り出す。リオルの呼吸が止まっていることに、真っ先に気づいたようだった。
リオル「……返事が、来た」
声は掠れていた。何が来たのかまでは、まだ言葉にできない。
「はい」の文字が、静かに薄れていく。それと同時に、《鑑定応答》の見出しも消えていった。入れ替わるように浮かんだのは、見出しのない、ただの文字だった。輪郭が細く、書きかけの線のように震えている。
リオル「……本当に、聞こえてる、のか?」
きこえる
文字の並びが、一度大きく歪み、それからまた元の形に戻った。同じ四文字を、何度も上から書き直しているような揺れ方だった。
ノエル「何が……見えているんですか?」
リオル「文字が、揺れてる。うまく、形にならないみたいに」
リオル「……ずっと、そこにいたのか?」
わからない
「わからない」の字画のいくつかが、途中で途切れ、また繋がり直していた。答えを隠しているのではなく、答えの形をまだ保てずにいる――リオルには、そう見えた。
頭の中の文字が、輪郭を保てなくなっていく。それと同時に、空気そのものが、机の脇でわずかに歪んで見えた。埃の粒を乗せていたはずの光の筋が、その一点に集まり、渦を巻くように収縮していく。
ノエル「リオくん、あそこ……」
ノエルが、机の脇を指差す。リオルの頭の中だけの出来事ではなくなっている――そう気づくのに、瞬きひとつ分の間があった。
机の脇の空気が、一瞬だけひやりと重く沈んだように感じられた。冷えた金属に似た、乾いた匂いが鼻先をかすめた。積み上げられた記録紙の山の輪郭さえ、その一点だけ薄く透けて見える。
輪郭のなかった揺らぎが、まず幾筋もの光の帯となり、緩く波打ちながら形を結んでいく。銀色の髪だった。腰まで届く長さが、束ねられないまま背へ流れ、毛先が数本、頬にかかる形でふわりと落ち着いた。次に像を結んだのは、白い額と、その下の細い眉。閉じたまぶたの下で、瞳がまだ焦点を探すように小さく震えている。低い鼻筋、薄く閉じた唇――一つずつ、輪郭が透けた状態から、確かな陰影を持つ形へと変わっていった。
背丈は、リオルの胸のあたりにようやく届くくらいだった。細い首、華奢な鎖骨の窪み、そして胸元から膝下まで、装飾のない淡い灰白のワンピースの布地が、遅れて重みを持ち、静かに垂れ落ちていく。裾の下からのぞいた素足の指先が、床の冷たさを確かめるように、一度きゅっと丸まった。空気を押しのけるような、かすかな圧を肌に感じた直後――机の脇、何もなかったはずの場所に、少女が一人、立っていた。
誰も、動かなかった。
ノエルの手が、反射的に腰の短剣へ伸びる。得体の知れない何かが目の前に現れた――その事実だけが、まず体を動かしていた。リオルは、伸ばしかけていた両手を、宙で止めていた。窓の外では風の音が続いているのに、部屋の中の空気だけが、完全に凪いでいる。傾いた光が、少女の銀色の髪の輪郭を淡くなぞり、頬の丸みに小さな影を落としていた。埃の粒だけが、何事もなかったかのように、また斜めの光の筋の中をゆっくりと漂い始めている。
沈黙を破ったのは、少女の方だった。ゆっくりとまぶたが開き、灰色の瞳が、リオルの顔をまっすぐに捉える。
リオル「……待って、ノエル。多分、大丈夫だから」
鞘に触れたノエルの手が、止まる。それでも警戒は解かないまま、リオルの動きを目で追い続けていた。
少女は、おぼつかない仕草で右手を持ち上げ、リオルの方へそっと差し出した。何かを求めるでもなく、ただ確かめるような、迷いを含んだ動きだった。リオルは一瞬迷い、それから膝の力を抜いて椅子から立ち、少女の手を両手でそっと包み込むように握った。
柔らかい。
小さな手のひらは、驚くほどきめが細かく、指先までしっとりと滑らかだった。体温と呼んでいいだけの熱が、確かにそこに宿っている。少女は握られた自分の手をじっと見つめ、それから、その手をゆっくりと引き寄せる。導かれるまま、リオルの指先が、少女自身の頬に触れた。頬は驚くほど滑らかで、指先をそっと押し返すような、ほのかな弾力がある。ほんのりとした温もりが、そこに確かに宿っていた。指先を離せば消えてしまいそうで、リオルはしばらく、そのまま動けずにいた。
アイン「……リオル」
その一言だけで、リオルは膝から力が抜けそうになった。指先はまだ、頬に触れたままだった。離す理由が、見つからなかった。
ノエルの手が、短剣の柄からゆっくりと離れる。警戒より先に、戸惑いの方が勝ち始めていた。椅子を鳴らして立ち上がり、駆け寄りかけて、それでも二人の間合いを崩さないよう、一歩手前で足を止める。
リオル「……鑑定の、アインだよな?」
自分で聞いておきながら、リオルにもまだ、その答えの確信はなかった。
ノエル「……アイン、なんでしょうか」
ノエルの声が、かすかに揺れていた。伸ばしかけた手を、自分の胸元でそっと握り込む。
アイン「その名前、知ってる」
リオル「……そう、だよな。僕がつけた」
アイン「うん。覚えてる」
アインは自分の両手を持ち上げ、指先をゆっくりと開いたり閉じたりした。初めて手に入れた道具の使い方を確かめるような、そんな仕草だった。指の関節が一つずつ動くのを、灰色の瞳が、食い入るように追いかけている。
アイン「これ、わたしの、手」
リオル「うん。アインの手だ」
アイン「あたたかい」
アインはそう呟くと、その手のひらを目の高さまで持ち上げ、しばらく見入っていた。灰色の瞳が、わずかに揺れる。その指先の震えが収まってきたのを見計らって、リオルはようやく、確かめるべきことを口にした。
リオル「……つらいところ、ない?」
その問いに、アインはしばらく黙っていた。答えを探すように視線をさまよわせ、それでも、言葉はとうとう出てこなかった。
アイン「わからない」
それだけ言うと、アインは今度は自分から、手のひらをリオルの頬に寄せた。答えの代わりに、確かめるような仕草だけが返ってくる。
リオルは、何かを言おうとして、結局は何も言わなかった。代わりに、少しだけ膝を折り、アインと目の高さを合わせた。
ノエル「……立ったままでは、疲れてしまいますね。座りましょうか」
ノエルはそう言うと、震える手で椅子を引いた。長年、来客などなかった小屋の中に、椅子はリオルとノエルの分しかない。
リオル「あ……椅子、足りないな」
ノエル「用意しないといけませんね」
そう言うが早いか、ノエルはもう戸棚の方へ歩き出していた。使い慣れた手つきで、予備の毛布を取り出して手早く畳み直し、戸棚の脇に積んであった木箱を、椅子代わりに引き出してくる。
アイン「わたしも、ねむるの?」
リオル「アインは、どう? 眠くなったりする?」
アインは自分の瞼に指先をそっと当て、確かめるように、何度か瞬きを繰り返した。
アイン「……ねむい、かも」
その答えに、リオルとノエルは、思わず顔を見合わせた。
木箱に毛布を重ねてアインを座らせ、眠気の様子を見守っているうちに、傾いていた光はいつしか色を失っていた。窓の外はすっかり夕闇に沈み、積み上げられた記録紙の山も、輪郭だけを残して闇に溶けかけていた。誰かがそろそろ灯りを入れなければならない。三人分には、まだ足りない部屋の中で、誰にも答えの分からない問いだけが、静かに積み重なり始めていた。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
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