043
ファルドの学士棟、その一角にあるアデリナの書斎には、数日分の記録紙が机の上に扇状に広げられていた。窓から差し込む朝の光が、インクの匂いをわずかに温めている。棚の書物からは古い紙の香りが漂い、時折外の廊下を渡る足音が、静かな部屋にくぐもって届いた。
アデリナ「この数日、こめかみの熱そのものは落ち着いているようだね」
リオル「はい。観測ラインの方も、あれから安定して土地へ還っています。数字は地道に確かめているところです」
アデリナ「それは良い報告だ。だが、今日呼んだのはそちらの話じゃない」
アデリナは机の上の記録紙を指先で軽く叩いた。リオルは一瞬、視線を落とし、それから小さく息を吐いた。
リオル「……はい」
アデリナ「答えが来た後も、何かが続いている感覚、だったね」
リオル「はい。あと、もう一つ別の目で見てる感じも、たまに」
アデリナ「今日は、普段通りの簡単な鑑定を、いくつか試してもらいたい。負荷の大きい観測ではなく、あくまで答えの分かりきったものでいい」
リオル「わかりました」
ノエルは手元の帳面を開き、新しいページに日付を書き込んだ。
ノエル「私も、傍で様子を見ています」
硝子瓶、棚の古書、窓辺の鉢植え。三度試しても、返ってくるのはこれまで通りの平坦な答えだった。ノエルはその都度、帳面に淡々と数字を書き加えていく。ペン先の音だけが、静かな部屋にリズムを刻んでいた。
アデリナ「今のところは、これといって普段と変わらないようだね」
リオル「はい、僕もそう思います」
だが四度目、机の隅に置かれた古い燭台――蝋の垂れた跡が幾重にも重なった、使い込まれた品――に鑑定をかけたとき、リオルの手がわずかに止まった。
リオル「……あれ」
アデリナ「どうした」
リオルは瞬きを繰り返し、燭台を見つめ直した。答えが届くまでの間隔が、いつもよりほんの少し長かった。まるで、答えを取りに行く先が、いつもより遠い場所にあるかのような、そんな一拍だった。
リオル「今の答え……燭台のことだけじゃなかった気がする」
ノエル「それは、どういうことですか」
ノエルはペンを止め、いち早くリオルの顔を覗き込んでいた。
リオル「燭台の劣化具合と一緒に、なんだろう……別の場所の、何かの数字も一瞬流れ込んできた」
アデリナ「別の場所、というと?」
リオルは目を閉じ、今しがたの感触を辿るように眉根を寄せた。
リオル「わからない。でも、この部屋じゃない場所の……何か振動してるものの数字、だったと思う」
ノエル「振動、というと?」
リオル「規則的な感じだった。何かの脈みたいな……あの観測ラインの、管の光みたいな」
アデリナは眼鏡の位置を直し、身を乗り出した。
アデリナ「聞いてもいない情報が、答えの中に混ざり込んできた、ということかね」
リオル「たぶん……こんな感じは、初めてだと思います」
アデリナは羽根ペンの先で、机の端に置かれた記録の束を示した。この半年ほどの間に、リオルが積み上げてきた鑑定使用の記録だった。
アデリナ「たった半年で、万を超える回数を使い続けてきたんだ。それだけでも尋常じゃない。先日の本番接続では、短時間に今までとは桁違いの負荷が一気にかかったはずだ。積もり積もったものが、あの一度で溢れた、という可能性はないかね」
リオル「……そう言われると、思い当たる節はあります」
アデリナは記録紙の走り書きの間に、細い線を一つ、また一つと引いていった。
アデリナ「一つ一つを見れば、負荷の延長線上に見えなくもない。だが、こう繋いでみると――断定はできない。だが、少なくとも、ただ疲れて重くなっているだけでは説明しづらい」
アデリナは羽根ペンを机に置き、しばらく黙り込んだ。
アデリナ「だとすれば、これは負荷の話ではないかもしれない。量が増えて重くなっているのではなく……鑑定が答えを運んでくる経路そのものが、変わりかけているのではないかな」
リオル「経路が……変わる」
その言葉を、リオルは口の中で繰り返した。噛みしめるように、もう一度。
アデリナ「今までの君の鑑定は、君が問いを投げて、答えが一つだけ返ってくる形だった。だが今のは、君が問うていない答えまで届いている。まるで、同じ場所にもう一つ別の視点が重なっているような」
リオル「僕が《鑑定》を使って見てるだけじゃなくて……向こう側にも目があって、同じものを見てる、みたいな」
アデリナ「なるほど、言い得て妙かもしれないね」
ノエルは帳面を胸に抱え、リオルの顔から目を離さずにいた。
ノエル「今日のところは、これ以上はやめておきましょう」
リオル「うん……そうだね」
アデリナ「賛成だ。今日分かったことだけでも、十分すぎるほどの収穫だよ。経路が変わりかけているとして、それが何に繋がる話なのか、今の私にはまだ何とも分からない。だが、注意深く見ていく価値のあることだけは確かだ」
リオル「はい……お願いします」
学士棟を出ると、日はまだ高く、乾いた風が通りを吹き抜けていた。いつもと変わらない街の光景のはずなのに、今日はどこか一枚薄い膜を隔てて見ているような気がした。
ノエル「別の目で見ている、なんて言われると……正直、少し怖いです」
リオル「うん。僕も、怖くないと言ったら嘘になる」
ノエル「でも、怖いだけじゃない気もするんです。警戒だけしていればいい、というものでもない気がして」
リオル「うん。だから余計に、どう構えたらいいのか、まだよく分からない」
ノエルは足を止め、リオルの顔をまっすぐに見た。
ノエル「私は、それがどんなものであっても、リオくんの隣にいます」
リオル「うん。ありがとう」
その一言に、リオルの肩からわずかに力が抜けるのが分かった。
朝の光は、まだ弱く白い。数日後、研究小屋の食卓には、パンと干し肉、湯気の立つ薬草茶が並んでいた。窓の外では、庭先に並べた鉢植えの緑豆が朝露を弾き、葉先にひとつぶずつ光を宿している。こめかみの熱はすっかり引いていたが、リオルはまだ、時折自分の手のひらを見下ろす癖がついていた。
ノエル「今日は、いい天気ですね」
リオル「うん。窓を開けると、風が気持ちいいくらいだ」
リオルは薬草茶に口をつけた。そのときだった。掌に伝わるカップの温かさの奥で、何かがひとつ、脈打った気がした。等間隔の、規則的な脈。指先ではなく、もっと奥――頭の芯のあたりで感じるような、そんな感触だった。
リオル「……あれ」
ノエル「どうかしましたか?」
カップを持つ手が、わずかに止まっていた。
リオル「ごめん、なんでもな……いや」
なんでもないと言いかけて、リオルは言葉を止めた。こめかみに伸ばしかけた手を、《鑑定》を使おうとした指先ごと、そのまま下ろす。確かめたい気持ちより先に、まず言葉にしてみようと思った。
リオル「今、一瞬……何かが脈打った気がした。前に見た、あの管――逆向きに脈打ってた、土地に還り始めてるっていう、あの管に近い感じ」
ノエル「他には、何か分かりますか?」
リオル「うーん……分からない。ただの脈というだけでもない気がするけど、うまく言葉にできなくて」
ノエルはカップを置き、姿勢を正した。
ノエル「今、鑑定は使いましたか?」
リオル「ううん。使ってない。使おうとして……やめた」
その答えに、ノエルは小さく息をついた。安堵とも違う、見極めるような間だった。
ノエル「珍しいですね。リオくんが、確かめる前に止まるなんて」
リオル「うん……なんでだろう? 今回は先に、ノエルに聞いてほしいと思った」
ノエルは少しの間、リオルの顔に見入っていた。それから、静かに頷く。
ノエル「アデリナ様が言っていた、経路が変わりかけている、というお話……あれと関係あるんでしょうか」
リオル「たぶん、そうだと思う。今までは、僕が問いを投げて答えが返ってくるだけだった。でも今のは、何も聞いてないのに向こうから来た」
ノエル「それが、外の出来事と繋がっているかもしれない、ということですね」
リオル「うん。だから、確かめたい……けど、一人で鑑定だけ使って終わらせるのは、なんか違う気がする」
ノエルはしばらく黙って考え込み、それから顔を上げた。
ノエル「行ってみましょうか? ちょうど、今日は予定もありませんし」
リオル「うん……お願いできるかな」
ノエル「もちろんです。一人で行かせるつもりはありませんから」
二人は手早く身支度を整え、研究小屋を出た。丘をふたつ越え、遺跡の入り口に着く頃には、日はすでに西へ傾き始めていた。地脈調律塔へ続く階段を下りるたび、空気の匂いが変わっていく。苔むした石の匂いに、湿った土の気配が混じり、今日はそれに混じって、どこかでぽたり、ぽたりと水滴の落ちる音がしていた。
リオル「……着いた」
ノエル「静かですね。いつもより」
二人は灯りを頼りに、さらに奥へと進んだ。壁沿いを歩くリオルの視線が、床際で不意に止まる。
リオル「……あの管だ」
ノエル「本当に、脈が変わっているように見えます」
床際を這う一本の管は、前に見た時よりも、心なしか速く脈打っていた。リオルはしゃがみ込み、管に触れようとした指先を、また途中で止めた。
リオル「……今日は、鑑定しないでおく」
ノエル「今は、見るだけで十分だと思います」
リオルの指先が、無意識にこめかみへ動きかけた。だが触れる前に、自分でその手を握り込んで止める。
リオル「……危なかった。癖で、動きかけてた」
二人は灯りを掲げ、隣の壁沿いへ移動した。少し先の別の管にも耳を近づける。
ノエル「隣の管は、変わった様子がありません」
リオル「じゃあ、ここだけ……この管だけで起きてることなのかな」
二人はさらに奥へ進み、反対側の壁沿いも一通り確かめて回った。だが脈が変わっているのは、最初のこの一本だけだった。
その事実に、リオルは少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。正体は分からないが、少なくとも今この瞬間、手に負えない速さで広がっているわけではない。
二人は最初の管の前に戻った。ノエルがそのそばに膝をつき、脈の間隔に耳を近づける。
ノエル「音も、少しだけ違う気がします。前より、間隔が詰まっているような」
リオル「え……そうなの?」
ノエル「はい。数えてみたら、ひとつ分くらい速いです」
リオルはノエルの隣にしゃがみ、同じように耳を澄ませた。確かに、記憶にある脈より、わずかに忙しない気がする。
リオル「さっきの脈と、今のこれ……たぶん、同じだ」
ノエル「観測ラインの向こう側で、何かが本当に起きていたんですね」
リオル「うん。僕が聞く前に、向こうから来た」
言ってから、リオルは自分の手のひらを見下ろした。今まで、鑑定は自分が問いかけて初めて動くものだった。今日のは、誰にも呼ばれていないのに、勝手にやってきた。
リオル「これ以上は、僕らだけじゃ判断できないと思う。今日は、これでいいと思う。書き留めるだけにしよう」
ノエル「アデリナ様には、後日お伝えしましょうか?」
リオル「うん。急ぎではないから、次に会う時でいい」
ノエルは帳面を取り出し、管の脈の速さを手早く書き留めた。
ノエル「怖いですか?」
リオル「……少しだけ。でも、それだけでもない」
リオルは膝の土埃を払い、立ち上がった。灯りに照らされた管の脈を、もう一度だけ見やる。
ノエルは帳面を閉じ、代わりにリオルの手をそっと握った。
ノエル「約束ですよ」
リオル「うん、約束する」
管の脈は、二人が見つめる間もゆっくりと形を変えていた。何がこの断片を運んできたのか、リオルにはまだ、見当もつかなかった。ただ、今日はそれを追いかけずに、そのまま帰ろうと思った。
遺跡を出ると、日はほとんど沈みかけていた。空の端に残る茜色が、二人の影を長く伸ばしている。乾いた風が、来た時よりも冷たく感じられた。ノエルは小さく笑い、リオルの隣を歩き出した。二人分の足音が、夕暮れの丘に静かに重なっていく。研究小屋の灯りが、丘の向こうに小さく見え始めていた。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
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