039
翌朝、宿を出るころには雨はすっかり上がっていた。ロウディアへ向かう街道は乾き始め、荷馬車の轍の底にだけ、まだ水が薄く残っている。
ノエル「今日は明るいうちに戻れそうですね」
リオル「うん。……行こう」
観測施設の入口をくぐり、台座の並ぶ大広間を抜け、見慣れた壁面装置の脇を回り込む。その先に、あの通路がある。
通路の入口に立った瞬間、空気の質が変わった。ここから先は、まだ誰にも意味を確かめられていない場所だ。記憶にあるままの冷えた空気に混じって、奥から土埃の匂いが漂ってくる。かすかな金気も感じた。長く空気が動いていない場所特有の、重たい静けさだった。足を踏み入れると、床のざらつきが靴底を通して伝わってくる。声を出すと、思ったより近くで反響が返ってきた。天井が低いせいだ。壁に触れると、指先にひんやりとした湿り気が残った。
ノエル「思ったより、狭いんですね」
リオル「うん。灯りも最低限にしよう。……行くよ」
リオルは魔石灯を軽く掲げ、先に進んだ。壁は石積みだが、観測施設本体の滑らかな仕上げとは違い、粗い。急いで、あるいは間に合わせで作られた印象があった。通路の突き当たりに、扉ではなく格子状の仕切りがあった。錆びてはいるが、崩れてはいない。手をかけると、思ったより軽い音を立てて開いた。その奥に、小さな部屋がある。
部屋の中は、思っていたよりも整然としていた。荒らされた形跡はない。棚には巻物と木箱が並び、中央の台には、古びた装置がひとつ据えられていた。丸い受け皿がふたつ、短い管でつながっている。空気は乾いており、魔石灯の光を受けて台の表面がわずかに鈍く光った。
ノエル「ここだけ、時間が止まっているみたいですね」
リオル「うん……誰も手を触れてない場所、って感じがする」
中央の台に目が留まった瞬間、リオルの足が止まった。
リオル「……これ」
声が掠れた。二つの器、それをつなぐ管。アデリナが宙に描いてみせた図と、同じ形をしている。
ノエル「転写の装置、でしょうか」
リオル「たぶん。片方が壊れてる。……欠けてるっていうか、抜き取られてる、って感じかな」
リオルは膝をつき、装置に顔を近づけた。片方の受け皿の縁が不自然に平らに削れている。壊れたのではなく、意図的に外された痕だ。
リオル「これ、盗まれたんじゃなくて、外して持ち出された、って感じがする。誰かが必要になって、片方だけ取っていったんじゃないかな」
ノエル「もう片方は、今もどこかにある、ということですね」
リオル「あるといいけど……正直、まだ何とも言えないかな」
ノエルは受け皿の縁に指を近づけ、触れる寸前で止めた。灯りに照らされた削り跡が、荒く不揃いに並んでいる。
ノエル「持ち出した跡が、ずいぶん急いでいるように見えます」
リオル「うん。丁寧な仕事じゃない。余裕がなかったんだと思う」
棚の木箱を、ノエルが慎重に開けた。中には巻かれた紙束。文字は古いが、以前この通路の入口で見た刻字より保存状態がいい。
ノエル「……古代ファルド語です。読めますが、専門用語が多くて、時間がかかりそうです」
それでもノエルは、一枚だけ丁寧に指でなぞりながら読み進めた。
ノエル「……『器を、遠くへ』……『満たすためではなく、繋ぐために』……このあたりまでは読めますが、この先は文字が擦れていて」
リオル「繋ぐために、か」
リオルはその一文を紙に書き写した。満たすためではない。奪うためでもない。ただ、繋ぐため。ダーヴェル家が最初に思い描いていたものが、少しだけ輪郭を持った気がした。
ノエル「奪うための術式ではなかった、ということですね」
リオル「うん。だからこそ、後から吸い上げに使われたのが、余計に間に合わせっぽく見えるんだと思う」
リオルはその場で《鑑定》を起動し、装置と紙束の両方に意識を向けた。
《鑑定応答》
・主因推定:対の器を用いる転写術式の実機と、関連記録の一部。片方の器は後年に取り外された痕跡があり、現存しない
・推奨次手:記録の解読と、失われた片方の器の代替(または再現)の検討
・注意喚起:現存する器のみでの単独運用は想定されておらず、単体での使用は避けるべき
リオル「たぶん、抽出のための機構って、この部屋を流用して作られたわけじゃないと思う。むしろ逆で……片割れが移植されて、吸い上げに転用されたんだと思う」
ノエル「ダーヴェル家がやろうとしてたのは、ここから別の場所へ魔力を移すことだった、ということですね」
リオル「たぶん。うまくいかなくて、片方だけ持ち出して、外の観測ラインに繋いだ」
リオルは装置には手を触れないまま、紙束を布で包み、鞄にしまった。壊れかけた器を、この場でいじる度胸はまだない。棚に残された木箱や巻物にも、まだ目を通しきれていないものがあったが、今日はここまでにしておく。
リオル「……よし。持ち帰ろう」
それから数日は、記録の写しを持ってファルドとロウディアを行き来する日々になった。ノエルが読み進めた断片をアデリナに見せ、装置の寸法を伝え、魔石の相場をバルムに確認する。宿の一室で紙とにらめっこする夜もあれば、遺跡の部屋に戻って装置を測り直す日もあった。街道を何度も往復するうちに、轍の窪みの形まで覚えてしまうほどだった。地道な作業ばかりで、劇的な進展はなかったが、そのぶん一つずつ手応えは積み上がっていった。
三たび訪れた第七研究室は、以前と変わらず走り書きの山に埋もれていた。アデリナは記録の写しを一読するなり、眼鏡の奥の目を細めた。
アデリナ「転写の器か。……ちょうどいい。こちらも、保留にしていた記述の裏が取れた」
リオル「もう一つの記述、というのは」
アデリナ「代官家の紋章録の余白に、走り書きが残っていてね。『器、片方持ち出す。戻す当てなし』とある。日付からして、ダーヴェル家が没落する直前のものだ」
その一文に、リオルは息を止めた。失敗の顛末が、当人の手によって書き残されていた。責める言葉も、言い訳の言葉もない。ただ事実だけが、短く記されている。
ノエル「持ち出した本人が、そう記していたのですね」
アデリナ「ああ。戻す当てがなかった、というのが本当なら、器はどこか別の場所に置き去りにされたままの可能性が高い。今回はそこまで探る余裕はないだろうがね」
リオルは走り書きの一文を、もう一度目でなぞった。
リオル「戻す当てがなかった、か。よっぽど切羽詰まってたんだと思う」
アデリナ「だろうね。もっとも、それが誰への言い訳だったのかまでは、この余白からは読み取れないが」
アデリナは装置の図面を睨みながら、指で寸法を測る仕草をした。走り書きの隅に、いくつもの計算式が並んでいく。
アデリナ「欠けている方は、魔石を核にして鋳直せば形は作れる。ただし、対になる器同士の質を揃えないと、転写そのものが安定しない」
リオル「同じ質の魔石を、まとめて用意する必要がある、ということですか」
アデリナ「そういうことだ。純度も粒の大きさも、できるだけ揃えたものがいい」
ノエルは手元の帳面に「魔石・質を揃える」と書き加えた。
ノエル「まとまった量となると、値も張りそうですね」
アデリナ「安くはないだろうね。鋳直しの型はこちらで用意しておこう。型さえあれば、あとは根気の問題だ」
リオルは紙に「魔石調達」「鋳直し」「対の質を揃える」と書き足した。まだ手順は粗い。それでも、やることの輪郭は、日に日にはっきりしてきていた。
アデリナ「急ぐ気持ちはわかるが、ここで雑にやれば、せっかく見つけた器まで壊しかねない。準備が整ったら、また来るといい」
リオル「はい。……ありがとうございます」
アデリナ「礼はいい。こっちも、片付いていない話が一つ片付いただけの話だ」
そう言って、アデリナは走り書きの紙を丁寧に重ね、机の端へ寄せた。眼鏡の奥の目は、もう次の計算に向かい始めている。
研究室を出ると、ノエルが小さく息をついた。
ノエル「随分と、やることが増えましたね」
リオル「うん。でも、何をすればいいかがわかってきた。前より、ずっといい」
その足でガンザック商会にも顔を出した。応接室の椅子に腰を下ろすと、バルムは帳面を繰りながら、必要な量と質を書き出した紙に目を通した。
バルム「質を揃えて、この量か。……悪くない値になるが、構わないかね」
リオル「……正直、余裕があるとは言えませんが。支度金と、今までの依頼で貯めた分でなんとか」
バルム「無理はするな。半端な質で妥協すれば、結局二度手間になる商売もある」
リオルは懐から革袋を取り出し、中身を確かめながら机に置いた。バルムはそれを一瞥し、帳面に短く書き足す。
バルム「……確かに。数日で揃えておこう」
リオル「助かります」
バルムは帳面を閉じ、指先で軽く机を叩いた。
ノエル「相変わらず、目端の利く方ですね」
バルム「そちらの狙いまでは知らんが、荒れた領地を立て直そうとする客は、嫌いじゃないだけだ」
商会を出る頃には、日はもう傾いていた。石畳を茜色に染める光の中、荷運びの声もいつしか静まり、通りは家路を急ぐ人々の足音だけが静かに残っている。帰り道、リオルは鞄の中の紙束を確かめた。器を、遠くへ。繋ぐために。まだ読み切れていない記録と、鋳直しの手順と、選び直す魔石。積み上がった課題は多いが、もう足踏みしている感覚はなかった。
リオル「次は、実際にやってみよう」
ノエル「はい。そろそろ、動き出すときですね」
リオル「うん。……ちゃんと形にしよう。繋ぐために作られたものを、ちゃんと繋いでみせる」
空を仰ぐと、夕暮れの色がゆっくりと濃くなり始めていた。ここまで積み上げてきた仮説と、手元に揃いつつある材料。足りないものは、まだいくつもある。それでも、あとは一つずつ形にしていくだけだった。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
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