038
研究小屋の机には、書き写した紋章の図案と、記録端子の数値をまとめた紙が広げてある。何度も目を通すうちに、リオルはようやく言葉にした。
リオル「……やっぱり、いけそうな気がするな」
声に出すと、ずっと引っかかっていた感触が、輪郭を持って収まる場所を見つけたようだった。あとは、この手応えを言葉と数字の両方で誰かに預けられる形にすることだ。
戸口が軽く鳴った。ノエルが盆を抱えて入ってくる。
ノエル「もう紙とにらめっこしているなんて、今日は気合いが入ってますね」
リオル「うん、早いうちにアデリナさんのところへ行きたくて」
ノエルは盆を置き、リオルの手元の紙を覗き込んだ。図案の線をなぞる視線が、少し止まる。
ノエル「例の、逆に流せるかもしれないというお話ですね」
リオル「うん。観測用の流路は、情報を運ぶことしか考えられてないんだと思う。方向を固定してるのは、後から付け足された機構の方だけなんじゃないかな」
ノエル「では、その機構の側さえどうにかできれば、道そのものは使えるということですね」
リオル「たぶん。でも、そのためには機構がどこまで負荷に耐えられるか、ちゃんとしたデータがいる。今のままだと、勘で試すのと変わらないと思う」
リオルは紙の端に書き足した数字を指でなぞった。安定した電力源、機構の耐性データ。帰り道でノエルと整理した課題が、そのまま今の輪郭になっている。
リオル「もし逆に流したとき、機構が保たない可能性もあると思う。壊れて終わり、ってことも十分あり得るんじゃないかな」
ノエル「それでも、確かめる価値はあるとお考えなのですね」
リオル「うん。今のままだと、土地は吸われ続けるだけだから。可能性があるなら、ちゃんと調べる方がいいと思うんだ」
ノエル「わたしたちだけでは、耐性データを取る手段が足りませんものね」
リオル「うん。今回引っかかってるのは、結局『流れ』の話だから。魔力流体の計算を専門にしてるアデリナさんなら、理屈の面からちゃんと見てくれると思うんだ」
二人は身支度を整え、屑魔石の入った布袋と紋章の写し、記録端子の数値をまとめた紙束を鞄に詰めた。街道を進むにつれ、丘陵の緑が徐々に色を変えていった。遠くから鍛冶場の槌音が規則正しく響き、風向きが変わるたびに、パンを焼く匂いがふわりと鼻先をかすめる。学士棟は相変わらず人通りが少なく、乾いた風が石畳の隙間を鳴らして通り過ぎていった。第七研究室までの階段は、もう勝手知ったる道になっていた。
扉を叩くと、少し間を置いて素っ気ない声が返ってくる。
アデリナ「開いてるよ」
中に入ると、机の上には計測器と魔方陣の走り書きが山になっていた。アデリナは眼鏡を押し上げ、書類から顔を上げる。
アデリナ「……リオル君か。何日ぶりかね。今日は何を持ち込んだ」
リオル「観測データと、仮説をひとつ。時間、大丈夫ですか」
リオルは紙束を机に広げた。記録端子の数値、流路の構造図、そして整理した仮説の要点。アデリナの視線が数字の並びで止まった。
アデリナ「0.837、か。……これは意図的に絞った値だね。設計上の丸め誤差じゃない」
リオル「はい。それで、この流路なんですけど。片道でしか流れない構造なら、理屈の上では逆にも流せるはずだと思うんです」
アデリナ「旧アルドリッジの流体保存則を知っているかね。流路そのものに方向性はなく、方向を決めているのは常に境界条件の側だ、という古い定理だ。君の仮説は、それをなぞっている」
リオル「その定理は、初めて聞きました」
アデリナ「珍しくはない。理論としては百年以上前からある。ただ、実機でそれを検証した記録は少ない。流れを無理に逆へ向けると、想定していない箇所に力が集中しやすい。危険が大きいからね」
リオルの頭の中で、その説明が別の形に変換されていく。方向を決めるのは通路そのものではなく、その両端に置かれた取り決めの方だ。すでにここにあった理屈に、前世の記憶がようやく追いついただけだった。
ノエル「では、理屈は間違っていない、ということでしょうか」
アデリナ「理屈は、ね。だが理屈が通ることと、装置が耐えることは別の話だ。負荷を逆にかければ、想定していない箇所に応力が集中する。壊れて終わり、という可能性は普通にある」
リオル「だから、耐性データが欲しいんです。どのくらいの負荷まで、機構が持つのか」
アデリナ「なら方法はある。現物を壊す前に、同型の素材で模擬試験をやればいい。屑魔石を使った小規模の負荷試験だ。判断の指標は主に三つ。破断までの負荷量、逆流時の魔力損失率、それから発熱の具合」
リオルは三つの指標を紙の隅に書き留めた。
リオル「三つとも記録して、傾向が揃うか確かめるってことですね」
アデリナ「そういうことだ。数字が一致すれば信頼できる。ばらつくようなら、条件のどこかが間違っている」
話が一区切りついたところで、リオルは鞄の底からもう一枚の紙を取り出した。紋章の写しだった。
リオル「もうひとつ、見てほしいものがあるんです」
アデリナは紙を受け取り、机の上に置いたランプの下にかざした。眼鏡を外し、代わりに小さな拡大鏡を取り出す。
ノエル「遺跡の改造区間で見つけた紋章です。摩耗していて、はっきりとはわからないのですけれど」
アデリナはしばらく黙ったまま、図案の線を目で追っていた。指先が紙の縁で止まる。
アデリナ「……この鍵の向き、見覚えがある気がするね」
リオル「本当ですか」
アデリナ「断言はしない。ただ、意匠から辿れるのは持ち主の名前だけじゃない。代々どんな系統の魔術を扱ってきた家か……それがわかれば、この改造がどういう技術で行われたのか、見当がつく」
リオルはその場で《鑑定》を起動し、紙そのものに残る微弱な魔力の痕跡を確かめた。
《鑑定応答》
・主因推定:紙面に残る反応は転写時の残留魔力の可能性が高いが、原本由来の痕跡が混在している可能性も否定できない
・推奨次手:原本の再鑑定と書庫記録との照合を並行して進める
・注意喚起:現状のサンプルのみでは家紋の特定に足る精度がない。断定は避けるべき
アデリナ「鑑定した上でその答えかね。慎重なことだ」
リオル「まだ、これだけじゃ何とも言えないと思って」
アデリナ「その判断は正しい。……いいだろう、書庫を洗ってみる。三日だ。三日待ってくれれば、代官家の紋章録との照合結果を出す。耐性データの方も、並行して進めておこう」
リオル「……ありがとうございます」
アデリナ「礼はいい。……こっちも、気になって放っておけないだけだ」
研究室を出る頃には、窓の外の日差しが傾き始めていた。
リオル「三日、か」
短いようで、長い三日になる気がした。
三日という約束は、思ったより忙しく過ぎていった。初日はガンザック商会に寄り、屑魔石の追加を頼んだ。二日目は宿にこもり、耐性試験の指標を見返しながら、逆流仮説の弱点を洗い出す作業に費やした。窓の外では雨が降ったり止んだりを繰り返し、部屋の中には紙の擦れる音とペン先の音だけが積み重なっていった。
三日目の朝、学士棟へ向かう坂道の空気は、前回よりも湿り気を帯びていた。夜のうちに降った雨の匂いが石畳の隙間から立ち上り、踏むたびに濡れた砂の感触が靴底に伝わってくる。遠くで水を吐き出す樋の音が、途切れがちに響いている。
ノエル「今日は足元、気をつけてくださいね」
リオル「うん、平気。……それより、アデリナさんの方、どうなってるかな」
第七研究室の扉を叩くと、返事はいつもより早かった。
アデリナ「開いてる。待っていたよ」
中に入ると、机の上にはいつもの走り書きに加え、見慣れない台帳が広げられていた。
アデリナ「まず耐性試験だ。軽負荷の一条件だけ済ませた。破断はしていないが、発熱がわずかに想定より高い。……まだ結論を出せる段階じゃない」
リオル「わかりました。他の条件も、引き続きお願いします」
アデリナ「それと、ついでと言っては何だが……紋章の方も、当たりがついた」
リオル「……本当ですか」
ノエルが息を止めるのが、隣で伝わってきた。
アデリナ「代官家の紋章録に、同じ意匠があった。円と鍵――ダーヴェル家という家名だ。今は名前もほとんど残っていない、廃絶した家系だよ」
名前を聞いた瞬間、部屋の空気が一段静かになった気がした。
リオル「……随分昔に、途絶えた家なんですね」
アデリナ「ああ。任官領の記録によれば、数代のうちに成果を出せず、後継も絶えた。この家系は代々、魔力の抽出と転写を専門にしていたらしい」
リオル「抽出と、転写……」
声に出した瞬間、指先の動きが止まった。抽出だけなら、遺跡の後付け機構がなぜ生まれたか説明がつく。だが転写、という言葉だけが、うまく畳み切れないまま指先に残っていた。
リオル「転写っていうのは、具体的にはどういう術式なんですか」
アデリナ「簡単に言えば、魔力の流れをそのまま写し取り、別の場所へ移す技術だ。水を汲んで別の桶に注ぐようなものだと思えばいい。ただ、対になる器を両方きちんと用意しないと成立しない術式でね。今はほとんど廃れているがね」
リオル「移す……それって、方向を変えることとは違うんですか」
アデリナ「似ているが同じじゃない。方向を変えるのは流路そのものの話だ。転写は、流れの性質を保ったまま器を移し替える話だよ」
リオルは紙の余白に、円が二つ並んだ図をそのまま書き写した。壊すのではなく、移す。同じ強引さを、もっと穏やかな形に置き換えられないだろうか。
リオル「じゃあ、逆流を試すより……いや、待って」
一度言いかけた言葉を、リオルは自分で止めた。
リオル「転写の方が、装置への負担は小さいってことですか」
アデリナ「理屈の上ではね。ただし、転写の術式そのものが今は失われている。理屈だけあっても、手段がなければ絵に描いた餅だ」
リオルはその場で《鑑定》を起動し、台帳のページ自体に触れてみた。
《鑑定応答》
・主因推定:台帳の記述は転写・抽出系統の術式に関する記録の抜粋であり、原本ではなく写しの可能性が高い
・推奨次手:原本の所在確認、および転写術式と逆流仮説の技術的関連性の検証
・注意喚起:情報量が少なく、断定的な結論は避けるべき
数字が出ないまま、感触だけが残った。それでも、リオルの中では仮説が一段階組み替わっていた。転写の術式そのものが台帳から失われているなら、それを行うための道具や記録は、この台帳の外――現地にこそ残っている可能性がある。
リオル「逆に流すことだけを考えてたけど、もしかしたら、流れをそのまま別の器に移す方が安全なのかもしれない」
ノエル「壊すのではなく、行き先を変える、ということですね」
リオル「うん。まだ全然わからないけど、ダーヴェル家がやろうとしたことの中に、そのヒントがあるのかもしれない」
ノエルは台帳の古い字面をじっと見つめていた。
ノエル「……ダーヴェル、家」
その響きを口の中で確かめるように呟く。だが、何かに思い当たった様子はなかった。ただ、視線だけが台帳の上でしばらく動かずにいた。指先が、開かれたページの端をそっと押さえている。
リオル「ノエル?」
ノエル「……いえ。存じ上げない家名です。それだけなんですけれど」
リオル「そっか」
問いを重ねるのは、また今度でいい。リオルはそう判断し、アデリナの話に意識を戻した。
アデリナ「……もう一つ、気になる記述があった。だが、まだ裏が取れていない」
リオル「気になる記述、ですか」
アデリナ「ああ。だが憶測で話すのは性に合わない。もう少し確かめてから伝えるよ」
それ以上は聞いても答えないだろうと、リオルにはわかった。
アデリナ「耐性試験の残りの条件も進めておく。次に来るときまでには、両方とも形にしておこう」
リオル「ありがとうございます。……こっちも、少し考えたいことができました」
研究室を出ると、廊下の窓から差し込む光が、来たときよりも白く強くなっていた。雨上がりの空気が、建物の中にまでうっすらと入り込んでいる。
ノエル「考えたいこと、というのは」
リオル「うん。転写の話。もし流れを移し替える技術が本当にあったなら、その痕跡はどこかに残ってるはずだと思うんだ」
リオルは階段を降りながら、瞼の裏に遺跡の見取り図を思い描いていた。観測ライン、改造の跡、紋章の出処。外側から一つずつ潰してきて、残っているのは、あの通路だけだ。
リオル「……管理区域、行ってみようと思う」
声に出すと、輪郭がはっきりした。今まで足踏みしていた理由が、ようやく消えていく感覚だった。
ノエル「今日、すぐにでしょうか」
リオル「ううん、今日はまず宿に戻ろう。準備もいるし……何より、ちゃんと考えをまとめてから行きたい」
ノエル「そうですね。慎重に進めましょう」
学士棟を出ると、雨上がりの街に西日が差し込んでいた。濡れた石畳が橙色に染まり、水たまりの一つ一つが小さな光を映している。軒先から滴る雨垂れの音が、通りのざわめきの隙間にぽつぽつと響いている。
隣を歩くノエルの横顔を、リオルは一度だけ見た。台帳を見つめていたときの、あの沈黙がまだ頭の隅に残っている。いつかは聞かなければならない気がしていた。だが、それは今日ではない。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
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